セツナが、いかにも焼け出されてきたばかりだとでも言いたげな人々に、なんとも言いようのない沈痛な面持ちになったのは、中天にあったはずの日がわずかに傾きかけた頃合だった。
散々迷ったものの、皇魔に遭遇するようなこともなく、無事に、陰鬱な森から抜け出すことに成功したのだ。時間はかかったが、体力自体は特に消耗せずに済んでいた。
森の外には、広大な天地がその眩いばかりの輝きを見せつけるかのように広がっており、澄んだ空気と、たおやかな風は、森の中では考えられないほどに清清しかった。そして、地平の果てまで続く大地、西班牙蒼蝿水遥か頭上を埋め尽くすあざやかな群青――それは、まさに夢に描いたファンタジーの世界だった。
セツナの気持ちが異常なまでに盛り上がったのは、無理もなかったのかもしれない。
奇声を上げながらとてつもない勢いで駆け出したセツナが、いくつもの冷ややかな視線を浴びたのもまた、当然の帰結であろう。
それは、森の脇を通る街道での出来事だった。街道とはいうものの、平原との違いなどほんの些細なものであり、注意していなければそれと気づかないほどの変化だった。
それは、決して狭くはない街道の両脇に、奇妙な形状の石柱が点在する、という程度のものだ。道路そのものも、一応は整備されているのだろう。剥き出しの地面は、雑草を刈り取った証明に他ならない。
その街道の石柱の前に、彼らはいた。数十人の老若男女。焼け焦げた人たち、という表現はあながち間違っていなかったし、セツナのわずかばかりの語彙では、それ以外に彼らを表現する方法はなかった。
この世界の人間と対面するのは、アズマリア=アルテマックス以外では初めてだった。しかし、緊張は覚えなかった。白い目で見られたのだ。もはや、セツナには、開き直るしかなかった。
そして、あの言葉である。なぜ、そんな言葉で話しかけたのか、セツナにもわからなかった。しかし、口をついて出たセリフを後になって取り消すことなどできないのだ。時計の針は、進んでいく。
「いや、まあ、あんたのほうこそだいじょうぶか?」
むしろこちら以上に痛々しそうに言葉を返してきたのは、初老の男性だった。中肉中背、これといった特徴のない老人の全身を包む衣服は焼け焦げ、なにか火災にでも遭った直後のように見えた。それは、その老人だけではない。老人の背後に隠れた男の子も、こちらを興味深げにこちらを見る女性も、疲れきったようにうなだれる青年も、ひとりを除いて、だれもが火災現場から逃げ出してきたかのようだった。
(わかってたことだけどさ)
セツナは、老人に対して引き攣った笑みで応えながら、内心、愚かな過ちを犯した己のうかつさを呪っていた。この失態は、もう取り戻せないだろう。彼らの記憶には、奇声を上げて走り回っていた危ない男として刻まれるのだ。永遠に。
元はといえば、森を抜けた先に広がっていた光景に浮かれすぎた自分の青さが悪いのだ。だれかに怒りをぶつけることなど許されない。
こうなれば、自棄である。
「ええ、ダイジョウブデス」
セツナは、ぐっと親指を突きだすと、勤めて爽やかに笑った。あまつさえ、磨き抜かれた歯を輝かせて見せる。無論、みずからの意志でそこまではできない。要は、気の持ち様なのだ。歯が輝くと思えば輝いているはずであり、爽やかさを意識すれば爽やかになるはずなのだ。
「うわ。きもっ」
要は、気の持ち様なのだ。少女の正直な感想も聞こえなかったと思えば聞こえなかったことになるはずであり、ただ痛々しいまでの白眼視など、存在しないも同然なのだ。
「なにあのお兄ちゃん、怖いよ〜」
幼女の泣き声もまた、小鳥の囀りと同義であり、
「最近の若者の考えることはわからん。さっぱりわからん」
老人の呆れたつぶやきさえも、耳鳴りの如き幻聴に過ぎない。目の前の現実はたゆたう幻想であり――つまりここは幻想郷なのだ。そう、確かアズマリアも言っていたはずだ。ここは幻想領域だと。
よって、すべては一時の夢に過ぎないのだ。
「よし、勝った!」
だれとはなしに宣言して、セツナは、空を仰いだ。吹き抜ける風が、どこか寒々しいのはきっと気のせいだろう。
沈黙。
だれもが、唖然としていたのだろう。気配だけで把握する。
セツナは、圧倒的な敗北感に打ちのめされながら、こほん、と軽く咳をした。そんなもので失われたものの半分も取り戻せるなどとは思ってもいないのだが、それでも、仕切りなおすにはなんらかのアクションが必要だろう。
「あんた、本当にだいじょうぶか? 医者にでも見てもらったほうがいいんじゃないのか?」
「いやいやいやいや! それを言うならあんたらの方じゃないか」
心の底から心配そうに尋ねてきた心優しい老人の言葉に、セツナは、全力で首を横に振った。見回す。ついさっき焼きだされてきたのだ、と全身で主張する人々には外傷らしい外傷は見受けられない。
しかし、心配にはなるものだ。
セツナは、自分に他人を気遣う余裕があることに驚きながら、目の前の老人に視線を戻した。
「なにかあったんデスカ?」
敬語、などという使い慣れない言葉遣いを、それでもなんとか搾り出す。実生活で敬語で話すことなんてほとんどなかったのだ。そして、あの世界に於いてはそれでよかった。なにかに気を使う必要などなかった。
「街が燃えたの!」
叫ぶように言ってきたのは、見た目十歳足らずの少女だった。さっきまでは母親らしき女性の背後から恐る恐るといった様子でこちらを覗いていたのだが、いつの間にかセツナの足元にまで近づいてきていた。
「突然ね、真っ赤に燃えちゃったの!」
セツナは、みずからの目線を少女のものと合わせるために屈みながら、彼女の恐怖に引き攣りながらも懸命に堪えている表情に胸を打たれていた。燃える街の光景でも、思い出しているのだろう。子供じゃなくても恐ろしい光景に違いない。それでもなおセツナに伝えてくれたのは、なぜなのか。
そればかりは少女ならざるセツナにわかるはずもなかった。
「街が燃えた……?」
セツナは、反芻するようにつぶやきながら、いまにも泣き出しそうな少女の瞳を見ていた。透き通る淡い青の瞳には、そのときの恐怖が渦巻いているように感じられた。
「この子の言う通り、俺たちの街が燃やされたんだ。理由なんて知らないが、ともかく、街が焼かれたんだよ……!」
「男よ。ひとりだったのかしら……? あれは武装召喚師に違いないわ……」
「ぼくのおうちも燃やされちゃった……」
口々に紡がれるひとびとの悲嘆を聞いて、セツナは、静かに立ち上がった。嗚咽を漏らし始めた少女の頭を撫でようとして、やめる。見ず知らずの人間に触れられたら、余計に恐怖を与えるかもしれない。
そうするうち、母親らしい女性が、少女の元までやってきた。優しい抱擁。母性など、セツナには持ち得ないものだ。当たり前のことだが。
セツナは、視線を目の前の老人に戻した。
「身一つで逃げ出してきたんだ。あのままカランにとどまっていても仕方がないので、クレブールにでも行こうかと」
「カラン? クレブール?」
「あんた、クレブールから来たんじゃないのか? 南から来たんだろう?」
「ええ、まあ、その、その通りデス!」
どう答えればいいのかわからず、セツナは適当に相槌を打った。本当のことは話せないだろう。話しても信じてもらえないか、頭がおかしいひと扱いされるのが落ちだ。それだけはなんとしても避けなければならない気がした。
頭の中で、彼らの話を総合する。この街道の南にクレブールという街があり、北に進めばカランという街があるらしい。そして、カランは武装召喚師らしき男によって焼かれた。
セツナは、母親の腕の中で泣きじゃくる少女の姿を認めた。血の味が、口の中に広がっていく。いつの間にか、唇を噛んでいたらしい。
それは、どういう感情なのだろう。怒りか? それとも、義憤とでも言うべきものなのか。そんなものが自分の中に存在していることに驚くものの、だれもが持つ感情には違いないのだ。
いたいけな少女の心に恐怖を植えつけたものへの言い知れぬ激情が、セツナの心の中で、紅蓮の炎となって荒れ狂った。
目的地は、決まった。
「どうかしたのか? 本当に、だいじょうぶか? あんた……」
こちらの異変に気づいたのか、目の前の老人が気遣うように言ってきた言葉に、セツナは、一瞥も返せなかった。燃え盛る怒りは、瞳の中にも赤々と揺れているはずであり、そんな状態で目を合わせでもしたら誤解を招くに決まっている。
目を合わせないように視線を巡らせ、ふと、気づく。焼かれた街から逃げ出してきた一団の中で、ひとりだけ、違和感を放つ女性がいたのだ。石柱の元に隠れるように座り込んだその女性は、ただひとり、炎に巻かれた様子もなければ、悲壮感もなかった。艶やかな黒髪が、美しい。
拍子に、その女性が、こちらを見た。視線が交錯する。灰色の瞳には、感情らしい感情も見受けられなかったが。
「!?」
一瞬、女性が愕然としたように見えたが、しかし、それは幻視だったのかもしれない。つぎの瞬間には、女性は、にこやかな微笑を湛えていた。絵になるような微笑だった。
セツナは、疑問を抱きながらも、軽く会釈をすると、ふたたび老人に視線を戻した。
「いろいろ聞かせてくれて、ありがとうございました」
「ん……?」
老人の要領を得ない、という表情に、セツナは、胸中苦笑を浮かべた。仕方がないだろう。こちらのことはなにも話していないのだ。そして、Xing霸それでいいと思う。告げる。
「では、さようなら」
「は? おい、どこへ――」
老人の呼び止める声は、背中で聞いた。
既に街道を歩き始めたセツナは、振り返ることもなかった。
「カランに!」
ただ、叫ぶように答えた。カラン。街を焼いた男を見つけ出してとっちめなければならない。そうしなければ、この怒りは収まりそうになかった。幸い、こちらにも召喚武装がある。あの皇魔の集団を撃退した漆黒の矛がある。街を焼いた武装にも引けを取らないはずだ。
と。
「カランなら逆方向だぞ〜!」
セツナは、こけた。