今日から17回に分けて渡辺おさむさんの随筆を連載します。これは以前「桐生タイムス」に2005年5月11日から8月31日に架けて掲載されたものの再録です。ご期待下さい。
「往来」の自由と安全
多くの人が歩くしかない時代、すなわち「現代」を除くすべての時代、人は往来に出ていろんな人と顔を合わせて生活するほかはなかった。会いたくない相手に会うときこそ、知恵も働く。時には、横道や路地にスッと入る。わが庭のごとくに往来を知っていればこそ。あるいは、借金の取立てにおびえながら家に居るよりか、天下自由の往来のほうがよっぽど「安全」というわけだ。そもそも往来という語句は道路という以外に、「人の行き来」「付き合い」という意味があると国語辞書に書いてあった。
今日、往来は歩く人のモノではなくなりつつある。主にクルマという「個室」が高速で移動し、周囲のヒトやコトを気にせずに自分だけの目的地を一身にめざすための便利な手段である。その代わりに、目的(地)に向かいつつも、運ばれるヒトはその道中を楽しめない。あまりに早く目的(地)に達するため、目的(地)をどう楽しもうかという「考えをあっためる」ヒマもない。時には、「目的」が何であったかわからないまま降ろされてしまうことさえある。「考える」という自分だけの固有の時間を大切に思う人にとっては、クルマというのは不便なものでもある。
先ごろ、JR常磐線で列車が停車すべき駅を通過、170㍍先で止まったという事故があった。運転手は「考え事をしていた」のでブレーキ操作を忘れたという。「考え事」が悪いのではない。しかしそうしてはならない職種や状況があるのも現実だ。それだからこそ、「昔の往来」にあったものにこだわりたい。
「桐生タイムス」2005/5/11掲載
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