今日はまじめな話をしたいので標準語で投稿します。大阪人だってまじめに書く時には標準語がええんです。大阪弁だと漫才になります。)
昨日ふざけたHNで投稿したのは僕です。下に三件とありますが、自分が書いたのは二件です。(道教の件と日蓮大聖人様の御振舞いの件)
道教はそれ自体は確かに平安以前より中国から来たものであるということになっている。陰陽道とか日本各地の風習にその名残が有ることは承知している。そこは砲太郎はんの仰るとおりだ。また、時代に応じて道教の姿が変遷したというのもその通りだ。
だが、波木井坊氏が書かれた「庶民は道教で葬儀をした。」「徳川以前の庶民は僧侶を呼べなかったのだ」なんていうのはどう考えても間違いだろう。(平安時代以前なら、南都六宗は「行基」等のごく一部の僧侶をのぞき、庶民に接しなかったので正しいと思うのだ。)
百姓一揆を見よ。 三河では徳川家(浄土宗)に対し、浄土真宗を担いで対抗しているし、石山本願寺も畿内の一向宗の尊崇を集めて織田信長に激烈な抗争をし、加賀の一向宗はこれまた殿様を認めずに激しく抗争したのだ。
「戦争をする」というのは「生きるか死ぬか」である。「死ぬ」可能性があるのが解っていて百姓は抵抗したのだ。「死の時」に僧侶が来ないでなぜ、命を張ってまで南無阿弥陀仏を唱えようか。石山本願寺のために尽くそうか?(むろん、無駄飯喰らえの馬鹿な殿様/武士よりも、商業政策に長けた石山本願寺にシンパシーを感じた側面はあっただろう。ただ、信長の凄さはさらに進化させた楽市楽座だが、そこは念仏へのほうが勝ったのだろう。)
そうしたことを考えると、おそらく、戦国時代の遥か前からもっと死の際には僧侶を呼ぶというのは当たり前に行われていたのだと思う。 (鎌倉時代以降に開宗、ここまで庶民に浸透したという意味で一向宗:浄土真宗はもしかしたら激烈な何かがあるのだろう)
ワシの住む大阪南部ー和歌山には雑賀衆という、当時信長をも凌ぐ強力な鉄砲隊衆があったが天下は取れなかった。なぜか? それは、雑賀衆自体が真言宗を担ぐグループと浄土真宗(石山本願寺)を担ぐグループで成り立っており、高野山を担ぐグループが信長と野合したため、統制が取れなかったとされるが、斯様に宗教界と庶民は大いなる結束があったのだ。 (テレビもない時代である。夜になればすぐに寝るよりほかになく、油灯もない当時の庶民は闇の怖さを宗教に求めたのは自明であろう。今とは違って効果的な医薬品が限られた時代、信者が病気になったと聞けば僧侶や祈祷師は真っ先に祈りに行ったであろう。)
二点目を書かせてもらう。 ここにいるメンバーは全員日蓮大聖人様の信仰に属していると思う。
熱原で首を切られようとする際にまで、お題目を唱え続けたお百姓さん 方はは日蓮大聖人とその弟子方の振る舞いや信者の死の際、成仏の相を見て他の宗派(特に念仏)とは違う!と感激し、確信したがゆえいくら脅かされようとも題目を唱えたのであろう。
もし、大聖人様やお弟子がたが真宗と同じく肉食妻帯していたら熱原の法難なんて起きず、実に平和(旧態依然と書くべきか?)な農村社会が 続いただろう。僧侶が在家と同じように欲深いのであるならば尊崇する意味なんかないではないか。法を持っているから?そんな欲深い人物に法なんか説いてもらっても、煩いだけだろう(苦笑)。
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