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2012年3月22日(木) 19:14 |
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人間回復の橋に尽力、加賀田さん逝去
ハンセン病国立療養所、長島愛生園の入所者で、邑久長島大橋の架橋運動の先頭に立った加賀田一さんが、21日亡くなりました。 強制隔離されてから75年。 「人間回復」を訴え続けました。
かつては「隔ての島」と呼ばれていた、瀬戸内市邑久町の長島です。 この島と本土が橋でつながったのが、今から25年前のこと。 長島愛生園の入所者・加賀田一さんも感無量だった、邑久長島大橋の開通でした。 加賀田さんは21日未明、がんのため、94年あまりの生涯に幕を閉じました。 19歳の時にハンセン病を発症し、隔離されたこの島が、終の棲家になりました。 加賀田さんが亡くなったことで入所者は297人に。 平均年齢は82歳を超え、高齢化が深刻です。 療養所と社会とのつながりを阻み続けてきたのが、わずか30mほどの距離の「瀬溝」です。 ここに橋をかけようという運動の中心になったのが、当時、愛生園の自治会長だった加賀田さんでした。 「人間回復の橋」というスローガンも、加賀田さんが考えたものでした。 国への陳情を粘り強く重ねた結果、昭和55年、当時の園田厚生大臣から、「ハンセン病に隔離は必要ない、その証として橋をつくろう」との言葉を得ます。 橋が架かるまでには、実に17年の歳月がかかりました。 ハンセン病に対する誤解と差別・偏見ゆえに一生家族と再会できず、骨になってもふるさとに帰れない入所者がほとんどです。 しかし、22日愛生園で営まれた加賀田さんの葬儀には、ふるさとの鳥取から親族が参列しました。 親族は、加賀田さんの遺骨をひきとるつもりです。 加賀田さんは、自らが架けた橋を最後にもう一度渡りました。 邑久長島大橋は、療養所の入所者が人として生きる証。 加賀田さんが残した大きな足跡です。
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