正直のところ、私は無念至極だと思っている。この偉大な体躯(たいく)を引っ提げてエストニアから大相撲にはせ参じた青年が、恐るべき勢いで三役の一画に座を占め、次いで大相撲の特別な地位である大関までわがものにしたことは、日本とヨーロッパの親善に特別な意味を持つことだと考えたからである。東西の文化交流には、さまざまな分野で、いろいろな人々の筆舌に尽くしがたい努力の成果によって、成り立ってきた種類のものがある。
今日までのところでは、把瑠都の横綱昇進は、まだ距離があると思わざるをえないとのことで終わった。しかし、この大関の横綱昇進は、ある程度は現実性を持つものと思える。そう考えざるをえない。そこまで、いわば至近距離に引き寄せたといえるだろう。
横綱を至近に引き寄せたと書いた。私は真実そのとおりだと思っている。しかし、それだけに、魔法の入り口にも例えられるこの成功の入り口に立つ者は、いつ、例えようのない魔力の犠牲になってしまうのかも分からない。
実は、ひとつだけ気になることがある。12日目が終わったところで、把瑠都の負け方が、10日前後あたりの、さっそうとした相撲ぶりと比較すると、大分熱意がこもりきらないものになってしまったのではないかと思えたりするのだ。
これには、いろいろな理由が考えられる。例えば、序盤戦から中盤戦にかけて、ある限りの闘志を相撲に注入してしまったので、当然の結果として、疲れが出たということだとか、11日目、12日目の大関2人には、もう残っている闘志だけで戦うしか仕方がなかったとか。生きている人間のしていることだから、やむをえないとも考えられるのだ。
だが、つらいところで大事な相撲を2番落とした後だけに、“そこが頑張りどころだ”という厳しい批判には、当然耐えなければならないだろう。私は、把瑠都にはこういったつらさに喜んで耐える横綱になってほしいと思うのだが。 (作家)
この記事を印刷する