(2007/12/23) (4)導き、導かれていかに生きるべきか 悟り求めて修行、布教「仏法は、日常の中にあると教えられた」と話すネルケ無方さん。山中で、自給自足の暮らしをしながら修行を続ける=兵庫県新温泉町久斗山(撮影・浦田晃之介)
兵庫県北部、新温泉町。谷筋から分け入った山奥に、その寺院はひっそりと立つ。曹洞(そうとう)宗安泰寺。年間約八十人もの外国人が座禅に訪れる。 寺の朝は早い。午前三時十五分に起き、四時から二時間座禅を組む。まき割りや農作業に励み、再び座禅…。 住職のドイツ人ネルケ無方(むほう)(39)は七歳のとき、母を病気で失った。「人はどうせ死ぬ」。そう思うと、生きることの意味が分からなくなった。 高校で座禅サークルに出合った。一九九〇年、京都大に留学、「本格的に修行ができる」と安泰寺を紹介された。 厳しい禅修行の中でふと気付く。「生きる意味を求めるのが、そもそも間違いだ。追い求めれば求めるほど迷いが深くなる。悟りは手放してこそ得られる」 そこで、思い知った。「自分は違う人間にはなれない。結局、今の自分になり切るしかない」 母国で禅道場を開こうと考えていた。二〇〇二年の冬、寺を離れ大阪城公園で座禅を教えていたところへ悲報が届く。安泰寺住職の死。恩師は除雪中の事故で命を落とした。動揺する心と向き合い考えた。残された自分にできることは何か。そして、後を継ぐ覚悟を決めた。 住職になってホームページを開設した。今は八カ国で読める。その教えに導かれて欧米、南米、イスラエルなどから人が集う。「宗教の役割は、いかに生きるべきかを教えること。それは自分の生き方に責任を持つ、本当の意味の大人を育てることでもある」 いかに生きるべきか。もう一人、母国を離れ、この命題と対峙(たいじ)する宗教家がいる。 神戸市垂水区の英国人牧師ヒュー・ブラウン(50)。刑務所や更生施設で教えを説く。 牧師になる前はテロ組織の一員だった。アイルランド共和軍(IRA)と対立するアルスター義勇軍(UVF)。 北アイルランドの英国系の家に生まれ、宗教と民族が混在する紛争の中で育った。UVFは強盗・暗殺・爆破テロなど破壊に明け暮れていた。 一九七二年、十五歳で戦いに身を投じる。三年後、銀行強盗の罪を犯し逮捕された。 人生の転機が訪れたのは、刑務所の中だった。 映画「ベン・ハー」を見ていて、キリストが十字架にかけられるシーンに、自分が立ち会っている感覚にとらわれた。「無実のキリストとは正反対の自分を感じた。自己中心的な罪を認識し、二度と繰り返したくないと思った」 服役を終え宣教師となり、八五年に来日。以来二十二年、ゲームのような感覚で人が人を殺(あや)める事件に心を痛める。 「私は愛情ある家庭に育ったので、テロ組織に入っても遊び感覚で人を殺すようなことはできなかった。今の日本は命の尊さを自然に教えられる家族の営みが欠けている」 「なぜ、人を殺してはいけないのか」の問いに、「理屈ではない命の尊さ」を訴え続ける。(敬称略) ニッポンで 追い求める夢祖国離れ苦労の末に得た幸せ「今の僕があるのは、厳しく育ててくれた父のおかげ。感謝の気持ちでいっぱい」と話すエルコレ・アベーラさん=宝塚市南口1、レストラン「アモーレ アベーラ」(撮影・辰巳直之)
祖国を離れ、遠くニッポンで生きる。神に導かれたのか、人の縁に導かれたのか。 一九四二年、神戸に着いたイタリア海軍の特務艦カリテア号に二人のイタリア人が乗船していた。 オラッツィオ・アベーラ(一九一三―七四年)とアントニオ・カンチェミ(一九一六―二〇〇三年)。後に日本のイタリア料理の基礎を築き、「東のアントニオ、西のアベーラ」と呼ばれる。 神戸滞在中に母国が連合国に降伏、二人は姫路の捕虜収容所に入れられた。戦後、武庫川河畔の武田尾温泉で知り合った日本人姉妹と結婚、義理の兄弟となる。 料理学校を首席で卒業し、海軍最高司令官の専属料理長まで務めた経験があるアントニオは、活躍の場を求めて東京へ。だが、オラッツィオは素人。宝塚に残り、自宅で料理の猛特訓を重ねた。 オラッツィオの長男エルコレ・アベーラ(60)は、その様子を母から聞かされて育った。「当時、外国人の働き口なんてほとんどなく、家族を養うためにはレストランを開くしかなかった。大変な苦労だったと思う」 アントニオを正統派とするなら、オラッツィオは大衆派だ。オープンした宝塚の店近くに進駐軍の基地があり、客の多くは米軍兵だった。注文といえば、ステーキやフライドポテトばかり。イタリアンにもこだわりたいと考えたオラッツィオは、肉とパスタを合わせたオリジナル料理を開発した。 「スパゲティミートソース」と名付けられ、全国的に人気を呼んだ。 七一年、開店二十五周年を機に自宅を改装、レストラン「アモーレ アベーラ」として再出発。カンツォーネが流れる店で、家庭の味を追求した。オラッツィオは生涯、こう言い続けたという。 「いい音楽といい雰囲気、そして最高の料理を!」 同じ阪神間に拠点を構えるベーカリー「ビゴの店」。フランス人フィリップ・ビゴ(67)は六五年、本場のフランスパンを紹介するため、日本へやって来た。素材にこだわった無添加のパンは、肥えた神戸っ子の舌をも魅了し、「フランスパンの神様」と呼ばれる。今は技術指導に全国を飛び回る。 ノルマンディー地方のパン屋に生まれ、八歳から仕事を手伝った。パリを中心に修業を重ね、東京国際見本市でパン職人を募集していると聞き、手を挙げた。二十二歳。「パンを日本の主食にしてやろうって意気込んでたね」 来日して四十二年を経た今、米(こめ)文化の奥深さを実感する。この国の風土と文化を踏まえた上でのパン作りとは何か。ここで作られるパンとは、どんなものなのか。 「結局、お客さんにおいしいと喜んでもらうことが一番や。別に第二の主食でええやんか」 おいしいパンを食べてもらいたい―その一心で情熱をかけた。 そんなビゴを兄のように慕うのがデンマーク人ビャーネ・リンボー・ハンセン(58)。旅客船の元料理長で八四年、岡山県津山市で日本初のデンマーク料理店を開いた。 経営難から三年前に閉店。失意の日々が続いたが、友人を通じて知り合ったビゴと年に数回食事を共にし、明るく前向きな姿に力をもらった。現在、再起をかけ、高砂で国内唯一のデンマーク・スタイルのホットドッグ店を営む。 「どんなにつらくても、おいしい料理と笑顔でお客さんを楽しませる。その積み重ねが、良い結果につながると信じているよ」 何かに導かれるようにやって来た外国人として、プロのスポーツ選手を忘れるわけにはいかない。 ロベルト・バルボン(74)が阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)に入団するため、日本の土を踏んだのは五五年二月、二十一歳のことだ。キューバ出身。 「フィリピン辺りにある国だろう」と思って、アロハシャツ一枚で降り立った羽田空港には、目の前を白い粉が舞っていた。「初めて見る雪だった。こんな寒い国で野球ができるのかと思った」 日本では、三年連続で盗塁王に輝くなど大活躍。朗らかな性格は多くのファンの心をとらえた。 滞在中、祖国は革命によって社会主義国となる。「革命がなければ帰国して、別の人生を歩んどったかもしれないが、今では母国を思い出すことはほとんどない」 とうに現役を引退した今でも、街でファンにサインや写真撮影を求められる。「沖縄から北海道まで、どこへ行っても自分を知る人がいて友達になれる。こんなに幸せなことはないよ」と笑う。 同じ兵庫に本拠地を置くサッカーJ1のヴィッセル神戸。今年、韓国のクラブチームから加入したブラジル人ボッティ(26)は司令塔として、チーム史上最高タイとなる年間十位の原動力になった。 韓国、日本でのプレーを「つらい」と思ったことは一度もない。「なぜなら僕はサッカー選手。優勝という揺るぎない目標は、どこにいても変わらないから」 そして、目を輝かせた。「地球の裏側で、知り合うはずもなかった人たちとサッカーができる。ワクワクする。得難い経験だよ」 何かに導かれたように見えて、実は自ら何かを引き寄せている。 たくましき、地球人たち。 (敬称略) (社会部・森 信弘、今泉欣也、文化生活部・黒川裕生) |