メモ合わせのことで、
<ならばなぜ当事者である記者や新聞社に,ことの当否を取材しないのか?>
と「懸垂百回」という正体不明者は書いているが、記者たちがメモ合わせをしているのは常
「懸垂百回」という正体不明者は知らないで批判しているよう。他にもいろいろ書いている
批判はいいが見当違いなものは新たな誤解を生む。
なお、私への反論は正体を明らかにしてからにしてください。会うか電話で。同じ条件でな
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レビュー対象商品: 新聞・テレビはなぜ平気で「ウソ」をつくのか (PHP新書) (新書)
記者クラブ制度に固執する新聞・TVを批判した本。見解の当否はともかくとして,良い評価はできない。主な理由は以下の2点。1. 論理構成が杜撰 2. 肝心な部分が明らかにされていない まず第1の点について。細かいところで整合しない,あるいは誤った記述は数多あるが,それらには目をつぶろう。新聞・TVが「ウソ」をつくのは記者クラブ制度があるからだ,というのが本書の中心的主張である。なるほど確かに東日本大震災以降,メディアの発信する情報は以前より信頼されていないし,記者クラブの弊害も従前から指摘されている。が,だからといって,この両者が直ちにイコールで結びつくわけではない。言うまでもなく,非記者クラブメディア(たとえば週刊誌)だってウソをついてきたのだから。どちらも同じようにウソをついているのであれば,原因は記者クラブではなく,別のところにあると考えるのが自然だ。 この点に関する著者の主張ははっきりしないが(それが常態なのだが),原発事故報道について書かれた第3章の末尾では, ・〔事故の詳細を〕「ほんとうはわかっていながら,〔新聞・TVは〕真実を報じなかった」と言ったほうが正しい(p.92) とある。しかしこの「意見」を裏づける具体的な事実は,本文中に記載されていない。ふつうに考えて,専門家でもない記者が,政府・学者・東電の発言に対してどれほどの自信を持って突っ込めるのか,疑問が残る。 次に第2の点。本書もある種の情報を発信するものだから, ・発信者がすべての情報の「出典」と「信頼性の度合い」を明らかにすることが,全体の「情報リテラシー」向上につながる(p.171) との要請に従うことになる。つまりキチンと取材しろということだが,本書ではまともな取材がほとんどなされていない。 たとえば第1章では,番記者たちが作る「情報メモ」「メモ合わせ」の実態などが書かれている。しかし驚いたことに,批判対象となっている記者や新聞社への取材がされた様子が全くない。「メモという動かぬ証拠が挙げられているから良いではないか」というわけにはいかない。情報メモの存在自体は隠されているわけでもなんでもないからである。つまりこの章での論点は,「このような取材手法が許されるのか」である。ならばなぜ当事者である記者や新聞社に,ことの当否を取材しないのか? 昔ならいざ知らず,現在,当事者に取材して反論や言い分を併記するくらいのことは,週刊誌でもやっている。著者が散々批判する記者クラブメディアも同様である。 第4章前半では,鉢呂吉雄経産大臣(当時)の騒動に触れている。毎日新聞記者に対して「放射能をつけたぞ」と発言したとして,最終的に辞任したという一件である(2011年9月)。上記発言は記者クラブメディアの「でっちあげ」(p.96)だ,というのが著者の主張だ。しかしこれも取材不足。大臣自身が「言った記憶はない」(p.99)というのが主な根拠のひとつだが,言った大臣が覚えていないのであれば,言われた記者に問い質せば良いだけのことである。こんな簡単な「取材」すら,著者は行っていない。 ただし,辛坊治郎を批判した箇所(pp.114-115)などについては,ある程度評価できる。名前を挙げて批判した以上,いい加減なことは書けない。「具体的な名前の明記は記事の信憑性を増す」(『暗殺国家ロシア』p.81)というのは,ジャーナリストであれば知っていて当然ではある。 逆に言えば,具体名を挙げない批判は「怪しい」。ところが,メディア批判がメインテーマであるはずの本書において,不可解な匿名批判が時折顔を見せる。 ・私〔著者〕が発信する情報に対し,既存メディア(主に新聞・テレビ)…から「ウソを言うな」「危険を煽るな」と非難されつづけてきた。(p.66) ・私はラジオなどで東電批判をしたとたんに降板となり(p.85) というのがその例。いずれも具体名を伏せる必要がないケースである。とても言葉どおりには受け取れない。 第7章では情報リテラシー(情報を取捨選択する力)について述べられているが,具体性に欠ける。ところで,宇多田ヒカルの「Beautiful World」という歌の中に,"肝心なことが書いてないから新聞なんて読まない" という歌詞(ただし正確な引用ではない)があるが,このようなスローガンが,情報リテラシーの内実を的確に表していると思われる。「自分は何を知りたいのか」との意識を持って能動的に情報に接すれば,怪しい記述の見当はつく。 本書を読むに際しても,私はこのような態度で臨んだ。結論的に言えば本書は,論理的に書かれていないうえ,情報自体の信頼性も低い。核心に近づくほど焦点がぼやける。まさに「肝心なことが書いていない」。情報リテラシーのある人が得るものはほとんどないし,これを読んでリテラシーが向上することも期待できない。騙す相手が入れ替わるだけである。 メディアに関する本を読みたいのであれば,別の本をおすすめする。たとえば 『メディアと政治[改訂版]』(2010年,初版は2007年) は,個々の記述は薄いが,政治とメディアをめぐる状況を概観できる。本書第1章で触れられている「情報メモ」「メモ合わせ」の存在についても,少しだけ触れられている(p.166)。
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最初の投稿:
2012/03/22 14:19:13:JST
投稿者により編集済み(最終編集日時:8時間前)
マスコミ批判はいいのだが勘違いでしている人が多いので指摘したい。
メモ合わせのことで、 <ならばなぜ当事者である記者や新聞社に,ことの当否を取材しないのか?> と「懸垂百回」という正体不明者は書いているが、記者たちがメモ合わせをしているのは常 「懸垂百回」という正体不明者は知らないで批判しているよう。他にもいろいろ書いている 批判はいいが見当違いなものは新たな誤解を生む。 なお、私への反論は正体を明らかにしてからにしてください。会うか電話で。同じ条件でな
前の投稿への返答(返答日時:
2012/03/22 22:42:53:JST
)
とりあえず「当否」という言葉の意味を,辞書で調べてみたらいかが? 『広辞苑』第6版に掲げられている2番目の語義
・理に合うか合わないか。よしあし。 が,私がレビューで用いている「当否」の意味です。これは文脈上も明らか。 >記者たちがメモ合わせをしているのは常識で、 知ってるよそんなこと。レビューにも書いているでしょ:「情報メモの存在自体は隠されて メモ合わせが「常識」だからといって,それが「理に合っている」とは限りません。日本の 「談合」「カンニング同然」(pp.28-33) と,かなり痛烈に批判しています。ならば批判対象である記者・新聞社等に対して「取材メ (1)メモ合わせは何の問題もない,と胸を張って答える (2)たしかに弊害はあるが,○○というメリットがあるから基本的には問題ない,と答え (3)取材拒否 といった複数の対応が考えられるところ,いずれかによって,読者の考えや印象も変わるで 以上要するに, ・「メモ合わせ」が業界の「常識」だからといって,その「当否」について取材しなくても というのが私の回答です。 >なお、私への反論は正体を明らかにしてからにしてください。 何の意味もないコメントですね。ここはAmazonが管理するところです。私の方から追 あるいは,「反論,訂正・謝罪要求に対しては,懸垂百回が本名等を明らかにしない限りは いずれにせよ,私の方から追撃コラムさんに対しては,訂正要求も謝罪要求もしませんから
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