「お城まつり」は昭和36年から桜の開花時期に行われています。ここ大和郡山城は戦国大名であった筒井順慶により1580年築城されました。順慶の死後は豊臣秀吉の弟秀長が100万石余の領主として君臨し郡山城をふさわしいようにと改築を計画します。 しかし、ここ大和の地は肝心の石垣に使う石材が不足し、大和のあらゆる社寺から材料を出さることになります。その内容は礎石や五輪塔、お地蔵さんや墓石など何でもあり状態でした。 |
なので、現在も石垣の中に逆さまになったお地蔵さんが埋まっているのが見えます。昭和36年当時の観光協会会長の広瀬氏はこれらの諸霊を慰めることが市の発展に必要と考え天守台を取り巻く数珠をめぐらせ法要を始めます。これがお城まつりの由来となりました。 今も桜の咲く時期に、大和郡山3つの寺のご住職が読経しながら数珠を順番になで、市の繁栄を願う行事が行われます。 |
大和郡山城は明治に建物が解体され石垣しか残っていませんでした。それを昭和55年築城400年を記念し、追手門、追手向櫓(やぐら)、東隅櫓、多聞櫓を復元したのです。写真は東隅櫓にかかるしだれ桜で「郡山城の桜」のシンボル的存在です。この桜は比較的早くに咲き始めます。すぐ隣に近鉄電車が走っているのですが、桜が咲く頃に電車に乗ってここを通過すると、かなりの人が車窓からこの桜を眺めているのがわかります。この桜は夜になるとライトアップされ昼間の華やかさとは又違う妖艶な雰囲気になります。夜も見逃せません。 |
大和郡山城の夜桜と言えば、明治頃から始まったとされ最初はかがり火でした。今は電灯のボンボリが灯ります。内堀には水面に追手向櫓と桜、ボンボリが写りこみ幻想的です。 主に染井吉野が植えられているのですが、桜が植えられたのは秀長の時代から始まったとされています。その後藩主や近代になってからは市民の手によって数回にわたり植樹、補樹されてきました。今では約3000本あるとされる桜は日本の桜100選に選ばれており、毎年数万人の人がここを訪れます。 |
灯りの下では夜桜を見ながら宴会をする花見客などが数多く訪れます。周辺ではなかなか夜に花見をする場所がない為か、ここに集中しているようです。夜店も数多く出て、高級金魚の品評会などがあり、お祭りムード一色です。 城内で人が桜を見る表情は今も昔も変わらないのだろうと思います。 桜は春の訪れを告げ、陽気な気分にさせてくれます。それがたまらなく心地良く感じるのでしょう。時代は変わらず人々はそんな桜を楽しみにし、だからこそこうやって守り続けられて来たのだと思います。 |