私は富山に住む者です。
3年前に、どんな仏縁あってか、チラシで親鸞会の講演会を知ることができました。
今まで本願寺で何十年も聞いてきたものが「浄土真宗」と思い込んでいた私にとりましては、親鸞会で聞かせて頂いた親鸞聖人の教えは、たいへんな驚きでした。
地元の文化講座に何回か足を運んだ後、学徒の皆さんに誘われ、二千畳の正本堂に参詣したときのことは、今でも忘れることができません。
親鸞聖人のお言葉を出されての高森顕徹先生の分かりやすいお話、気迫といいますか、情熱。参詣者の真剣な様子。聞法のために建てられた立派な会館、大講堂。いずれも、本願寺の説教では見たことない光景でした。
何よりも、親鸞聖人の根拠を示して、その意味をゆっくり噛んで含めるように教えてもらえるご説法は、本願寺ではなかったことです。
本願寺の布教使と言えば、妻や子供の言動を面白おかしく語ってアハハオホホと笑わせたり、新聞の切り抜き話をしたり、やれ旅行先でこんなことがあった、株で得した損したなどと個人的な体験がほとんどでした。
ようやく仏法の話になりかけて、よし今からだと気合いを入れるのですが、よく分からぬあいまいな話で、結局、何も分からないまま終わってしまいました。
「ああ、仏法とはこんなものなんだな」と、何十年も思いつづけてきたのです。「念仏さえ称えていれば、スーッと極楽に往けるもんだ」と、漠然と、今から思えば気楽に、考えていたものでした。
ところが親鸞会では、親鸞聖人の教えは「平生業成」であり、信仰には完成がある、仏教には卒業がある、「いまハッキリ救われた!」と言う時が必ずくるんだと、黒板に縦の線と横の線を書かれたものですから、目を丸くしました。
しかもそれはちゃんと、親鸞聖人の根拠があってのことなので、納得せざるをえません。続けて聞けば聞くほど、これが親鸞聖人さまの教えなのか、浄土真宗とはこういう教えだったのかと、驚くばかりでした。
半年ほどして、私も親鸞学徒にならせて頂きました。
真実の教えに遇えた喜びが出てくると、では今まで何十年と聞いてきたのはいったい何だったのかと、失われた過去を悔やまずにおれません。これからの真剣な聞法で取り戻したいと私は思っておりますが、気の毒なのは今なお本願寺についている門徒の人たちです。
一緒に本願寺の話を聞いてきた私の友だちも、その一人ですが、なかなか本物の信仰に目覚めてくれません。
「念仏さえ称えておれば、誰でも死んだら極楽」とか「御本尊は絵像でも木像でもいい」など、友だちの主張には、本願寺の教えが凝縮されています。
それがいかに浄土真宗とはかけ離れたものであるか、親鸞聖人のお言葉という間違いない物差しに照らして、今でこそ私も分かるようになりましたが、過去の私のように何も知らないまま地獄におとされてゆく人がないように、ともに信心獲得して往生の本懐を遂げてもらいたい、彼を初め、縁のある人には、本当の親鸞聖人の教えを伝えてゆきたいと思っているところです。
2008年01月24日
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