むずかしい言葉だと思う。会いたい。
あなたにどうしようもなく会いたい。会いたくてたまらない。
柳美里がエッセイでこんなことを書いていた。
師匠の劇団主催者から柳美里をふくむ劇団員全員にこのような質問がなされたという。
「あなたには何人の友人がいますか?」
それぞれが答える。主催者は追い討ちをかける。
「なら、いますぐここに来てもらってください。
ほんとうの友人なら頼めばすぐに来てくれるものでしょう」
実験して泣き喚いた劇団員が大勢いたという。
むろん、来てくれなかったからである。
「会いたい」
なんといい言葉ではないかと思う。ひとに会いたい。がむしゃらに会いたい。
反省する。いままでわたしはこの言葉をなんと軽んじていたことか。
「会いたい」と言われるのは楽なのである。
実際、わたしも人生で会いたいと言われて断わったのは枚方の狂人、上野祐二氏くらい。
けれども、こちらから「会いたい」とお願いするのは勇気がいる。
相手の事情を考えていないかもしれない。断わられたらどうしよう。
「会いたい」と言った以上はこちらが相手を満足させなければいけないのではないか。
このように友人でも恋愛関係でも「会いたい」と言うのは冒険である。
しかし、これからは「会いたい」を気軽に使っていきたいと思う。
だれかに会いたいと思うのは、ちっとも恥ずかしいことではない。
むしろ人間として当然の感情ではありませんか。
人間はだれもが孤独である。だから会いたい。あなたに会いたい。
何度だって、こちらからお願いしてもいいではないか。
交互に「会いたい」と言い合わなければならないというルールなど、
どこにも書かれていません。
会いたいと思ったら「会いたい」と言おう。少なくともわたしは言いたいと思う。
今日、いろんなひとに会いたいと思った。こわくて言えなかったけれども。
ムー大陸さん、貴子さん、白石昇さん、nicoさん、有紀さん、それからあなた。
けれども、「会いたい」と言われるのは楽だが、反対に言うのはむずかしい。
「会いたい」と言われたら99%会うのではあるが。
これはわたしだけなのだろうか。世間にうといので教えてください。
「会いたい」とお願いするのは、どれだけ非常識なのか。
「会いたい」と言われた人間は、みな会ってくださるのか。
寺山修司と山田太一は大学時代の親友であった。
活躍した分野は正反対である。
前衛の最先端で息巻いた寺山修司。
テレビドラマで前衛など知らぬ庶民に語りかけた山田太一。
両者の交流は大学卒業以降、減るばかりだったらしい。
それが寺山修司の死ぬ直前である。
この前衛作家はおのが死期を悟っていたのか。
しきりに「会いたい」と山田太一に連絡を取ったという。
一度は寺山が山田の家を訪問した。それから山田夫婦が寺山の家を訪ねた。
むかしに戻ったかのように話が弾んだという。
そして、寺山は死んだ――。
このときの寺山修司の「会いたい」ほどわたしを泣かせるものはない。
かれのようにプライドもなにも捨て去って、わたしも言いたいと思う。
「あなたに会いたい。どうしても会いたい。会いたくてたまらない」
どうかお願いですから、断わらないでください。
いえ、死期が迫っているというわけではないのですが。