まぁ、ズボラ管理人なので…というより抗がん剤で体調悪くて…ゲホゲホなので、ここで雑談しませうw
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コメント一覧
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- 2012年03月14日 22:16
- 「訊け」管理人さま
反応が速い...(笑)
春らんまんさま、「春の嵐」のようなお方ですね。
マジなのではないですか...?
マジで、そうなればいいとお考えでは...
言われていることは、激しいですが、筋が通っていらっしゃいますよね。
それが、正しいかどうかはわかりませんが。
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- 2012年03月14日 22:24
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筋が、全然通ってないのが、ももんがさま~~~
かわいらしいお方なのではないかと、a hopeは最近、思い始めましたよ
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- 2012年03月14日 23:09
- 幕天居士さま、
マーブル返信失礼します、、
ここは、和気あいあいのお部屋なのに…義春さま、空気を読まず、少しの間、おじゃましてごめんなさい、、
ほんと、すっかり、空気よめない…
したかないんで、書きますね、
わたしは、宗教や、社会のいわゆる、おきてに背くコトに罪悪感がありますが、
自分の本心に従う、とは、どういうことだろうとおもうんです。
宗教や、社会が決めた幸せってなんだろうと、未だに、ふと、わからなくなることがあるんです。
皆が当たり前にわかることを、わたしには、わからないのかもしれません。
宗教の教えに従う信仰と、良心に従う信仰と、自分の本心に従う信仰と、組織や社会に従う信仰と…
正直、まだわかりません。
六祖慧能は、母を見殺しにせずに、悟ることは出来なかったのでしょうか。
生長の家なら、できるということかもしれませんね。
幕天居士さまは、何かを犠牲にして、求めたいことがありましたか?
そこまでして求めたいものは、なんですか?
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- 2012年03月14日 23:56
- さくら様
見ず知らずのものに思いを打ち明けていただきましたこと、重く受け取らせていただきます。よい返事ができるかどうかわかりませんが、しばらく考えさせていただくことにいたします。
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- 2012年03月15日 08:34
- また、空気読まずに、投稿します、
義春さま、もう迷惑なら削除してください、笑。
ある意味、雅宣総裁も「非道を行じてる」のかもしれないですね、
ある成し遂げたい想いのために、大きなものを犠牲にされたのかもしれない。
わたしは、雅宣総裁のやり方を良いと思って従おうと思ってないんですが、やはりすごい人物だなと、おもうんです。
雅春先生の血をひいてらっしゃるんだな、と、やはりおもうんです。
決して自分の想いにブレがない。信じることを徹底して成し遂げることしか考えてない。
日時計主義っていうのも、非道に、心捉えられてないのかもしれない、笑。
…正直、あの、あのですよ、生長の家の体制や雰囲気のなかで、このようなことを成し遂げようとしてるのは、成し遂げられたのは、雅宣総裁ほどの方でないと出来なかったとおもうんです。
雅宣総裁も、自分の想いを成し遂げるに、こんな騒ぎは当然、予想していたでしょうね、
だから、生長の家をつぎたくなかったのは、本音だとおもいます、で、やるんだったら、どんなことになろうと、自分の想いを貫く、そうおもったのも、本当だとおもいます、
わたしは、「善悪」は別にして、雅宣総裁は、すごい「宗教家」だと、おもっています。
わたし自身は、人の顔色ばかり伺って、自分の「成し遂げたい」真理に正直に生きているのか、顧みたんですが、迎合ばかりしてるような気がするんです、それは、何に従ってるのか、わからなくなったんです。
人を傷つけたくはないけれど、自分の本心に嘘をつくのは、自分の中の神に従ってないと。
最終的に、何かを判断して従うのは、書物に書いてあることではなく、自分の神?良心?だと、おもえてくるんです。
…非道を行ずるって、なんでしょう。
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- 2012年03月15日 08:52
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これまた空気読まずに投稿します。
・・・いやーホント、さくらマネのような話も投稿できる掲示板が欲しいもんだ。いや俺は現時点、総裁には疑問符だよ。(通達の件など)でもそれだからこそ、さくらマネのような話は余計に、聞きたくなるんだよなあ。だって人はどうしても偏見、これに捉われてしまうよね。たとえば「なにも追放までしなくても」な人かもしれないじゃん?
総裁が偉大だと思う方の話、どんどん知りたいのだけれどもねえ。いやこれ直感だけれども、まあ現総裁、本流で言われているほど非道ではないと思えるのよねえ。だから正確な情報が欲しいのだけれども、そんなリクエストするだけで「教団擁護派」でしょ?「総裁は○○か?××か?」てな話のはずなのにいつのまにか、「こいつは何派か?」な話にされてしまう。そして仕舞いには、猛烈なネガティヴキャンペーンでしょ・・・あんな言葉のやり取りを◎だなんて、もう、確信しちゃっている人が多いよね。あんなやり方しているとなんか、残念だよなあ。
ですんでガンガンにお話し掲載してください。ただし無論、「そうかなあ」な疑問は素直に呈すると思いますが。
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- 2012年03月15日 08:53
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補足
(×)「こいつは何派か?」な話にされてしまう。
(○)「この投稿者は何派か?」な話にされてしまう。
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- 2012年03月15日 08:57
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補足2
も少し補足する。「本流への疑問符」てなお話し。
まあ「総裁から左遷されたあ」てな話が多いけれども、まあ・・・文章からだけで判断するとそれ、「オマエ、雅春先生からも左遷されるかもよ」な感じなんだよなあ。
いやつまり、左遷されるヤツも左遷されるヤツ、そんな印象のものは多いかなあ・・・だって人の話、ほとんど聴いてないでしょ(笑)そして妄想で埋め合わせてデマ、振りまくでしょ(笑)・・・・そりゃああなた、そんなことしてたら雅春先生でも、お怒りになられると思うが・・・
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- 2012年03月15日 09:31
- 空気は読むのではなく吸うものです。
だから、空気は読まずに、ジャンジャンやりましょう。
僕はそれで良いと思います。
ちょっと寝てから返信とかを書きますね。
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- 2012年03月15日 09:49
- そうか…泣
ここって、「雅宣派」とか、スパイなんとかちゃん、笑、とか、言われないとこなんだ…
なんか、さくら、正直、めっちゃびびりになって、生長の家で、もう、本音は言えないもんだとおもってるとこある、
じゃ、ここでは、とりあえず、空気は読みません、笑。
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- 2012年03月15日 12:17
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さうだ、空気は読むな!
もうオレなんて、実は実は・・「吉瀬美智子派」に過ぎないし空気は読むな。
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- 2012年03月15日 12:21
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今日のお昼は、ボンゴレ・ビ・アンコ。
昨日から砂出ししていたアサリで、作りま~す。
でも、主婦がひとり、ボンゴレ・ビ・アンコを作ってお昼に食べるって、どうなんでしょう...?
主婦のお昼は、白飯とたくあんで、十分なのでしょうか...
わたし、おいしいもの大好きなのですよ。一人で食べるのも、誰かと食べるのも
みんなで、一緒にお食事行きたいですね!!
>>338 義春さま
>空気は読むのではなく吸うものです。
だから、空気は読まずに、ジャンジャンやりましょう。
僕はそれで良いと思います。<
お言葉に、甘えさせていただきますね。
さくらさま
そういえば、さくらさまはトキさまの掲示板にいらしたころから、雅宣先生の方針(現教団のやり方)を、擁護されていましたね。
それで、いろいろ言われてしまったのですよね。
本流掲示板で伝統さまが、「ヒア アフター」というスレッド名で(現在編集中)投稿されている内容が、とても興味深かったです。
高級スピリットからのメッセージなのですが、原発について語られていて、雅宣先生の新刊本「次世代への決断」読んでみたくなりました。
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- 2012年03月15日 12:44
- a hope様
>ご投稿文を拝見していますと、とても懐かしい感じがするのは、幕天居士さまが、わたしの父に似ているからでしょうか?
ずっとまえから、知っているような気がします。
「ずっとまえから知っているような気がする」というのは、おそらく気のせいだとおもわれます。わたしも、鈴夜ちゃんのことをずっと前から知っているような気がしたのですが、どう考えても気のせいとしかおもえなかったですから。
>仏教がお好きなのですか?
仏教好きの友人がいて、電話でときたま、仏教のことなど話します。盛り上がることは盛り上がりますけども、わたしもそれほど知識があるわけではないので、どこまで深い話ができているのか、自信がありません。
仏教って、なんなのでしょう?じつはよくわからないまま、わかったような気になってるだけなのかもしれません。仏教のとある僧侶が、「仏教とは、自分を起点にするのではなく、外部を起点に物事について考えられるようになることだ」といった意味のことを書いていた気がします(正確にはどうだったでしょう)。
わたしには、教義を詳しく学び、知識を増やすことが仏教であるとはおもえません。自分のなかで仏教的な何かを実現する。これが仏教であるような気がします。
一部の科学者は、ほかの科学者との議論のさなかにあって、たとえそれが自分の意見であっても「この考え方はここがおかしい」と、まるでそれを人ごとであるかのように批判し、検証できるといいます。これらの科学者は、「仏教的な何か」を実現しているのかもしれませんね。
>仏教のお話しを、アホにも分かるようにして下さるのなら、居酒屋で『氷雨』、何度でもうたわせていただきます。元、コーラス部部長ですから、歌には自信があります!!(これはマジです)
ひょっとして、ほんまに若林豪に似ているか、それをたしかめようとしておられる?
ネットだけの話です、ネットだけの。
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- 2012年03月15日 13:41
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空気より地図の読めない女です。
旅行に行くと必ず反対方向に
歩き出すおマヌケ女。
お昼は担々麺でした。
この頃、「春らんまん」さまがトキさま掲示板で
熱く語っておられますね。
正義感溢れる女性のようです。
不二子ちゃんに似ているような気がしましたが、
彼女は生長の家信仰歴は私よりもずっと長い(青年会から)
ので、「春らんまん」さまとは別人ですね。
本音をちらっと言います。
不二子ちゃんは、大切な友人で大好きですけれど、
彼女の正義に時々ついていけなくなります。
人間智の正義と神の正義は違いますよね。
天下国家を語るも良いけれど、
私たちはもっと小さなことからでも
愛を実践してゆくべきじゃないのかなぁ。
と、空気の読めないおバカさんは感じてしまうのでした。
今朝、バク転に失敗して木から落ちた鈴夜が
ポツリと言いました。
「幕天居士さまから、なんとなく懐かしい匂いがした。
野生の勘というやつかな。」
さ、今からトキさま掲示板に行って、
空気読まない、くだらない小話でも
書いてこようかな。
このごろ【Queen bee】本店開けるの
なんだかあんまり気がのらない。
義春さんのお部屋が居心地いいのよね。
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- 2012年03月15日 13:48
- ――――――――――――――――
天下国家を語るも良いけれど、
私たちはもっと小さなことからでも
愛を実践してゆくべきじゃないのかなぁ。
と、空気の読めないおバカさんは感じてしまうのでした。
――――――――――――――――
チ ェ ス ト
・・・あの時代と違います。まあ、本でしか知らぬがあの時代(春らん様ご言及の時代)はもう、生長の家で個人救済が進んでいたと思うのです(実際は違ったでしょうがさて置き)。個人救済が進んだので「国を救おう!」そんな感じで政治に入っていかれたんでしょう、雅春先生は。
でも今はどうですか。そんなこと、している場合でしょうか。「そんなこと」はまあ、云いすぎかもしれませんけどもまあ、政治なんてデカイ話は、素人さんには「ムリ」なんです。達成感くらいはあるでしょうが、さて世の中、「その運動でどうなった?」と聞かれた際にどうでしょうか。1mmも変わってなかったりするんじゃないでしょうか(まあ、言い過ぎとは申せ)
デカイ話よりも小さい話です。なぜなら地球や国、そう簡単に滅びません。ギャアギャア騒がなくても滅びっこ、ないんです。滅ぶのは常に小さいものです。
追伸
まあこれは以前、小説家とけっこう真剣に話し合った結果なんですがね(笑)やっぱ地球や国ってそう簡単に、亡ばないって(笑)
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- 2012年03月15日 13:53
-
補足
トキさんも書かれておられましたけど雅春先生・・・政治方面に行かれたこと、後年かなり後悔なさっておられたとか。「信仰がおろそかになった」という趣旨のご文章、私も読んだことがあるんですがね・・・
でも運動家って運動、好きなんですよねえ(笑)もう国よりも運動、彼らが大好き、そんな感じがします。軽いトランス状態になれるからでしょうね。
・・・まあそんな愛国トランス状態、「ああ!英霊さま!」とか、「天皇陛下ッ!バンザーイ!!」てのは気持ちいいんでしょう。そしてその気持ち良さ、まあ、戸別訪問で聖典配るよりは「優先したくなる」そんな魅力もありましょう。けど、本末転倒では?雅春先生はそんなこと、薦めてはおられない気がしますがね。
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- 2012年03月15日 17:07
- さくら様
さくら様からの問いかけについて、少しばかり考えてみました。問題を大きくしたがる。これがわたしの性癖ですので、このたびの問いかけにしましても、可能なかぎり大きく取り上げてゆきたいと考えております。
>わたしは、宗教や、社会のいわゆる、おきてに背くコトに罪悪感がありますが、
自分の本心に従う、とは、どういうことだろうとおもうんです。
宗教や、社会が決めた幸せってなんだろうと、未だに、ふと、わからなくなることがあるんです。
「宗教や社会のおきて」は、どのようにしてつくられてきたのでしょうか。「共同体」をキーワードに、そのことについてまずは考えてみたいとおもいます。
マスローの「欲求の5段階説」にしたがうなら、共同体は「安全の欲求」や「生存の欲求」からはじまったと考えることができるのではないでしょうか。1人や2人でいるよりは大勢でいたほうが、身の安全は守れるだろうし、食料の確保も容易になる。夜もおちおち寝ていられない危険地帯であっても、かわりばんこで見張りをすれば、グッスリと眠れる夜を手に入れることもできるでしょう。よいことずくめの「みなんで一緒」体制ですので、共同体は「安全の欲求」や「生存の欲求」を満たすために始まったと考えてさしつかえないようにおもいます。
つづきます
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- 2012年03月15日 17:08
- では現代はどうでしょう。「安全の欲求」や「生存の欲求」は、あえて満たす必要がないほどに当たり前のことと考えられているはずです。だとすれば、現代において優勢であるのは、「所属の欲求」であり「自己表現の欲求」であると考えられるはずです。社会や集団の一員として認められ、そのなかで生きていきたい。できればそこで何かを表現したい。こうした欲求のもとに、人々は社会生活を営んでいるということがいえるのではないでしょうか。
「所属の欲求」を満たし、社会の一員として暮らしていくために守らなくてはならないのが「社会のオキテ」ということになります。オキテがなければ集団は成り立たないはずですから、これはどうしてもなくてはならないものであるはずですが、問題は、このオキテがどのようにしてつくられているのか、ということなのですね。
オキテはどのようにしてつくられているのでしょう。「オキテのつくられ方」について、ハイデッガーという哲学者が面白いことをいっているようです。人間は誰もが死ぬのが怖い。できれば、死についてはなにも考えずに生きてゆきたい。「みんな!一緒に忘れてしまおうぜ」と言いはじめたヤツがいたかどうかは知りませんが、いつしか死の恐怖を忘れるためのルールづくりが始められ、やがてそれは完成した。せっかくつくったルールだからみんなで守ろう。そうやって守られているのが、みんなで死を忘れ去るための「社会のオキテ」であると、ハイデッガーという人は考えたようです。
つづきます
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- 2012年03月15日 17:08
- 以前、テレビで、5万人とか6万人とかを集めて、国立競技場かどこかでおこなわれたドリカムコンサートの模様が放映されていました。数万という観客を熱狂させるドリカムの神話的な力に圧倒されながらも、テレビ画面に映し出される人々の熱狂ぶりに、なにかしらの違和感を禁じえないでおりました。この人たちは死を怖れている。死を忘れるために、ああやってみんなでともに熱狂するしかないのだと、このとき強く感じたのです。おそらくこれが違和感の正体であったとおもいます。
ヒチコックによって映画化された、パトリシア・ハイスミス原作の『見知らぬ乗客』のテニスコートの場面では、人々が抑圧しようとしている死への恐怖が、象徴的に描かれているようにおもいます。あの有名なカットでは、すべての観客が頭を左右に動かしてテニスボールを追っています。そのなかにひとりだけ、頭を動かさずに前方を凝視する男がいます。男は、ガイによって交換殺人をもちかけられたブルーノ。死を逃れようとする人々のなかで、この男だけが死を見つめていたのです。
>皆が当たり前にわかることを、わたしには、わからないのかもしれません。
皆が当たり前にわかることって、なんなのでしょうね。
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- 2012年03月15日 17:25
- 幕天居士さま
丁寧なお返事ありがとうございます。
若林豪に似てないのですか...?
でも、わたしどちらかと言うキャラ的には中村雅俊のほうが好きです。いつまでも、少年のような笑顔を作れるおじさまって素敵ですよね。
ネットって、不思議な世界ですね。
わたし、今までこんなにはまったことありませでした。
子育てと仕事で忙しくて、そんな暇なかったですし、今は仕事をしていないのでその分余裕があるのです。
ところで、幕天居士さまは、現在の生長の家教団の信徒さんなのでしょうか...それとも、本流派ですか...?
わたしが、美女であることを知っているということは、トキさまの掲示板を閲覧されていたのでしょうか?
別に、お答えいただかなくてもいいのですが、なんだか気になりますね(笑)
ママ
【Queen Bee】は、ここでOPENしてくれればわたしは、全然OKですよ。
>人間智の正義と神の正義は違いますよね。<
チェスト――!!
生長の家の愛は、「赦す愛」。
「裁く愛」なんてどう考えてもおかしい。
裁いた者は、裁かれる。
批判したものは、批判される。
切り捨てたものは、切り捨てられる。
でも、赦したもの、は赦される。
愛したものは、愛される。
認めたものは、認められる。
人生そういうものだと思いますけどね~~~!
a hopeは、ママとここであえて幸せ100倍です。
「訊け」管理人さま
わたし、実はまだ「生命の實相」全巻読んでないのですが、「生命の實相」のどこかの巻に、愛国運動とか、政治運動みたいなこと書いてある箇所があるのでしょうか?
トキさまも、原点に戻ることが大切だとおっしゃってますよね。
雅春先生が、神示を受けて「生長の家」をはじめられた、その原点に戻ることが大切だとわたしも思います。
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- 2012年03月15日 18:58
- 幕天居士、仕事中なんで、あとで、ゆっくり読みます、ありがとうございます。
a hopeさま。わたしが、ひなん、されたのは、まさのぶようご派、だからではなく、宗教団体破壊派、だったから、です、笑。
真理をおこなうって、神を授かってる人間の「数だけ」わたしは、あるとおもうことがあります。これは、決して「他人の真理」を「自分の真理」に押し当てて、考えることは、出来ない。自分の授かっている神の、なし得るべき課題と、他人のそれは、とうぜん、違うとおもうんです。
これは、とうぜん、ですが、宗教になるとどうですか。
宗教団体に属するとは、どういうことか、と考えると、自分の授かる神を、「教祖」や「代表」に預けてしまうことに繋がると、そんなことがあります。
それが、どんなすばらしい、人物や、教え、であっても。
それで、よいとおもう人はたくさんいます。その生き方を、完全否定は、しませんが、わたしには、ちがうとおもいました。
わたしは、教団擁護派でもないですし、雅宣総裁のことを理解はしますが、方針には、したがわないとおもいます。
訊け監督は、生命の實相のことばを広げることで人々を救済することに、自分の抑えがたい使命をかんじているのでしょうね、
わたしは、その信念を尊敬してます。
一方、わたしは、自分の仕事やボランティアなどを通して、それで、人を助けることにつなげたい。
生長の家にはいることをすすめないし、生命の實相を持たなくても、それも、「信仰」によると、おもってます。
それは、家庭で愛を実践するかたの行いも、おなじ、おもさだとおもいます。
雅宣総裁は、あたまのよい方ですが、人間智、のみでいまの、ほうしんを、導きだしたのではないとおもうんです、
そこに、妥協がない。非情な方とか、…そういうことばかりではないとおもえます、
雅宣総裁は、雅宣総裁のお立場で、抑えがたき「真理」を実践しているのではと。
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- 2012年03月15日 21:05
- まぁ、ぼちぼち書いてみる。
僕も本流に関しては訊けさあと同じ意見。アレじゃあ…なぁ…としか想えない。
他人の意見くらい聴けよな…と、あんなんだと若い奴はついてけんよ。
雅宣先生には僕は責めたくないな。気持ちは分かるから。ただ今の状況では…てなところ。でもね若くて良い奴育てたんだよ、そいつらが喜んで活躍出来る場をなぁーとも思ってます。
…今の俺は個人として出来ることは喜んで協力させて欲しいなって思ってます。
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- 2012年03月15日 22:55
- さくらさま
>a hopeさま。わたしが、ひなん、されたのは、まさのぶようご派、だからではなく、宗教団体破壊派、だったから、です、笑。<
そうでした。そうでした(笑)
>自分の授かっている神の、なし得るべき課題と、他人のそれは、とうぜん、違うとおもうんです。<
「人生は、魂の学校である。」ですね。
>宗教団体に属するとは、どういうことか、と考えると、自分の授かる神を、「教祖」や「代表」に預けてしまうことに繋がると、そんなことがあります。
それが、どんなすばらしい、人物や、教え、であっても。
それで、よいとおもう人はたくさんいます。その生き方を、完全否定は、しませんが、わたしには、ちがうとおもいました。<
さくらさまのおっしゃることは、説得力がありますね。
わたしも、人間・教祖さま、人間・総裁さまに中心帰一するのは間違っていると思います。
(つづく)
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- 2012年03月15日 22:55
- >一方、わたしは、自分の仕事やボランティアなどを通して、それで、人を助けることにつなげたい。
生長の家にはいることをすすめないし、生命の實相を持たなくても、それも、「信仰」によると、おもってます。<
さくらさま個人の信仰は、それでいいのではないのでしょうか...
でも、もし「生長の家」の信徒としてであれば、それはまちがっていると思います。
わたしは、「生命の實相」=生長の家だと思っているからです。
>雅宣総裁は、あたまのよい方ですが、人間智、のみでいまの、ほうしんを、導きだしたのではないとおもうんです<
総裁先生の教団運営の方針に、神意が働いているということでしょうか?
この、世界で起きているすべてのことには意味がある、そういう意味では、そうなのではないかと思います。
きっと雅宣先生の人生にとっても、その他の生長の家の信徒の方々にとっても、本流の人達にとっても、わたしや、「訊け」管理人さまみたいな部外者にとっても、今起きている「生長の家」の問題は、とても意味のあることなのだと思います。
でも、「生長の家の教え」の究極の真理は
「人間は神の子である。」ですから、雅宣先生は、「生長の家」の総裁である限り、それを忘れてはいけないと思います。
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- 2012年03月16日 00:22
- さくら様
ハイデッガーのいわんとしたところを簡潔にまとめるなら、社会のオキテは、死の恐怖を忘れたいとする人々の心性によって支えられており、このオキテにしたがうかぎり、その行為は、必然的に死の恐怖を忘れ去るための行為にならざるを得ない、ということになるかとおもいます。
ここで考えるべきは、死の恐怖を忘れる行為へと人々をかりたてようとする社会のオキテにしたがうことにどんな問題があるのかということと、逆に、死の恐怖に向き合うことで社会のオキテから自由になれたとして、それでその人の内面にどのような変化が起こるのか、ということであろうかとおもいます。
竹田青嗣によれば、ハイデガーは、社会のオキテにしたがう生活世界のありようを、「空談」、「好奇心」、「あいまい性」の3つの言葉で説明していたそうです。
○「空談」とは、さして切実なことでなくとも人々は互いにいつもしゃべり合うこと。「好奇心」とはつぎつぎに新しいトピックに注目し、どんどん忘れさっていくこと。「あいまい性」は、本当に自分にとって切実なことでなくとも、ただひとびとが問題にしているという理由で、そのことを一緒になって考えること。
だそうです。誰もが身におぼえのありそうなことばかりですが、これらの行為は、どれもが人々に死の恐怖を忘れさせるためにと社会が用意した娯楽的イベントであり、こうしたイベントにうつつを抜かしているかぎり、人としての本来のあるべき姿は発露しない、とハイデッガーはこのように考えていたということですね。
つづきます
-
- 2012年03月16日 00:23
- それでは、「人としての本来あるべき姿」とはどんな姿なのでしょう。ハイデッガーは、こうした姿は、死の恐怖と向き合うことでしか実現できないと考えていたようにおもいます。ここで気になるのは、その姿とはどんな姿なのか、ということに加えて、死の恐怖と向き合いさえすれば、そうした姿が実現できるのか、ということと、実現できたとして、それは社会のオキテにしたがう生き方にくらべてどれほどすぐれた生き方であるのか、といったところだろうとおもいます。
ただひとついえるのは、死の恐怖を忘れるためにみんなでつるむという生き方は、人としての本来の姿ではなさそうだということです。もっとほかにマシな生き方があるはずだと、どうしてもそんな気にさせられてしまうということです。
ですが、それならどのような姿を実現するのが人としての本来のあり方であるのかとなると、ハイデッガーからは、このことにかんしての歯切れのよい説明はほとんどなされていないと考えたほうがよさそうです。「そんな~」といいたくなりますが、世の中とはこんなものですね。威勢のよい病状告発は誰にでもできますが、歯切れのよい処方箋は誰にも書けないということでしょう。まあ、だいたいこのようなものだとおもいます。
つづきます
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- 2012年03月16日 00:23
- ただハイデッガーは、「良心」というものを問題にしていたようです。「良心の呼び声」。こんな言い方をしていたといいます。このあたり、何がいいたいのか、わかりにくいですね。わたしも勉強不足でよくはわかりません。直観が働いた?そういうことなのかもしれません。
単純に考えるなら、社会のオキテに無自覚にしたがい、深く考えるでもなく娯楽的イベントにうつつを抜かしてばかりだと、真の意味での「良心の呼び声」は聞こえてこないと、こういう意味であるような気もいたします。いずれにしましても、聞いたものにしかわからない、そんな呼び声が聞こえてくる瞬間が、人生にはあるのかもしれませんね。
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- 2012年03月16日 08:19
- おはようございます、義春さまのお部屋のみなさま、おじゃまします。
幕天居士さま
たくさん書いて下さってますね、、
>みんなで死を忘れ去るための「社会のオキテ」
というのは、実感として、わからない面がありますが、
現代の生活なんかは気晴らしなんかが多いし、ほんとうの生を実感したりすることが、少ないということでしょうか、
確かに、「空談」「好奇心」「あいまい性」は、心当たりがありますね、
そのような生活を普通にしていれば、切実に恐怖と向き合わなくて済むことはあるかも知れません。
宗教は、たいてい、死に対するある「神話」を持っているとおもいます、
それを信者が共有して、その共同体の「オキテ」に従っている面もありますね。
良いことすれば天国にいけるとか、輪廻転生や、死後の世界、生き通しの命、など、宗教的神話といえるものをもっているとおもいます。
無神論者だって死んだら無になる、土にかえるって、科学的神話を信じているといえるかもしれないけれど。
人間がほんとうに死の恐怖とむきあうことから、避けることがあるかもしれないですね。
でも、それが、「オキテ」に従うことって、わたしは、考えてもみなかった、
「死の恐怖」と真に向き合う、ってなんでしょうね、
良心、って、わたしは、自分の中に授かる神に、もっとも忠実なセンサーとか、あるいは、神の入れ物か、本体か・・そんなものだとかんじていますが、その声を聞く、ということに、おおきい意味があるみたいですね、
良心、っていうけど、じぶんのほんとうの良心の声が、きこえているのかな、っておもうこと、あります、「オキテ」に従ってばかりだと、良心の声が小さくなることもある気がする。
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- 2012年03月16日 08:20
- a hopeさま
やっぱり、あなたは、まっすぐなところが、美しいとおもいます(告白みたい、笑)
>わたしは、「生命の實相」=生長の家だと思っているからです。
そうですね・・「生命の實相」と呼ぶものはどこにあるんでしょうね、
教団で売ってた書物にあるんでしょうか、いまさいばんで争ってる、書物にあるんですか・・。
わたしはわからないだけなんです。神さまは、至る所に、いらっしゃるはずで、わたしのなかにいるはずなのに、「宇宙に満つる真理」のはずなのに、宗派を超越しているはずなのに、なぜその「神殿」と呼ばれるものを巡って、争いができるんですか、
「生命の實相」ってほんとは、どこにあるんですかって・・
キリストやマザーテレサは、「書物」で人をすくったんだろうか、。
神が働くというけれど、どこに働くのだろうか、
わたしも、「生命の實相」によって、ずいぶんすくわれたので、「生命の實相」はたいせつで、縁のある方が読むべきだと思います。そして、すくわれる縁のある方がすくわれるとおもいます。
ただ、いろんな観点で、色んな意味から、「こだわり」を、持ちすぎたくない、それだけで、否定する意図はないんです。
>総裁先生の教団運営の方針に、神意が働いているということでしょうか?
わたしの、これもとても個人的な考えでは、どんな宗教団体にも、「神意」は働かないと思ってます。そのことからも、わたしは、総裁の教団の方針に、神意があるとはおもっていないのです、。
ただ、雅宣総裁があまりに誤解されていることが多いと思うのです。
以下もそう思う一点です、
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- 2012年03月16日 08:28
- 訊け監督さま
>トキさんも書かれておられましたけど雅春先生・・・政治方面に行かれたこと、後年かなり後悔なさっておられたとか。「信仰がおろそかになった」という趣旨のご文章、私も読んだことがあるんですがね・・・
昭和47年の「聖使命」の雅春先生のご文章に、「純粋宗教的立場から 幾分方向転換して政治的方面に運動を進めてきたために、宗教の純粋さや、清潔さが少しでも失われてきていないか」と、その頃、運動のために道場や教化部でも、純粋なる宗教的真理を求める人たちは去ってしまうことや、信徒や誌友も減ってきたことを雅春先生がご指摘されて、政治運動方向からの方向転換があったみたいですね。
その前だって、ずいぶん政治運動における雅春先生のある挫折感、や無念さ、の吐露が、あったみたいですが。
で、昭和58年活動停止になって、清超先生は、神や純粋な信仰が利用されるような政治団体には関わらない、と運動を切り替えました、
「生長の家のタブーをなくしましょう、」雅宣総裁の言ったことは、おおきかったと思います。これまでの生長の家の運動の流れを見て、見解を丁寧に説明されてるんですよね。
そりゃ、雅春先生も「失敗」があったとか、「愛国運動」は間違いだったとか、日本の戦争責任論とか・・そんな発言があって、そんなんばっかりが大きくとらえられて、大騒ぎになりましたが。
決して、否定ばかりの意図があったわけでもないし、はじめから急な方針の押しつけがあったわけではなかったのだとおもうんです。
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- 2012年03月16日 08:29
- いろんな過剰な反応はあって、・・それは、まあいろいろ、仕方ないんだと思いますが、あまりに過剰な反応は、ある意味、生長の家の「膿」がでた面もあるんじゃないでしょうか。
その膿を出さなければ、運動が前に進まなかった、とおもえることもあるのですが。
雅春先生の運動の「失敗」や人類光明化運動への本来のご意志を、それを受け継いで、信仰者として運動を全うされた静超先生、そのご意志を受け継いで、生長の家は「信仰による」平和運動なんだと、はっきり示しました。
日本国の実相顕現を否定するようなことは、少なくてもなかったとおもうし、ただ、それは、「信仰運動」を通して顕れるものだということ強調されたんですね、
「信仰」に基づいていない、運動、というのが、どういう方向に行ったのか、生長の家のなかでどういう人たちを産んだのか、雅宣先生は、過去からすごく学ばれたとのだと思います。
それは生長の家の運動が「間違った方向」に行かないことを、徹底して決意されたと、わたしにはおもわれるです。
で、「過剰な反応」が多々あったので、まあ・・過剰な反応で対応せざるを得なかった部分もなきにしもあらず、と思えるんです、。
反対派の人側からみたら、いろいろあるのは、それはそれで、理解できますが、それにしても、とらわれが、おおきすぎるのを感じますね、。
・・a hopeさまは、雅宣先生が「人間神の子」を実践されてないことは、どんなことから、かんじられますか?
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- 2012年03月16日 09:39
- さくら様
>>みんなで死を忘れ去るための「社会のオキテ」
>というのは、実感として、わからない面がありますが、
現代の生活なんかは気晴らしなんかが多いし、ほんとうの生を実感したりすることが、少ないということでしょうか、
ハイデッガーという人は、10代のころから心臓病を患っていて、それで死の恐怖とつねに直面していなければならない人生を生きていたようですね。そうしたことから、死の恐怖を避けようとする人々の人生のあり方に疑問をいだくようになったのではないかという気がいたします。
死の恐怖を忘れるために快楽へと向かおうとする傾向を、ハイデッガーは「頽落」と呼んでいたようです。わたしは、20代のときにこの言葉を知りましたが、以来、長くこの言葉の意味を実感することができずにおりました。
友人たちと飲みに行きたい。一人でぶらりと旅に出かけたい。人並みにこんなことばかりを考えながら生きておりましたが、ある日をさかいに、こうした思いが、まるで別人にでもなったかのように、プッツリと起こらなくなったのですね。
それで、「なぜなのか」ということを考えてみると、その「ある日」というのが、死の恐怖が消滅した日であったのです。その日、たしかにわたしから死の恐怖が全面的に消え去ったのですが、振り返ってみれば、この日をさかいに、人並みに人生を楽しみたいという欲求がまったくといっていいほどに起こらなくなっていたのですね。
つづく
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- 2012年03月16日 09:40
- このときはじめて「頽落」という言葉の意味を実感いたしました。ハイデッガーはこういうことを言っていたのかと、このときはじめてわかった気がしたのです。わたしもまた死の恐怖を逃れたい一心で、友人たちと飲みに行きたいだとか、ぶらりと旅に出かけたいだとか、そういった楽しみを追求しようとしていたのだと、このとき、たしかな実感とともに理解できたのです。そしてこれは、わたしひとりの問題ではなく、世間の人々みんなの問題だということにも、ようやく気づくことができた気がしました。
それでさくら様は、「ほんとうの生を実感したりすること」といっておられますが、わたしはこれを、もっとシンプルに、ほとんどの人々が、ほんらいなさなくてもいいこと、人生にとってほんとうには必要でなくて無駄なこと、に多くのエネルギーを費やし、憂き身をやつしているのではないかと、このように考えることにしています。
はたしてこの考え方はどうなのか、いまだ結論は出ておりませんが、人生から無駄とおもえることがらを極力省いたときに、さてそこに何が残るのかといえば、それがはなはだ心もとないほどに少ない気がしてならないのですね。人生とは何なのだろう、死の恐怖なくして人生は語れないのではないか、などと、死の恐怖が消えて、そのことで、かえって生きることへの虚しさを感じはじめたわたしは、こうして死の恐怖の意義をふたたび問いはじめた今日この頃なのです。
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- 2012年03月16日 10:41
- 幕天居士様
死の恐怖ですか…今の僕が直面していることですね。抗がん剤治療してる中なので、あまり良いことを書けないしれません、ですが、想うことをつらつらと書きたいなって思います。
ハイデカーの考察は、たぶん、合ってるなって思います。
で、死の恐怖、それは人生は有限だから、その終わりを人は忘れたい、それはそうだろうなって思います。
だから、快楽…それは人は誰かといたい、そんな想いの具現化したものじゃないかと、僕は感じました。
僕自身、今まで何度も死に面して、それでも、尚、生かしてくれたのは、人の温かさでした。
ある種、人生は無駄の集まりでなってます、たとえば、アホなことを考えたり、ペットと遊んだり、散歩したり…いっぱいですね。
それは生の実感を得たい、何かと触れ合いたい、触れ合うことで温かさを感じたい、そんな想いなんじゃないかと思います。
死の恐怖の意義…あまりに難しいことで言い表せないかもしれませんが、肉体は永遠に生きれないからこそ、温かさを感じて、その人との関係性の中で、自分自身を生かしたい、その中に自分の生きた意味を見出す為にあるのじゃないかな?…と思います。
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- 2012年03月16日 10:48
- 死の恐怖をいったん逃れてしまうと、死を怖れるも怖れぬも自分の勝手と、高みからわが身と世間をながめることができるようになります。死を怖れることしか知らぬ世間の手合いよりも、自分などはよっぽどマシな立場にいられるのだと、こんな不埒な考えにおちいったりもいたします。
ですがそこに「良心の呼び声」が聞こえてないとすれば、死の恐怖を乗り越えたところで、やはりたいした生き方にはならぬなと、このことをまじまじと考えさせられるエピソードがあります。
旧ソビエト、スターリン時代のモスクワのとある病院にひとりの男が入院していました。名前は、アンドレー・ジダーノフ。スターリンの後継とも目されていた人物です。
ジターノフには心臓疾患の疑いがありましたが、検査の結果はシロ。危険な兆候は見られませんでした。しかし、その後しばらくして、ジダーノフは心臓病が原因でこの世を去りました。
まもなくして、検査結果の捏造が発覚します。何者かが、検査結果を記した用紙を、べつの用紙に差し替えていたのです。そのために、ジダーノフは正当な治療を受ける機会を逃した、と捜査当局は判断しました。
つづく
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- 2012年03月16日 10:48
- 疑いをかけられた病院の医師たちが拷問を受け、自白調書につぎつぎと署名しました。署名を拒否したのは、ジダーノフの検査結果の記録にあたったソフィア・カルパイただ一人でした。彼女は、「冷蔵庫のような独房」に入れられ、眠ることさえ許されませんでしたが、それでも断固として署名を拒否しつづけました。
スターリンは、検査用紙の差し替えを西側の謀略と決めつけ、あわよくば西側諸国に攻め込もうという計画を立てていたと言います。西側に責任をなすりつけるには、ソフィア・カルパイの署名がどうしても必要でした。もしもカルパイが署名していたとすれば、欧州大戦が勃発して数十万人の命が失われたとも考えられています。たとえ大戦にならずとも、謀略に加担したとして、数千人規模の無垢の人々が処刑される可能性がありました。
カルパイは、スターリンが病に倒れるまで署名を拒否しつづけ、ようやく解放されることができました。自分が署名すればどうなるか。それを知っていたカルパイには「良心の呼び声」が聞こえていたのだとおもいます。わたしなどは、たとえ逆立ちしようとも、たいした生き方はできぬなと実感させられるエピソードでありました。
追伸:以上のエピソードの裏づけは取れておりませんが、おそらく事実だろうと考えております。
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- 2012年03月16日 11:41
- 義春さん
不死であれば生きているとはいえない。わたしはこのように考えます。少なくとも、生きているという実感、生きる喜び。こうした感覚は持つことができないだろうとおもいます。
人生に別れなくんば誰か恩愛の重きを知らんや。たしかこんな言葉があったようにおもいます。義春さんがいっておられる「人の温かさ」は、恩愛の重きを知る者にとってしみじみとした実感ですね。死の恐怖を逃れようとして、実際に忘れ去った気でいる人には、人の温かさは伝わらないのかもしれません。
義春さんの温かさが、なぜかわたしには伝わってまいります。勝手な思いであるのかもしれませんが、たしかなつながりが感じられます。中途半端な思いでは書けないことを、わたしは書いているような気がします。それに応えてくださった義春さんの強い思いが温かく感じられます。
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- 2012年03月16日 11:58
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幕天居士さま、うわ~ すごい書き込みですね。「死の恐怖」ですか...
わたしは、「生長の家」の教えを知ってから、自分自身「死」については、ほとんど恐れなくなりました。
でも、自分がもし死んだら、子どもたちや主人が大変な思いをするだろうな~と考えると、そういう意味で、「死の恐怖」を感じます。
そして、また自分が死んだり愛する人が死んでしまったら、もう2度と一緒にご飯を食べたり、笑いあったり、楽しく過ごすことができなくなりますよね。これは現象世界での話ですが...
これは、幕天居士さまのおっしゃっている、「死の恐怖」と同じ性質のものでしょうか?
わたし自身は、「死の恐怖」から逃れるために人生を楽しんでいるつもりはありませんが、もしかしてら、そういう理由で楽しんでいるのかも知れませんね、無意識的に...
さくらさま
今日は、これから出かけるので、今夜お返事します。なんか、さくらさまと久しぶりにお話できてうれしいです。
わたしは、正直にいえば、教団のゆくえにはあまり興味はないのですが、自分自身のこれからの信仰態度をどうすべきなのか、模索中なので、さくらさまとお話することで、何か光が見えてきそうです。
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- 2012年03月16日 15:38
- 幕天居士様
僕も何故か応えたくなりました。
何故か知らないけど、幕天居士様の想いが分かるから…うん、人生は良いものですね。自分は生きてて良かった…そう、思ってます。本当に有り難うございます。
そうです。肉体が不死だったら、生きてるとは言えますまい。
僕は寿命というのがあって良かった…と思ってます、半ば死に面してる人が言っちゃったらいけませんけど、肉体の死というものがあるからこそ、人は気高く生きることが出来る、肉体の死があるから、生はより輝く。
有限だからこそ無限を表せる、これはパラドックスですが、有限の中に無限の可能性がある、逆に無限になると、その無限に囚われて、可能性も無難なものしか選べなくなって有限になってしまう…そう思ってます。
まぁ、死に面してるって言っても、僕はまだまだ、この現象に生きていこうと思ってます。
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- 2012年03月16日 16:06
- ほんと、ここは、しずかな茶室みたいですね、
茶人然とした老師と、若い武士の姿が、一瞬見えましたが、気のせいですか、
女将も留守みたいだし、美しい人妻もお出かけだし…仕方ないので、さくらが着物に着替えました(あと、50年?くらいしたら、岩下志麻、くらいの色気が身につくでしょう…)
おじゃまはしません、ただ、枯山水のお庭を共に眺めていても、よいですか?
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- 2012年03月16日 17:53
- a hope様
>わたしが、美女であることを知っているということは、トキさまの掲示板を閲覧されていたのでしょうか?
わたしは、a hope様が美女であるというのはもちろんのこと、「訊け」管理人様が祈祷師であることや、義春さんが61歳の本部職員であることなど、なんでも存じてあげております。なぜならわたしは、生長の家哲学愛好倶楽部凡夫代表掲示板四六時中閲覧無為自然流非文化的精神分析派に属しているからであります。
>そして、また自分が死んだり愛する人が死んでしまったら、もう2度と一緒にご飯を食べたり、笑いあったり、楽しく過ごすことができなくなりますよね。これは現象世界での話ですが...
これは、幕天居士さまのおっしゃっている、「死の恐怖」と同じ性質のものでしょうか?
そうですね。「死の恐怖」といっても、いくつかあるとおもいます。ここでわたしが言っている「死の恐怖」とは、単純に、自分という存在が消えてなくなることへの怖れであると考えてください。もちろん、a hope様が言っておられる、人との関係性を失うことへの憂い、といったものもそのなかのひとつと考えられるでしょうね。
「死の恐怖」を一度は超えてみたこの身からすれば、それへの怖れはあったほうがよいのではないかとおもわなくはありません。西洋に、「メメントモリ」という言葉があります。日本語に訳せば「死を忘れるな」です。
シャーマンのドン・ファン・マトゥスは言います、「死はおまえの最良の盟友だ」と。「ほかのすべてが意味をなさないとき、死に触れることだけが大事なのだ」と。「重要なことはほかに何もない。他のすべてを手放すのだ」とも。
超えようとするより忘れるな。死を忘れないことが、すべての束縛(社会のオキテ)から解き放たれ、自由へとつながるゆいいつの道であるのかもしれません。
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- 2012年03月16日 20:36
- BGM
http://www.youtube.com/watch?v=oYCdKG5xg68
>義春
突然だが避難訓練しとこか?
まずはオレのブログの義春ブログURL,これは削除するぞ。
トキ板にここ貼られたら、いろいろ面倒ではないかい?
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- 2012年03月16日 20:39
- 訊けさあ
お手数をおかけしますが、お願いします。
あまり人に知られたくありません。
トキさまンとこに貼られたら、物凄くめんどくさいことになりますから…。
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- 2012年03月16日 20:55
- a hopeさま
わたしの言うことって、「宗教的見解」のちがう方には、無視されるか、反発されるか、だとおもうし…生長の家を信仰する方も、そうだとおもってます、
だから、ここでa hopeさまがわたしとやりとりして下さったことは、わたしこそ、ほんとに、感謝していますよ。
わたしも真理の解釈のちがいを指摘するのは、沈黙したい。
その宗教団体の方針がいやなら、離れればよい、いろいろ事情があれば、自分のいま出来ることをすればいいだけだし、守るべきは教団じゃなくて、真理や信仰だとおもうから、わたしも団体の行く末には、傍観です、
しかし、宗教が、わたしには、一番つかれるわ、笑。
わたし、ここに書き込みしてた方には、正直、思い入れがあった、なんか、特別なつかしくて、大好きで。なんだろ。
a hopeさまの、掲示板での書き込み、たのしみに、みてます〜。【Queen bee】本店、ますます繁盛するといいですね、笑。
義春さまの書き込みもまた楽しみにしてます、祈。
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- 2012年03月16日 21:31
- やっと、落ち着きました。
さくらさま、
>>373
何処にも行かないですよね。
わたし、ここでもっとさくらさまと話したいですよ。
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- 2012年03月16日 21:44
- さくらさま
>「生命の實相」と呼ぶものはどこにあるんでしょうね<
わたしにとって「生命の實相」はやっぱり聖典です。だって、まだ、全巻読んでないですしこれからの人生かけて、何度でも読み返したいと思っているからです。何巻のどのページを読んでも、魂が震えますし、そのたびに更に深く真理を学べるのですよ。それに、本自体に聖経と同じ神秘的な力があるとも思っています。
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- 2012年03月16日 21:46
-
>義春
・・・・・もう最近、トキさん板は冗談が飛ばしづらくなって来たよなあ(笑)
野球部部室もなんか・・・・機能不全だ。もうここを、部室とする、うん(笑)
なんかもっと、クダラナイ話がしたいなあ・・・・クダラナイ話、こんなに楽しいもの、ないよね。でもまあ、くだらないとは云っても「本流系のくだらない」話、これは御免だが(笑)
ううんんでもなんか、あれだなあ・・・言葉のやり取りってヤツは、ホント難しいなあ。
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- 2012年03月16日 21:52
- その、聖典をめぐって、裁判が起きているのは本当に悲しいことですよね。
わたしが、どうしてトキさまの掲示板に書き込み続けているのかといえば、だれかとつながっていたいからです。あそこの掲示板個性的な人が多いですが、復興Gさまとか、トキさまとか、「生長の家の教え」をしっかり体得されたすごい人だと思っているんですよ。
そんな方々とお話できる機会なんて他にはないですよね。
あそこに書き込みし続けることで、自分の魂を向上させられるのではないかと思っているんです。
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- 2012年03月16日 21:53
-
>a hope さま
一点忘れていたことが!
『生命の實相』に愛国運動(や政治運動)の話が「掲載されてます?」の問い合わせ、これを受けてましたよね。
答えは「ありません」です。
まあそうは言っても少々は、例示されてはいます。でもその、時事問題の掲載目的もまあ、光明思想普及の、てな、まあそんな文脈での登場のされかたです。
つまり「こんな風に愛国運動せよ!」とか「政治運動せよ!」てな話、これは掲載されてません。
・・・・・まあ一番よいのは榎本先生『弟子像』です。これ読めば、まあ、生長の家の政治運動、「どんだけトホホだったか」が判明します。(まあ、どんだけトホホは云いすぎだが)雅春先生の御教えからは、ガンガンに離れていっており、まあ榎本先生はこれらをかなり、冷ややかに見ておられます。
・・・・愛国烈士風の方には説明しづらいけれども、まあかなり、問題が多かったようですよ。
追伸
ちなみに当時のメンバー(生長の家・愛国派)の出した怪文書ってのがあるらしく。ある方から内容を知らせてもらいましたけども、まあ「完全に雅春先生が無視されてる」てな感じです。もうガンガンに死者も出ていたみたいであれ、やっぱヤリスギです。
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- 2012年03月16日 21:56
- >a hope さま
そうそう、復興G様!この方はかなりの人物です。少なくともそう、私は診ます。
トキさんと同氏はこれ、『生命の實相』からの乖離があまり見られません。素晴らしい方です。しかも復興G閣下・・・なんと御歳80歳とか(!)
・・・・さすがの私も同閣下から叱責されると・・・ヘコミますもの(笑)
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- 2012年03月16日 21:57
- さくらさま
>雅宣総裁があまりに誤解されていることが多いと思うのです。<
誤解どころか、本流の人体からは「極悪人」扱いですよね。
もう、わたしは本流の伝統さま以外の投稿はほとんどよんでいません。
最近は、トキさまのことも酷く言われてますよね。
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- 2012年03月16日 21:59
- 「訊け」管理人さま
復興Gさま 80歳なのですか!!!
信じられない...
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- 2012年03月16日 22:01
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>さくらマネ
359と360投稿文、なかなか参考になりました。ありがとう
あっちで春らんまんさま(笑)から、なにか来たときに使わせて頂きます。サンキュー!
追伸
うのちゃんから絡まれなくなり「ホッ」としてたら次は・・・・・愛国烈士風の女性登場(笑)もうなんか、「オレは前世でナニやったんだろう。」そんな気分だぜ
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- 2012年03月16日 22:04
- >復興Gさま 80歳なのですか!!!
>信じられない...
ご自分で書かれておられましたよ。正確には「80を越しており」だったかな・・・?自信はないけど、確報です。
しかもたまに、PC関連の知識をサラリと書かれておられるのだけども、「スゲッ」てな感じです。ものすごく向学心のお強い方でしょうね。榎本先生も高く評価なさっておられますし、なにより引用文の質とタイミング・・・常に絶妙です。すごい方だよなあ・・・・
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- 2012年03月16日 22:05
- 訊けさあ
はい、飛ばせませんね。
まぁ、真面目な人が多いのですよ、ちょっと冗談言うと、コイツは嘗めてンのか!?になるんでしょうね…。
でも、僕はそんな訊けさあの在り方は良いと思います。
だって、真面目過ぎたら、結局、遊び…余裕なくなって、それが…真理を以て人を撃つ、今の悲しみにつながってしまったんじゃないか…そんなことを思います。
そうですね、先ずは、訊けさあの部室部屋を作りますねw
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- 2012年03月16日 22:07
- さくらさま
>「信仰」に基づいていない、運動、というのが、どういう方向に行ったのか、生長の家のなかでどういう人たちを産んだのか、雅宣先生は、過去からすごく学ばれたとのだと思います。
それは生長の家の運動が「間違った方向」に行かないことを、徹底して決意されたと、わたしにはおもわれるです。
で、「過剰な反応」が多々あったので、まあ・・過剰な反応で対応せざるを得なかった部分もなきにしもあらず、と思えるんです、。<
それでは、雅宣先生は、「生長の家」の運動が間違った方向に行かないために、今の方針を貫かれているわけですか?
つまり、環境保護とか反原発とかそういう方向に...?
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- 2012年03月16日 22:14
- さくらさま
わたし自身は、環境保護も反原発も大賛成なんですよ。すごく大切なことだと思っているんです。
雅宣先生は良い所に目をつけられていると思います。
ですが、わたしが「生長の家」でしたいことは、そういうことではないんです。聖典「生命の實相」の真理を学び、実践して、自分の魂を生長させたいんです。
-
- 2012年03月16日 22:23
- さくらさま
>・・a hopeさまは、雅宣先生が「人間神の子」を実践されてないことは、どんなことから、かんじられますか? <
この質問ですが、おそらくさくらさまの感じている「神」や「真理」とわたしの感じている「神」や「真理」は微妙にちがっているように感じています。
そんなことから、考えると雅宣先生は雅宣先生流のやり方で「人間神の子」を実践されているつもりなのかもしれない...と今感じています。
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- 2012年03月16日 22:28
- さくらさま
何が正しいかは分かりません。わたしはまだまだ勉強不足です。
でも、「生長の家」の教えには、大前提に「和解」と「大調和」がうたわれています。
雅宣先生はまずは、ご兄弟と和解されるべきだと思います。
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- 2012年03月16日 22:46
- さくらさま、いらっしゃらないようですね。入れ違いですね。
わが家は、明日は家族でお出かけでの予定なので、今日は早めに寝ますね。
みなさま おやすみなさい
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- 2012年03月16日 23:15
- a hopeさま、
たくさん書いてくれてる…、涙、
わたしは、ほんと真理を求める方の姿が、すごく好きです。
それはもう…惚れてしまうんです、困るくらい…笑。
たびたびいいますがa hopeさまも、ほんとうに、わたしには美しいとおもいます。
はっきり言って、真理や宗教の見解のちがいを確かめあうことなんて…わたしには、申し訳ないですが、ほんとどうでもいいんです、
ほんりゅう?なにそれ?…くらいもう見てませんし…
しゅうきょうを「かたくしんじてる」ひとほど、じふんとちがってたら、どんなにざんこくにでも、はいじょ、できるんです。ひつようないですよ、ちがうものは。わたしはそれをみたし、たいけんしました。
大好きな方々にそれをされると、人を深く愛していても、わたしは、宗教というものを考えてしまうんです。
-
- 2012年03月16日 23:16
- 「自分の信じたもの」を、どう、実行するか、わたしにはそれが大切だとおもえるんです。
震災のボランティアのとき、違う信念や宗教の人もたくさんいるけど、同じ人を助けたいとか、日本を思う気持ちで一つになったとおもいます。
学会の人でも、共産党の人でも、生長の家などより、実行力あって尊敬しましたし、
そこで知り合った方に生長の家の考え方を話したら、感動して自分から本を読みたいと言ってくれました。
こういうことは縁だとわたしにはおもえるんです。
(それにしても、生長の家の人って、「イベント」慣れしてるし、「はい」を実行するし、どこいっても使える人間になれる
と改めてとおもいました、笑。
それと、生き通しの命や祈りを知っていることが、自分にもですが、周りの方にとってもどんなに救いになるか実感しました)
宗教がちがってたって、一つになれる道を探せるんですよね。
a hopeさまは、教団に入ってないんですから方針など縛られず、あらゆる機会を捕まえて、真理を学ばれることは、ほんとうに良いことだとおもいます。そうすべきです。
a hopeさま、わたしは、おもうんです、真理は人にあてはめるものではなく、自分を振り返るものかな、と。
公的な方でも、病気や不調和があらわれるのは、様々な原因、由縁があるとおもうんです。
それは、各人が持つ浄化のプロセスがちがうとおもうんです。
だれが、それを判断し、裁く権利があるのでしょうか。
わたしには、それがわからないんですよ。
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- 2012年03月16日 23:27
- a hopeさまの、なにに、こたえたのか、よくわからなくなりましたが…今日はわたしも、寝ます。
あした、すばらしい休日をお過ごしくださいね!
縁をもってくれて、感謝してます、ありがとう、ございます。
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- 2012年03月17日 07:49
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>さくらマネ
>a hopeさま、わたしは、おもうんです、真理は人にあてはめるものではなく、自分を振り返るものかな、と。<
うん・・・・自分への反省をこめてチェスト
いやなんか、不覚にも感動を催してしまい・・・
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- 2012年03月17日 11:11
- 一元論の問題点について書きます。世界をただ一つの原因で説明しようとするのが一元論です。二元論は、前と悪といった二項対立で世界を考えようとしますね。
で、一元論の世界は原因が一つですから、未来永劫おなじことが続きます。善なる世界はどこまでいっても善なる世界で変わることがありません。原因が悪であれば、変わらないというのは大変なことですから、善が原因である世界だけを想定します。二元論の場合は、対立がありますから、世界はどのようにも姿を変えることができますから、悪の存在は許容範囲といえますが、一元論では、悪の存在を許すと大変なことになってしまうので、ぜったいに許されないということになります。
一元論は、すべてはあらかじめ決められているとする「決定論」的な性格を持っているということです。変わっていってるようでも、本質的なところでは何も変わらない。善一元は善一元で、どこまでいっても変わりようがないということですね。
このような意味で、一元論はすごく安心のできる世界ではあるのですが、許容範囲は意外とせまくて、「こうでなければならない」という信仰におちいり易い世界ではないかという気がいたします。
-
- 2012年03月17日 11:17
- わたしは、一元論を否定しようとはおもいませんが、それがどのような世界であるのか、その自覚のとぼしさによっていらぬ争いがおこることもあるのではないかと、このように危惧する次第です。
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- 2012年03月17日 11:58
- 幕天居士様
一元論と二元論…確かに、そのようなところはあります。
言葉にはしにくいのですが、その一元論の『一』の目指す方向性と時間軸が、広く、また時間という概念に収まらないとするなら、それらの許容範囲の狭さに囚われないのではないかと思います。
真に言葉にしにくいのですが、全てはあらかじめ決められている…でも、その方法と時間は決められていない、では、そこに『こうでなくてはならない』という考え方が入らないような自由さを重んじないといけない、もしそこに自由さがなければ、本当の意味での『決定論』から外れ、形骸化して歴史にあるような種々の悲劇を起こすのではないかと思います。
それだから、言葉に出来る道は道ではないとも言えると思います。
自分自身の人生を省みて、そのように感じてなりません。
-
- 2012年03月17日 12:40
- 「本当の意味での決定論」。この言葉に、イマジネーションが広がります。さすがに義春さんは、何かをつかんでおられますね(「つかむ」といっても、もちろん執着するという意味ではありません)。
総体で世界は決定している可能性はありますね。全体では決定、部分では非決定、ということですかね。方法と時間、そしてなによりも重要であるのは、場所ですね。あらゆる場所において、運命は非決定ですね。存在可能なすべての場所と時間をトータルすれば、そこには決定(「けつじょう」と読んでもよい?)した世界がある。これを、義春さんは「本当の意味での決定論」といっておられるような気がいたします。
全体と部分を混同するところに「こうでなければならない」とする考え方が入り込むのかもしれません(全体で世界は調和していても、部分では不調和が許容される)。木を見て森を見ず。木は言葉にできても、森は言葉にできない。真理は、考えられているよりも、ずっと深いですね。義春さんの真意を理解したわけではありませんが、とりあえずのように考えてみた次第です。
-
- 2012年03月17日 13:41
- 幕天居士様
有り難うございます。
幕天居士様に伝わって嬉しいです。僕には言葉に出来なかったものですから…。
むしろ、幕天居士様のお考えが深くて、より考えが深まってきて、嬉しいです。
元は自分自身の病気があったおかげです。去年の癌宣告より、色々悩み苦しんで、言葉の中身を求めるようになりました。
話は外れますが、真理の全ては言葉に出来ない、でも言葉に出来ないものは実現出来ない…ならば、全体は見えない、だけど、部分なら出来よう、だったら敢えて限定してイメージして現実化させる、先ほどの投稿は、そこから発想しました。
部分での不調和があるから、調和の表れる余地があり、場所での運命が決められてないというのは、その表し方にこそが面白さがあると思います。
全体は決定(けつじょう)でも、全体はもしかすると、我々が知覚出来ないかもしれない、だから、『本当の決定論』は機械的に押し付けたりするものではなく、人が人それぞれの内なる良心と語らい、一本一本の木を見ながら、その木に流れる生命から森とつながる、それが部分部分での『本当の決定論』になり、より良いものを生み出していく…そう思います。
-
- 2012年03月17日 13:57
- 追伸
真に真理は深く、また、面白いものですね、これを知れただけでも、僕は今を生きる愉しさがあります。
-
- 2012年03月17日 15:45
- >>390 さくらさま
>しゅうきょうを「かたくしんじてる」ひとほど、じふんとちがってたら、どんなにざんこくにでも、はいじょ、できるんです。ひつようないですよ、ちがうものは。わたしはそれをみたし、たいけんしました。
大好きな方々にそれをされると、人を深く愛していても、わたしは、宗教というものを考えてしまうんです。<
わたしが、以前、トーキングスティックボードで学んだ「宗教の伝道」についてを一文で表せば、
「伝道とは、相手の実相を見ることで自分自身の魂を磨き、そのことによりおきる愛の奇跡」
ということになります。
この、「相手の実相をみる」または「相手に実相を礼拝する」という表現は、皆さんよく使われますが、このとらえ方が、みなそれぞれ違うのではないかと感じています。
わたしは、「相手の実相をみる」とは、相手の善なる姿を想像して表面的に見るものではなく、またその姿を礼拝するものでもなく、「心から信じる」ものだと思うのです。
そして、相手の実相を心から信じたとき、たとえば、雅宣先生の実相を心から信じたとき、それでも、現象におかしな姿が現われていたら、それは「雅宣先生の責任ではなくて、自分の影が雅宣先生に投影されているのだから自分の責任なのだ!」と考えなければいけないのだと思うのです。そうしないと、自分の魂を磨くことにつながらないと思うのです。
(つづく)
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- 2012年03月17日 15:48
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(つづき)
だから、今の雅宣先生(教団)のお姿は、本流の方々の心の影だと思っています。
そして、本流の先輩達の姿もまた、雅宣先生(教団)の心の影だとも思っています。
どちらが先にそのことに気づき、相手を赦し、さらに感謝の気持をおこし、愛の奇跡を起こせるのか、わたしは今傍観しているのです。
だって、部外者ですから...(笑)←ここで笑ったらだめですかね...
最初に「赦せた」方が、わたしにとっては、本物の「生長の家」ということになります。
でも、わたし、部外者ですけど、今まで何度か本流の方々に働きかけてはみたのですよ!あまり効果がありませんでしたが...
まあ、雅宣先生にはお会いすることは不可能ですから、本流に働きかけるしかないですよね。
「先輩方、愛を忘れていませんか?」みたいに...
もう、ほんとにこの件に関して、わたしは傍観するしかない状態です(笑)
きっと、なるようにしかならないですよね。
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- 2012年03月17日 19:19
- なかなか言葉に出来ないので、試行錯誤しながらボチボチ書いていきます。
僕は全体と部分が分かれているとは思ってません。
で、全体の『本当の意味での決定論』はある、でも部分では、その範囲が広いので、知覚出来ない、だから部分では不調和のある範囲も仮に出来る。
それで部分は完全に全体から分かれているのではなく、全体につながっているから、部分においても『本当の意味での決定論』があり、しかしながら、その指すところに、全体と同じ様に場所や時間軸等々が決められていない、だから、そこに機械的に押し付けたりするのは出来なくて、そこに無限がある…と感じてます。
だから此処で気を付けなければならないのが、全体としての『本当の意味での決定論』というのを、いきなり押し付けたりせず、その人それぞれに合わせていかなければならない、生命としての自由を奪う考え方は間違っていると感じます。
だから、全体と部分の有機的なつながり…そこに無限の可能性を僕は観ます。
うーん…なかなか言葉になりません…難しいです…。
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- 2012年03月17日 23:08
- a hopeさま、コメントをありがとうございます。お心、わかりました。
ここで、ゆっくりしていいのか、ほんとうに、まだ、とまどってるのですが・・ご縁ですので、a hopeさまの答えにはならないかもしれないけど、思ったことを、書きます。
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- 2012年03月17日 23:10
- a hopeさま、コメントをありがとうございます。お心、わかりました。
ほんねをいうと、ここでゆっくりしていいのか、まだ、とまどってるのですが、ご縁ですので、a hopeさまの答えにはならないかもしれないけど、ぽつぽつ思ったことを、書きます。
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- 2012年03月17日 23:11
- 全体と、部分、幕天居士さまと義春さまの考察、わたしには深い視点がよくわからないけれど・・感じることはあります。
自然界でも、部分で不調和に見えることも全体で調和してバランスがとれている。例えば魚の稚魚がたくさん生まれるけれど、生き残るのは一部です、残酷だと思って、人間の浅知恵ですべてを生かせば、自然全体でのバランスが崩れてしまう。そんな例は自然界にはいっぱいあります。
たぶん、義春様は、もっと深いことについて・・たとえば人間のあり方や、真理のあらわれ方について言及されているとおもうのですが、
まあ、これは、自然界でも、部分と全体のあり方が、微妙なバランスを保っている、というような例として、思いました。
これは、「部分の不調和が容認されている」こととも言えるかも知れません。
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- 2012年03月17日 23:11
- 人間のあり方の場合は、自由があり、そこに調和があらわれる可能性を秘めている、それは、時間や空間を、決定的に決めることはできないが、人間には、良心があり、そこに、部分による全体性の現れがある、そういったことなのでしょうか。
それについての「こうしなければならない」という、決めつけができない、というのはわかります。それは、その時は、部分ではよく見えても、やはり、全体のバランスを崩す要因になるとかんじます。その決めつけは、「善」や「正義」のようなものでも、というか、そう主張するからこそ、全体のバランスが崩れることも、あるようなこともある気がします。
最近、アーノルドミンデルという心理学者の本を読んでいて、人間の身体って、絶妙にバランスをとって、症状をあらわすんだということに、驚きました。ミンデルはその病気や不調が結果的に治ることはあっても、治すことに目標を置いていません。病気や身体のバランスが崩れるのも、心理的葛藤や、魂の成長のプロセスの声として、ミンデルが患者と寄り添って診ていってるのが、とても興味深いです。
やはり、その時不調を無理に治してみると、逆にバランスが崩れてしまうことにも気づいたりしています。
不調な状態を、ただ単に、悪と決めつけられないと、感じました。
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- 2012年03月17日 23:14
- うーん…
sakuraは、さくらの二重投稿です。
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- 2012年03月17日 23:28
- それから、愛について、の見解は、
わたしは、信じる。というところは、a hopeさまと、おなじです。
それから、わたしは、放つこと、これがないと、真の愛とは、やっぱり言えないとおもいます。
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- 2012年03月17日 23:30
- うーん、どんなテンションで書いても、話が合わず、ドン引きされてそうな気がする、笑。
…まだチューニングが、むずかしい。
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- 2012年03月18日 00:34
- a hopeさま
心の影とは、どういう現象なのか、興味深いですよね。
投影についても、ミンデルの本に書いてあったので、何か思いつけば、書かせてもらうかもしれません。
…良心、…全体を示す可能性というのも、なんか、つながりがありそうですね。幕天居士さまのソフィアカルパイの話にも、かんじるものがあります。
掲示板でこうしたことを考えれば、人間智と、バカにされてた気がしますね、そういえば。
でも、こうして考えることは、空想とはちがいますし、いろんなことに、つながっていくと、最近思えるようになりました。
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- 2012年03月18日 08:02
- おはようございます。続けます。
投影というのは、あらゆる人間関係のなかで、おこなわれてますね、多かれ少なかれ。
それが、否定的なものでも、肯定的なものでも、自分のまだ意識されていない部分をすべて、第三者に投影する可能性があるんですね。
ミンデルによると、専門家でさえも、自分の投影を見抜き統合するのは、不可能に近い、というほど、微妙なもの、みたいです。
これは、実際に表にだして相手や事柄と向き合わなければ、あるいは「戦わなければ」、気づきや統合が行われない場合がある、つまり、外的に現れた現実と向き合う必要があることが多いですよね。
ここで、速やかに自己の投影に気づいたら現象的問題の解決は早いけれど、外的な現実にとらわれ続け、戦い続ける可能性も、充分にたかい。
知的分析ができる洞察ににいたるまでは、感情のある地点を通過しないといけない。この情動のなかを、どう通過するかはなかなかおもうままにはいかないものですね。
自分を見つめるのは、すごく苦しいことですし、忍耐がいる。
自分にとって都合の悪い「外敵」と闘って追い払うほうが、手っ取り早い気になってしまう。
投影って、すごく、厄介だと、おもいます。
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- 2012年03月18日 08:15
- わたしが、興味深くおもったのは、肯定的投影は、おなじように危険だと、書いてあったことです。
自分の内的身体的経験のすべてが、外部に投影されるということには、おなじだから。
それは、自分をほんとうに、愛するということにつながるようです。
さらに、非常に心地よいために、否定的な投影より、さらに、統合がむずかしい、と。
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- 2012年03月18日 08:39
- 余計なこと書いたけど、まあ、なんの応答にもなってないですね、
a hopeさまとは、ここでまた再開して、わたしはお話できてよかったな。a hopeさまには、まっすぐ、真理の学びをし続けてほしいです、これからも変わらず!
思いがけず、幕天居士さまと、再会…いえ、やりとりできて、また気づきがありました、ありがとうございます。
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- 2012年03月18日 09:08
- みなさま おはようございます。
さくらさま
今、さ~とですが、さくらさまの昨晩から今朝にかけての投稿拝見しましたが、「投影」についてとても興味深いです。
ですが、今日は日曜日、家族と一日過ごしたいので、夜またゆっくり拝見し、お返事します。
さくらさま、わたしもさくらさまとお会いできて本当にうれしいのですよ。(泣きたいくらいです。)
さくらさまは、わたしに真理についていろいろ気づかせ、考えさせてくださいますし、人に対する優しさや、気遣いを教えてくださいます。
勝手ながら、さくらさまとは、ただならぬご縁を感じております(笑)
ここでなら、誰にも邪魔されず、ゆっくりお話できそうですね。(義春さまに感謝です。)
どこにも行かないでくださいね。
それでは、また、夜に...
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- 2012年03月18日 12:27
- さくら様、たくさん書いていただいてありがとうございます。これから、まずは総論めいたことを書かせていただくことにいたします。「全体とは何か」という考察は横に置いておくとして、結論を申しますなら、部分は全体として動くということです。個は個として運動するのではなく、個は全体運動としてしか運動できないということです。
存在するのは全体だけであって部分は存在しない、と考えたのがパルメニデスです。弟子のゼノンは、師の考えを後押しするために、いくつものパラドックスを考案しました。俊足のアキレスは、鈍足のカメに追いつけない。A地点からB地点への移動は不可能である。放たれた矢は飛ぶことができない、などなど。
ゼノンは、部分が存在するとすれば運動は不可能となる、ということを逆説的に証明することで、「存在するのは全体だけであって部分は存在しない」とする師の教えを援護しようと考えたのですね。ゼノンの目論見ははたして成功したといえるのでしょうか。
一即多、多即一という考え方もあります。部分と全体。これは、人類にとって永遠の課題であるのかもしれませんね。
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- 2012年03月18日 13:33
- さくら様
「調和」という観点から部分と全体ということを考えてみましょう。肉食動物は、捕食者として草食動物を襲いますね。それはあまりにも残酷な光景であり、それが調和した姿であるとは、とてもではないですが考えることはできません。ですがこれも、さくら様がいっておられる「魚の卵」とおなじように、全体として考えてみると、そこには計算し尽くされた調和が用意されているとしか思えなくなってきますね。
自然界の生き物たちは、はたして個として活動しているのでしょうか。それは個と見えて、じつは全体として活動しているからこそ自然界の調和はたもたれている、と考えることはできないでしょうか。もちろん、長い年月をかけて自然の調整機能が、試行錯誤をくり返しながら働きつづけてきた結果、最終的にいまのような形で落ち着いた、と考えることもできるでしょう。ですがわたしは、それでも世界は、個としてできなく全体として運動しているということを主張してみたいのであります。
ネットで「ティラノサウルスを襲っていた巨大ワニ」というトピックを見ました。「ワニも恐竜だ」とこのとき強くおもいました。なのに、なぜ恐竜だけが絶滅してワニは生き残ったのでしょう。ワニが恐竜であれば、この理由が説明できません。恐竜はなぜ絶滅したのか。これはたしかに不思議な話におもえます。
つづく
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- 2012年03月18日 13:33
- 「巨大化」を理由にあげる人もいますが、哺乳類とさして変わらない大きさの小型の恐竜もいたはずですし、さらに小型の恐竜もいたはずですから、「巨大化」だけでは説明にならないはずです。「隕石説」が正しいにしても、「なぜ恐竜だけがことごとく?」といった疑問が出てまいります。なにしろ恐竜は、数億年も地上に君臨した生き物なのです。たいていの危難に耐え抜くための「多様化」はできていたはずなのですね(海洋に生息していたはずの恐竜までもが絶滅してしまいました)。
絶滅という現象は、これだけを見れば不調和でありますが、全体との調和のなかで絶滅という現象が起きたと考えれば、これを調和と見ることもできます。ただひとつ言えるのは、恐竜が絶滅しなければ、人類がたとえ出現できたとしても地上の王者にはなり得なかった、ということでしょう。人類が繁栄するには、恐竜の絶滅は必要不可欠な条件であったはずなのです。
爬虫類は、体を左右に動かしながら移動しますね。これにたいして、哺乳類は体をタテに動かしながら移動します。爬虫類は魚類とおなじなのです。魚類が尾ひれを左右に動かしながら泳ぐように、爬虫類もまた体を左右にくねらせながら移動します。哺乳類であるクジラやイルカは尾ひれを上下に動かしながら泳ぎます。上下の運動は進化の証なのですね。
つづく
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- 2012年03月18日 13:34
- 恐竜は爬虫類と同類に見られがちですが、左右の動きではなく上下の動きで移動することに違いを見ることができます。左右の動きにくらべて上下の動きは、移動ということでは効率がよくできています。少なくとも地上では、左右よりも上下のほうが速く移動できます。上下の動きで移動する恐竜は、爬虫類よりもはるかに俊敏に動くことができていたはずなのです。
恐竜が絶滅していなかったとすれば、人類にとって恐竜は、ワニとはくらべものにならないほどの脅威であったはずです。その恐竜が絶滅してくれた。人類にとってそれは、この上のない幸運であったはずです。それははたして偶然なのだろうかと、わたしには思われてなりません。
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- 2012年03月18日 15:59
- さくら様
>最近、アーノルドミンデルという心理学者の本を読んでいて、人間の身体って、絶妙にバランスをとって、症状をあらわすんだということに、驚きました。ミンデルはその病気や不調が結果的に治ることはあっても、治すことに目標を置いていません。病気や身体のバランスが崩れるのも、心理的葛藤や、魂の成長のプロセスの声として、ミンデルが患者と寄り添って診ていってるのが、とても興味深いです。
やはり、その時不調を無理に治してみると、逆にバランスが崩れてしまうことにも気づいたりしています。
不調な状態を、ただ単に、悪と決めつけられないと、感じました。
このことに関連してわたくしごとを書きます。じつはわたしも、いくつかの身体症状をかかえておりますが、それはことごとくが奇妙としかいいようのない身体症状なのですね。
はっきりと申しますが、この身体症状、すべて自分でつくったと考えております。なぜなら、それらの症状は「こうした症状をつくりだそう」と具体的にその症状を思い描いたあとに出てきたものだからですね。なかには、つよく念じてわずか3時間後にあらわれた症状もあります。その症状は、3時間であらわれて20年くらいつづいています。
なかば強制的に病院にいかされたりしても、それは「医学的には千パーセントない」症状であったり、「医学の教科書には載ってない」症状であったりします。それは気のせいとか精神的なものとかではなく、まごうことなき身体症状であるにもかかわらず、ほかのどこにもないオリジナルバージョンの奇妙としかいいようのない症状なわけです。ではなぜわたしは、このような症状をつくりださねばならなかったのでしょうか。このことについて考えてみることにいたします。
つづく
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- 2012年03月18日 16:00
- これから書きますことは、さくら様から寄せられた以下の問いかけの回答にもなるかとおもいます。
>幕天居士さまは、何かを犠牲にして、求めたいことがありましたか?
そこまでして求めたいものは、なんですか?
わたしは若いころから、なにを犠牲にしてでも、この人生で「やりたいことだけをやる」と決めていました。やりたくないことはやらない。これがわたしの流儀でした。やりたいことだけをやって、やりたくないことをやらないために、もっとも役立ったのが身体症状だったのです。そのためにわたしは、ひと様に迷惑をかけながらも、しかも多少の不自由は耐え忍んででも、望んだ症状をつくりだして、「やりたいことだけをやる人生」を全うしたいと考えたのだとおもいます。
部分的不調和は、だからわたしの場合は「ある」ということです。それはたしかに、ほかの人たちからすれば、自分勝手な病的な人生であるとおもいます。それでも、その不調和を消し去ろうと考えたことは、ほとんどなかったようにおもいます。それはもしかしたら、わたしには、そうした不調和がより大きな調和を実現するために必要な条件であったからなのかもしれません。
つづく
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- 2012年03月18日 16:01
- 部分的な調和にとらわれてしまうと、全体的な不調和へとつながる可能性がないとはいえませんね。「魚の稚魚」を不自然に生かすという部分的な調和にとらわれてしまうと、全体的にはそれはマイナスな不調和へとつながるということですね。ライオンやハイエナが部分的な調和を意識して獲物を捕らなくなると、けっきょくは生物界全体の衰退をまねき寄せる結果にもなりかねない、ということですね。
身体症状という不調和を消し去ったとして、それが人生全体の調和につながるかというと、かならずしもそうとはいえないってことですよね。わたしの場合は、たぶんそうはならないという気がいたします。部分的な不調和をかかえながらも、人生全体を見渡したときには、あるいはミンデル的にいえば、「より大きな自己」を意識したときには、どちらにしてもおそらくは調和した方向へと向かって行ってるはずだと、そんなことをおもはないわけではありません。なんにしても、どちらに転ぶかは自分次第ということでしょうけど。
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- 2012年03月18日 17:07
- 幕天居士さま
お返事がおそくなりました。
深い内容なので、ずいぶん考えてしまいました(笑)
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>>370
>そして、また自分が死んだり愛する人が死んでしまったら、もう2度と一緒にご飯を食べたり、笑いあったり、楽しく過ごすことができなくなりますよね。これは現象世界での話ですが...
これは、幕天居士さまのおっしゃっている、「死の恐怖」と同じ性質のものでしょうか?
そうですね。「死の恐怖」といっても、いくつかあるとおもいます。ここでわたしが言っている「死の恐怖」とは、単純に、自分という存在が消えてなくなることへの怖れであると考えてください。もちろん、a hope様が言っておられる、人との関係性を失うことへの憂い、といったものもそのなかのひとつと考えられるでしょうね。
「死の恐怖」を一度は超えてみたこの身からすれば、それへの怖れはあったほうがよいのではないかとおもわなくはありません。西洋に、「メメントモリ」という言葉があります。日本語に訳せば「死を忘れるな」です。
シャーマンのドン・ファン・マトゥスは言います、「死はおまえの最良の盟友だ」と。「ほかのすべてが意味をなさないとき、死に触れることだけが大事なのだ」と。「重要なことはほかに何もない。他のすべてを手放すのだ」とも。
超えようとするより忘れるな。死を忘れないことが、すべての束縛(社会のオキテ)から解き放たれ、自由へとつながるゆいいつの道であるのかもしれません。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
(つづく)
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- 2012年03月18日 17:10
- (つづき)
わたし、大学3年生のときなんですが、大失恋をしたんです。とても激しい恋愛だったので、その分、空虚感がすごかったのです。そして、さらに、思うようにいかない就職活動で、人生が嫌になっちゃって、死んでしまおうかとまで思いつめた時期でした。ビルの高層階から下を見たりすると、「ここから飛び降りたら、確実に死ねるよな...」なんて無意識に考えたりしていた時期があります。寂しさから、お酒もよく飲みましたし、好きでもない男の子と付き合ったりもしましたが、これが一番精神的に辛かったですね。実際、大学4年のときには、友達でビルから投身自殺しちゃった子がいて、その当時のわたしにとって、「死」はすごくリアルでした。それでも、どうして死ななかったかと言うと、まず頭に浮かんだのが、実家の家族でした。わたしが、死んだらどれだけ悲しむだろう...って。それで、思いとどまりました。幽体離脱の体験をしたのはちょうどそのころでした。
その後の人生も色々ありましたが、「死ぬこと」をリアルに考えたのは、その時だけだと思います。
(つづく)
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- 2012年03月18日 17:13
- (つづき)
「死」を考える時、そんな風に悲観的に思うと良くないですよね。「死」への道まっしぐらになってしまいかねませんものね。
「メメントモリ」といって思い出すのは、藤原新也という「放浪カメラマン作家」の本ですが、わたし、独身時代にこの藤原新也が大好きで、本もよく読んだし、軽く恋愛感情ももっていました(笑)彼の若いころの本で「インド放浪」とか、「チベット放浪」が、大好きでした。彼もまた、いつも「死」について考えている人だなって思っていました。
>シャーマンのドン・ファン・マトゥスは言います、「死はおまえの最良の盟友だ」と。「ほかのすべてが意味をなさないとき、死に触れることだけが大事なのだ」と。「重要なことはほかに何もない。他のすべてを手放すのだ」とも。
超えようとするより忘れるな。死を忘れないことが、すべての束縛(社会のオキテ)から解き放たれ、自由へとつながるゆいいつの道であるのかもしれません。<
すみなせん。結局↑ここの文章は、わたしのあほ頭では、理解できませんでした(笑)
わ~嫌だ、わたし、幕天居士さまに、すごい打ち明け話しましたね~。
酒と男に溺れていた、a hopeの青春時代のお話ですよ......なんでだろ~(笑)
今は結婚して、優しい主人と可愛い子どもたちと幸せに暮らしています。この幸せに満足していないわけではないけれど、なにか、物足りない、それが何なのか、よくわからないのですが、ただ漠然とですが、何かわたしには自分自身のこの人生でしなければいけない「大切なこと」があるような気がしています。
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- 2012年03月18日 17:42
- 幕天居士さま さくらさま
今、幕天居士さまの、全体と部分のさくらさまあてのご投稿も拝見しました。わたし、その手のお話、今までは苦手だったのですが、今回は理解できました!
さくらさまとしている「投影」のお話にも、もしかしたらつながるかもしれないですね。
すごく、難しいお話ですが...(笑)
ただ、これから、わたしは、夕飯の支度をしたりするので、パソコンにもどれるのは、夜になります。
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- 2012年03月18日 17:48
- 幕天居士様
やりたいことだけをする…ですか…僕には出来なかったから、少し羨ましいなって思います。
僕はあちこちに書いてる様に、小さい頃から遺伝病で身体という個としての全体の基盤となる部分が不調和という状態から出発しました。
それで、どうなったか、個人としては、やりたいことがないのですよ。これはホント。
それをこの頃知り合った友人には、何故?と問われました。それだけ物を知ってて行動力もあるのに、何故何かしたいという欲がないのって。そう言われて、やっと気付きました。
せめて、知識だけでもブログでアップしないか?…それが、このブログの出来た原因。だけど結局、書きたいことは無かった、この程度、誰かが書くだろうなって。
だから、無意識に他人との関係性の中での、より大きな自己という部分を作り出すことで、部分の不調和を乗り越えるしかなかった…という人生でしょうか。
それだから、皆が幸せな社会を夢見たのでしょうね。
僕も人並みな幸せを求めてはいます、だけどそれはそこを自分自身のよりしろにしたいからに過ぎない、それは他人にとって良いのだろうか…少し悩みますね。
それだから幕天居士様の人生が病的というのは、他人からは言われましょうが、僕自身は、僕がこれだから言えないなぁ…まぁ、色々あるよなぁ…というところなのですよ。
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- 2012年03月18日 17:59
- 幕天居士さま、
こんなに自己開示してくださるとは思わなかった・・。
書いて下さって、ありがとうございます、さくらも、なんだか、ここへ来てよかったなって、思えました・・。
a hopeさまも、すごく告白をされている、笑。
愛と情熱の日々を送った若き日のahopeさまを思い浮かべました、お話素敵です、ありがとうございます。
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- 2012年03月18日 17:59
- さくらは、実は、生まれたときから、ある身体的な欠陥を抱えて生まれました。生死に関わることじゃなかったし、いまも、不自由のない身体なんでありがたいですが、10歳までに、なんどもなんども手術をしました。
この病気は、幕天居士さまのように、自分で選べたとは言えませんね、、(・・幕天居士さまってやっぱり、・・超人?笑。)
たぶん、ちっちゃいころから、なんか、無情、(10歳でそんな言葉はしらないけど、、)を感じていた気がするんです、この肉体を授かったって、自分はいったいなんだろ、って。病院の生活も、長かったし。
10歳の時、家庭のごたごたが、すごくこたえて、いわゆる、パニック障害になっちゃって、さくらは、とつぜん、・・なんというか、生きるって、なんだか、わかんなくなっちゃったんですよね。とつぜん、死の恐怖に投げ込まれるって、かんじてました。
宗教とか、心理のこととか興味持ったのは、その頃でした。興味を持った、というより、突きつけられた、ってかんじで。なんで生きているんだ、自分は、みたいな感じでした。
パニック障害って、とつぜん、死の恐怖に襲われたりして、くるちゃうかもって、不安が襲ってきたりするんですよね。まあ、不安定な子供ですよね。
そんなことが辛いんで、自殺とかは考えなくても、まあ、死ぬって、どんなだろっていうのは、たえず、頭にあった気がします。
a hopeさまと共通なのは、わたしも、10代の不安定なとき、やっぱり、幽体離脱してた。すごい、大失恋した。そしてもう一つは、好きでもない男の人と付き合うのは、一番精神的に、辛い、ってとこでしょうか、笑。
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- 2012年03月18日 17:59
- で、今は、そんな身体のこととか、不安定な症状があったから、今のさくらになれた。とも思えることも、確かにあります。それが、わたしのプロセスの、一部だったんだって。人が感じないこと、感じられたかも知れないし、見えないものも見たのかも知れない。
・・でも、「より大きな自己」を目指していけてたのか、わからないけど。
今も、心には、すごく、・・あったかくて大きな、自分の中の信じられるものがある、っておもえるけど、この世で生きている限りは、わたしは、そのプロセスの中にいて、まだまだいろいろ考えて行きたいって思うんです。