朝日が記者にツイッター解禁、記者の匿名性をなくし規律もたらす、脱「記者クラブ的報道」のきっかけになる可能性も

2012年03月15日(木) 牧野 洋
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 記者が取材中に何か耳寄りな話を聞いたら、自動的になんでもツイートしていいわけではない。ジャーナリストであるのだから、事実確認などを徹底したうえでツイートしなければならない。ここは普通に記事を書くときと同じルールを守るということだ。大スクープに発展する可能性のあるネタならば、ツイートせずに水面下で取材を進めるべきだろう。

 どういう形でつぶやくにせよ、何に興味を持って取材し、どんな記事を書いているのか伝えることが基本になる。たとえ新聞紙面上では無署名で記事を書いていても、ツイッター上では「こんな記事を書きました」などとつぶやくわけだ。そうなると記者の匿名性がますます薄れる。

 無署名主義の弊害はいろいろある。

 まず、記者が仮に間違ったことを書いたとしても、無署名であるから社内的に始末書を書かされるだけで世間的には何の批判も受けない。社内で処分を受けるのと社会的に糾弾されるのと比べ、どちらが記者にとってこたえるだろうか。当然ながら後者である。無署名という匿名性に守られていると、それだけ規律が働きにくいということだ。

 単純比較はできないが、匿名のツイッター利用者と実名のツイッター利用者のどちらが信頼できるかという問題と本質は同じだ。匿名でつぶやいていれば何も怖いものはない。デマを流して糾弾されても、アカウントを閉じて別のアカウントを新設すればいいだけの話だ。一方、実名は真剣勝負だ。一度失敗したら二度と復活できないこともある。

 次に、無署名であると記者が読者から直接電話や手紙をもらうことがめったにない。読者にしてみれば読んだ記事の筆者が誰だから分からないから、連絡の取りようがないのだ。結果として、記者は読者の反応をつかめず、上司や取材先の意向ばかり気にして記事を書くようになる。これではジャーナリストに欠かせない読者目線を保てなくなる。

 新聞記者時代の私もそうだった。自分の記事が一般読者にどう評価されているのかまったく見えず、上司から「よく書けた」と言われればとりあえず納得。取材先から「あの記事はとても影響が大きかった」と言われれば大喜びしたものだ。取材先の多くは権力側にあり、彼らの感想は読者目線からかけ離れている可能性があるのに、である。

 報道現場からは「新聞記事は多くの記者の共同作業から生まれている。単独署名はなじまない」といった意見もあるだろう。事実、現場の中堅記者が若手記者の取材メモを集約し、それを基にして記事を書くことは多い。

 だが、これは供給者の論理である。匿名性の陰に隠れて書けるとなれば、社内事情はどうであれ規律が緩むことに変わりはない。新聞社にしてみれば署名記事にできない理由をいろいろあげることはできるだろうが、読者にとってはどうでもいいことだ。

 個々の記者がツイッターを積極活用し、匿名性の世界から飛び出したら、どんなメリットがあるだろうか。

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