| 元ジャーナリスト 上杉隆 
Saturday March 17th 2012

『純粋ジャーナリズム批判 イジメの構造』





上杉隆の東京脱力メールマガジン Vol.110

「デマ野郎」と呼ばれて久しい。

私が、最初にこの言葉を投げつけられてから1年が経つ。

最初は2011年3月12日、メルトダウンの可能性を報じてからだ。

ところが最近では、新しい「呼び名」のもと新しい批判が始まっているようなのだ。

「取材をしないジャーナリスト」「ウラを取らないジャーナリスト」

インターネット上での私への批判はこうである。

最初は、匿名のツイッターアカウントを発端として、次は、元同業者たち(一部のジャーナリスト)からの批判が中心となっている。

不思議なこともあるものだ。日本ではいつから、ジャーナリストが同じジャーナリストの取材内容の開示やソースを明らかにするよう求めることになったのだろうか。

政府や公的機関、あるいは記者クラブによる発表報道の匿名性には目を瞑り、検証可能なようにできうる限りの情報源を提示している「元ジャーナリスト」のソースには狂ったように襲い掛かっている。それは哀れな人々による、極めて愚かな行為である。

そう、その結果、相対的に社会的立場の弱い人々の名前や存在を晒しあげることに加わっていることに彼らは平気なのである。

彼らの多くは、その陰湿なイジメの構造に気付かない。なぜなら、彼らこそが「取材をしない」「ウラを取らない」ジャーナリストに他ならないからだ。

日本の記者や一部のジャーナリストたちがそうした振る舞いに走るのはなぜかか。その答えを探す前に、私は、日本において「取材をしない」「ウラを取らない」と批判される自分自身のことについて考えてみた。以下はその一考察である。

まず、私のソースは、他の日本の元同業者たち(ジャーナリスト)のそれとは異質であり、また彼らとは重ならないことが多い。

また、それは、私自身の議員秘書経験を通じて得られた「財産」であることを否定しないし、ニューヨークタイムズ取材記者としての10年来の官邸権力報道の「賜物」だとも自負している。

さらに換言すれば、私の場合のソース(情報源)は、ニュースの「当事者」であることが圧倒的に多い。まずはその一例を挙げよう。

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