2012年03月13日 公開
目標は「早期復旧」一点
東北電力では暖房を使う家庭が増えるため、冬も電力需要が下がらないという事情があった。むしろ寒波が来ると、夏のピーク時並みの電力を必要とする。
「可能であれば冬に間に合わせたい」
そう松﨑氏は考えたのだ。
いちばんのネックは、電源用高圧ケーブルの在庫確保であった。発電所の電源用高圧ケーブルだけに、太さは約20cmもある。もちろん、特注品で在庫は存在しない。この部品が最短でも2012年の3月にならないと手に入らないとされたのだ。
「そこでまず復旧にあたり、電源用高圧ケーブルの入手に関して、納期を縮められないか、施工業者に相談しました。答えは『できるかぎりやってみる』だったのですが、結果、2011年中には手に入るという回答を得ました。三菱グループのなかでも最優先の課題としてくれたのです。よし、ならば、他に詰められるところはないかとさらに検討を始める……復旧開始後もこうした検討を積み重ね、最終的にはすべての作業を2012年初頭には終わらせよう、という計画になったのです」
松﨑氏はたとえ作業工程が狂っても施工業者に責任は問わないと明言していたが、信じていた。このお互いの信頼感、現場の一体感があれば、それはどんな契約書を交わすよりも「堅い」ものだ、と。
現場でも、同じことを感じていた。同じく津波の被害を受けた東北電力の新仙台火力発電所の技術グループ課長・鈴木康吏氏が話す。新仙台火力発電所では津波で被災した1号機(35万kW/重油)の復旧に努めた。なお、同所の2号機は老朽化のために昨年10月に廃止。現在、総出力98万kWの3号系列の建設を急いでいる。
「われわれ発電所サイドの人間も、関係会社、協力会社の方々なども、震災直後は交通手段もないなかで、徒歩で新仙台火力発電所に集まってきた。当初は津波で損壊した発電所にショックを受けましたが、施設からドロなどを出し終えると、『復旧にかかるぞ!』とみんなが前を向きました。じつは当初、復旧工程表には、スタート日時と目標日時が決まっているだけで、真ん中は白紙同然だったのです。でも、松﨑所長のトップダウンでみんながマージンを吐き出し、いつまでに何をすればいいか明確になると、気分が明るくなった。そしていっせいに作業が進み始めたんです」
鈴木氏も、異例の事態であることを把握していた。
「徹底的に時間と競争してやろう、と思っていました。たとえば、平時なら取り換えるべき部品も、『このケーブルは一部を切ればまだ使える』と判断したならば、そうしました」
目標は、「早期復旧」一点である。安全基準を満たしていれば、従来の慣例にとらわれない、と全員の意識統一ができていた。2011年夏、東北電力管内では水力発電所が新潟・福島豪雨によって甚大な被害を受けた。千年に一度の大震災に大洪水。天を恨みたくもなるだろう。しかし現場の人間は危機を前に、泣き言もいわず、ひたすら被災した発電所の復旧に努めていた。
福島第一原発から20数km
東京電力の広野火力発電所(福島県双葉郡広野町)でも、同じようなことが起きていた。1~5号機まである同所の合計出力は380万。原油、石炭を燃料とし、火力発電所のなかでは国内最大級の規模を誇る。津波により甚大な被害を受けた様子を所長の押谷豊氏が語る。
「水が引いたあと、タービン建屋の周りを見渡すと瓦礫の山しか見当たらない。復旧しようにも、どこから手をつけていいのかわからず、所員たちも絶望の色を隠せませんでした」
発電グループマネージャーの青山亮一氏もいう。
「そのとき、言葉とはほんとうに失うものだと知りました。復旧まで、最低でも1年はかかると思いました」
とくに同所の復旧を困難にしたのは、事故が起きた福島第一原発から20数kmしか離れていないことである。同所の煙突からは、第一原発の煙突がハッキリと視認できるほどの距離なのだ。
だが東京電力は、夏の電力需要のピークを迎える前に、なんとか復旧を間に合わせたいと考えた。
東京電力の発電設備の合計認可出力約6500万kWのうち、東北から関東にかけての太平洋沿岸にある福島第一・第二原子力発電所、広野火力発電所、常陸那珂火力発電所、鹿島火力発電所が津波により被災し、約1800万kW分の発電機が停止。合計380万の出力をもつ広野発電所が復旧するかどうかは、まさに2011年夏の東京の命運を決する事態であった。本店からは「7月には復旧せよ」との厳命が届いた。
「しかし、施工業者であるメーカーさんと工程表をつくってみると、何度引き直しても期限を2カ月以上はみ出してしまうんです。状況が状況なだけに、夏に間に合わせるしかないことはわかっていました。しかし、私も最初は頭を抱えるしかなかったですね」
やむなく押谷氏は“鬼”になる。できない理由はいわず、どうすればできるかを考えてくれ――。そう関係会社や部下たちに伝えたのだ。
「これまで発電所では、2社以上のメーカーさんと、同じ席でミーティングを実施することなどありませんでした。しかし今回は時間がないため、そんなことはいっていられませんでした。作業に関わるすべての情報を共有することで、時間の短縮をめざしたのです」
無理に無理を重ねた結果、なんとか7月に復旧が完成する工程表をつくり上げ、そのあとは人海戦術。多いときは2800人もの人間が、24時間体制で作業にあたった。メンバーは仮設の事務所にダンボールを敷いて仮眠をとる日が何日も続いた。その様子をみて、あらためて自分たちの責任の大きさを語り合うこともあった。
「夏の電力ピーク時、関東に大停電を起こさないためには、広野火力の早期復旧が不可欠である」
誰も知っていることに違いないと思いつつも、そう語らずにはいられなかった。一方で、作業員に不安を与えないように放射線量の情報開示にも努めた。
「幸いなことに広野火力周辺の空間線量は比較的低かったが、毎日、計測した放射線量を公開していました」(押谷氏)
そして広野火力発電所は震災から4カ月で復旧を遂げた。その後、押谷氏は入社2年目の所員が話しかけてきた言葉が忘れられないという。
「彼は『かつてない事態を経験し、乗り越えた経験は自分の人生にとっても大きい』『技術を身につけ、思いを同じにする者が力を合わせれば、何事にも立ち向かえるという自信がついた』といってくれたのです」
東北を照らす火
仙台火力、新仙台火力発電所の松﨑所長が、今回の復旧劇でもっとも重要だったことをこう話す。
「いちばんは柔軟性ですよ」
日本人はマジメだ。納期が定められるとなれば、絶対に守り通すべきものとなる。だからこそ、日程のマージンも必要となる。しかし、松﨑氏のような責任者も、鈴木氏のような現場の人間も従来の慣例にとらわれず、「柔軟」に動いた結果、復旧までの時間を短縮できた。
昨年12月中旬、仙台火力発電は試運転の日を迎えた。「点火!」の声とともに火炎が灯り、20本すべての燃焼器に広がると、液晶画面に「着火」と表示される。
「発電所全体に、無言の拍手が響き渡りました。私は『東北を照らす火だ』と感じました」(松﨑氏)
そして今年2月8日、営業運転再開。その週末に東北地方に大寒波がやってきた。しかし、供給予備率には余裕があった。松﨑氏ら東北電力の所員と関係会社の必死の復旧がもたらしたものだった。
今回取材した三電力管内のみならず、たしかに2012年3月現在、全国で電力は「足りている」。しかしわれわれはその「裏側」の事情についても、思いを馳せるべきなのかもしれない。
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