bjリーグ
3.11西日本にいた選手たち[第7回:横浜ビー・コルセアーズ/青木勇人選手]
東日本大震災から1年を迎え、HOOP HOPE NIPPON×クラッチタイムの3.11祈念企画として、西日本にいた選手たちにお話を伺いました。
最終回は横浜ビー・コルセアーズの青木勇人選手。3.11東日本大震災が起きた昨シーズンは大分ヒートデビルズに所属し、西日本にいた選手として当時の心境を振り返っていただきました。自分たちにできることは「バスケットボールの火を絶やさない」と言う青木選手。今後もつないでいかないといけないと感じた重い言葉でした。
東日本大震災の一報をどのように知りましたか?
- 青木選手:アウェイでの滋賀戦でしたので、その時は中部国際空港に着いて、バスで開催地の彦根へと向かっていました。ホテルに着いたら妻から電話があり「そっちの地震は大丈夫?」と言われ、何の話か分からずにテレビをつけたらちょうど津波の映像が流れていました。それを見た時は本当にショックでした。すぐに練習に行く予定でしたが、ちょっとテレビの前から動けなかったです。何が起こってるのか分からず、全く揺れも感じていませんからこれが現実のシーンなのかどうか信じるまでにけっこうな時間がかかりました。とはいえ練習もありましたので、チームメイトとすごいことが起きてると話していたのが第一報でした。
妻は大分にいましたので、そこから見たら滋賀は東であり、どれぐらいの影響があるかあの状況では分からなかったのでしょう。僕自身も地元が(神奈川県)藤沢なので、藤沢や鎌倉にも津波が来るかも知れないという情報もあり、すぐに友達に連絡をしました。その時、自分が電話をかけたら他の方がつながりにくくなるかと思ったので、メールで必要最低限の情報を時間がある時に返して欲しいと連絡を入れました。そうしたら、そこまでの被害は無さそうだと返信はありましたが、とてもショッキングでしたね。
当日の練習は普通に行われていたのですね。
- 青木選手:bjリーグの第一弾の決断としては次の日に試合を行うということでした。まだ不確定であり、やるかやらないかは分からなかった状況でしたが、第一報は試合があるということであり、そのための準備をしなければいけないので練習は普通に行われました。しかし、やはりその時もまだ信じられない気持ちがありました。夜になって事態がいろいろ変わっていき、やはりbjリーグとしても中止せざるを得ないということになり、翌日の朝に大分へ帰る準備をしました。
夜のうちに中止は決定されましたか?
- 青木選手:確かそうだったと思いますが、翌朝だったような気もしますし、そこはちょっと記憶が定かではないです。ただ、だいぶ夜遅くまでみんなといろいろと話し合いをしながら、リーグの決定を待っていました。
その会話の中で試合をするべきだ、または中止した方が良いなどの意見は出ましたか?
- 青木選手:あまり、やる、やらないという話はせず、個々としてはあったのかもしれませんが、ひとつの意見としてまとめようという動きは無かったです。ただ僕の中では、これはバスケットをやって良い状況なのかという疑問がありました。早々に他のスポーツは中止を発表しており、bjリーグがどのような決定を下すのかをしっかり待っていないといけないとは思っていました。簡単には決断できないのでどのようになるのか、その状況を見守っていました。
その後、bjリーグは再開しました。どのような気持ちで取り組んでいましたか?
- 青木選手:震災後の翌週には、ホームの大分県立体育館で福岡との復興支援ゲーム開催が決まりました。しかし、ヘッドコーチをはじめ、チームの外国人はみんな帰国してしまっていました。残されているメンバーでできることはバスケットボールをすることだ、ということをチームの中で決め、試合をやろう、そして復興支援のために何かできることをやろうとなり、募金活動をすることを決めました。
コートに立った時に思ったことは、震災によりバスケットができない状況になった子供たちがいっぱいいる中で、バスケットの試合があるということ自体に複雑な気持ちを持ちました。その時、どうやって自分の気持ちを整理したかと言うと、今、できない人たちが復興した時にバスケットができる環境を残しておくためにも、今、バスケットをできる自分たちが続けていくことが大事だと思うようにしました。バスケットができる環境が戻った時に、震災によりリーグやチームが無くなってしまっていては、戻ってくる場所まで無くなってしまいます。それだけはやっていはいけないな、と思いました。今いるメンバーで、できることをやって、戻って来る環境を常に整えておくことが復興支援ゲームの位置づけではないか、と僕個人は思っていました。
なるほど。震災によりバスケの火を消してしまったら「全てが終わる」と...。
- 青木選手:震災によりバスケット全体が終わってその火を消してしまったら、それこそ復興へ向けた灯火までも消してしまうことになってしまいます。灯火があれば、そこにみんな集まってくると思います。僕ら西日本にいたチームや選手がバスケットを続け、リーグを守ることが大事だと思いました。僕らががんばって継続していくことで、何とか残るシーズンを仲間たちががんばってくれれば、休部になった3チームにとっても来シーズンは戻れるかも知れないという風に思えるかもしれない。復興へのモチベーションも上がると思います。とくに仙台のチームのためを思ってプレイしていましたし、それは埼玉も東京も同じですが、バスケットの火を灯し続けようと思っていました。
今シーズン横浜に移籍し、岩手遠征もありましたが岩手でのホームゲームはいかがでしたか?
- 青木選手:本当に強い気持ちを持ったチームだと思いました。被災地のチームではありますが、岩手の人たちはすごく熱いですし、ブースターは一生懸命応援していますし、絶対に諦めないチームを作ってきています。今シーズン、岩手vs大分(12/10-11)が津波被害のあった宮古市で試合をしました。その時に観客がいっぱい来たという話を聞いて僕はすごく感動しました。そこで試合を行ったチームもすごいですし、集まった人もすごいですし、集めようとした町の人たちもすごいと思いました。大分の選手などにその時の状況を聞いたところ、まだまだ被災されたままの状態が続いていたそうです。でも、体育館に集まった子供たちの笑顔が少しでもあればそこで試合をする意味があると思いますね。
西日本は普通の生活を送ることができたと思いますが、違和感のようなものは感じましたか?
- 青木選手:東日本では(スーパーなどで売ってる)水が無くなった、でもうちの近くでは水も電池もあるという状況であり、現実として受け止めるられず、想像ができないとう感じですかね。東京に住んでいる妻の妹が乾電池が無いと連絡してきて、こっちには売っていましたので少し用意をしてあげました。友達が震災後に家に帰るのにも苦労したと聞けば、こちらとしても備えておこうといった何かあったときの心構えを持つようにはなりました。実際に揺れを感じたり被害はありませんでしたが、日本全体として何とかしようという気持ちはありました。
今回の被害は津波によるものが大きかったですが、サーファーでもある青木選手はどう感じてますか?
- 青木選手:そこまでコアなサーファーではないのでうまく言えませんが...。福島や三陸沖でもサーフィンをやってる方はいっぱいいらっしゃいましたが、ビーチ自体が被害を負っているということは聞いたことがあります。でも、そこにサーフィンをしたい方たちがまた集まって来て、ビーチを元に戻してサーフィンができる環境を作ろうという運動も起きています。その呼び掛けに県外からも多くの方が力を貸しているという話も聞きます。津波は恐いですが、自然と戯れる、サーフィンは自然そのものと遊ぶわけですから、それも全部受け止めて次に自分たちにできることを考えて前に進んでいるように感じています。そこまでのサーファーではないので、うまく言えませんが...。バスケットのことならばなんとか言えますけどね。
思い出したことがあります。滋賀から帰る時の中部国際空港で沖縄のチームと一緒になりました。彼らは浜松との試合をするはずであり、もしかするとファイナルで当たるかも知れない前哨戦と言われていた中で震災が起き、ゲームは中止となり帰ることとなりました。本来であれば、優勝を占う前哨戦であり、力を入れていたと思います。しかし、「もうそれどころでは無い」と、沖縄のGMやヘッドコーチが本当にショッキングな出来事が起き、「沖縄に戻ってまずはできることからやりましょう」という話をしていたのがすごく印象的でした。同じように試合が中止となった2つのチームが空港で出会ったことはとても印象に残っています。
復興支援としてバスケット選手にできることややりたいことは何でしょうか?
- 青木選手:バスケットの火を絶やさないことが一番。被災された方がいつでもプロバスケを目指したいという選択肢を最後まで残しておけるようにするのが、僕たちの使命なのではないかと思っています。バスケットリーグ、日本のバスケットがちゃんと仕事を選ぶ選択肢の一つとして残しておくことが、子供たちの夢にもつながると思います。地域に根ざしていきながら大きくならなければいけませんし、今、働いている人たちがレベルアップしていけばビジネスとしても成長できるはずです。仕事の選択肢を増やすことの一端を日本のバスケットが作ること。そのためにも今いる選手やスタッフが、少しでも良い方向に向かうように考えて行くことが大事ではないかと思っています。
あとがき
ご協力いただいた選手、チーム関係者の皆様に御礼を申し上げます。ありがとうございました。
西日本にいても家族や仲間が被災された選手もいました。そして、できることを迅速に行ったにも関わらず、選手たちは支援活動に歯がゆさやもどかしさを感じていました。
一日も早い復旧・復興を願うとともに、我々も含めたバスケットボール界としてできる支援活動を考えていかなければいけません。
まずはできることから。バスケットの火を絶やさないためにも──
3.11西日本にいた選手たち
Special Thanks.