日本の不動産開発事業、特に都市再開発の分野で「アークヒルズ」「六本木ヒルズ」に代表される多大な業績を残した森ビル会長の森稔氏(77)が8日、亡くなった。
「前例は、自分たちが作る」「未知の領域への挑戦こそ、森ビルの存在理由」。森氏が09年に発刊した著書で記した言葉だが、森氏の人生は言葉通りの挑戦の連続だった。
森氏は、東京大学在学中から家業の不動産業を手伝い、父・泰吉郎氏とともに1959年、森ビルを創業。地盤である東京・虎ノ門地区周辺で、複数地主との共同建築による貸しビル事業を営み、地歩を築いた。
飛躍のきっかけになったのは、69年に東京・赤坂六本木地区で着手した大規模再開発事業だった。前例のない中で地権者の説得を粘り強く進め、86年に完成させたアークヒルズは、低層の町並みを計画的に超高層施設群に造り替えた最初の事例と評価された。
近代建築の祖といわれる建築家ル・コルビュジエに傾倒。99年には、自ら考案した職住近接型の都市モデル「垂直の庭園都市」に基づく都市再生政策を提唱。03年に完成させた東京・六本木地区の再開発事業「六本木ヒルズ」で、地下から超高層まで空間を有効利用する同モデルを具体化させた。
六本木ヒルズで特筆すべきことは、「“逃げ出す街”から“逃げ込む街へ”」という森氏の思想のもと、約100億円を投じて地下に大規模発電所を設けるなど、街区全体の防災機能、耐震性能をできる限り高めて造られたことだ。大地震に見舞われても24時間機能を止めないその真価を、東日本大震災の際に発揮し、注目された。
08年には中国・上海に高さ492メートルの超高層ビル「上海環球金融中心」を完成。11年6月に社長を退いたが、都市再開発を原動力とする日本経済の再生にかける情熱は、なお盛んだった。
同年7月の毎日新聞のインタビューの際には、都市機能の点で世界のライバル都市に東京が後れを取ることに強い危機感を表明し、「これから大いに忙しくして、六本木ヒルズを2年にひとつくらい建てていくペースで仕事したいと思っています」と話していたが、夢は次世代に引き継がれた。【三島健二】
森氏の死去について、06年12月から森ビルの情報発信機関「アカデミーヒルズ」の理事長を務め、森氏と親交のあった竹中平蔵・慶応大学教授は、「都市開発、都市戦略で歴史に名を残す仕事をされた。今日では広く語られるようになったグローバルな都市間競争の重要性についても、14~15年前に強調されていた」と評価。「強い意志を持つ一方で、にこやかに人の意見をよく聞く方だった」と惜しんだ。
毎日新聞 2012年3月13日 東京朝刊