深海の闇では星も雨も見ることはないが、雪だけは例外だ。マリンスノーと呼ばれる、肉眼で観察可能な海中懸濁物である。
球状、彗星状、糸状、平板状など様々な形をした海中の雪が、静かに海中へと降り積もっていく。どこか非現実感を伴ったそれは、何度見ても呆けたような微笑みを呼び覚ます。
「綺麗だな……」
全周囲スクリーンから周囲の神秘的な光景を目の当たりにして、イワブチ大尉は思わず感嘆の吐息を漏らした。見果てぬ天から振る幻想の白雪。生命を拒む残酷な漆黒に紛れたそれは、戦場などという無粋な場所にあって、場違いな美しさで煌めく。
一つ息を吐いてモニタの表示を切り替えた。母艦のセンサとのリンクを切り、自ら搭乗する兵器――『機甲兵』の視界へ。
薄暗い球形のコクピットの、ほぼ全周を覆うモニタ群。操縦に必要なインタフェースが見当たらないその空間には、忘れられたように小さな箱が一つ。白を基調とした軍服の懐から端末を取り出し、手馴れた手付きで小箱のスロットに挿し込む。認証――本人と確認。微かな機械音と共に過去の起動データが呼び出され、機体を再設定。薄暗かった機内が、途端に視界を埋め尽くす光に覆われていく。
起動シークエンスを開始。
出力制御、関節稼働値、操縦予測補助機能を再設定。
余計な物思いを振り落とすように、軽く頭を振った。圧縮休眠ポッドでの回復が足りなかったのか。頬を叩こうとするが、硬い感触。すでにヘルメットをかぶっていたことに気付く。苦笑い。
【Welcome Lieutenant Iwabuchi.】
歓迎の表示とともに非物質型操作盤が出現する。搭乗口閉鎖、非常設備の確認を手動で行い、しかる後にヘルメットを機体に連結。脳波と機体がリンクしたことを示す、ほのかな燐光が操作盤を浮かび上がらせる。
発艦シークエンスへ移行。
視界は良好。係員の振るコンダクト・バーの指示に沿って、発射孔へ。戦艦の機内と孔をつなぐ扉が閉じられ、外と同じ濃度・圧力に調節された海水が流れ込む。この闘いで四度目の出撃。耐圧装置――フェルマント・ドライヴを駆動。深海での高速戦闘を可能にし、また戦争の火種でもある、天使にして悪魔たる魔性の燐光が機体を包む。
「デルタ1、発艦準備完了」
[こちら管制塔。デルタ1、発艦を許可します。――ご武運を]
掛けられた言葉に僅かに頬を緩める。簡潔を旨とする管制において、余計な一言は厳密には軍規違反だが、その一言がささくれた心に染み入った。
グローブに包まれた両手を握り直す。意識を集中。
発射孔が開く。深淵の闇の中に、蒼い燐光が蛍のように舞っているのがモニター越しに視認された。微かな機械音と共に、スラスターが滑り出す。放たれた矢となって、漆黒の戦場へ。光届かぬ深海で、巨人を模した戦闘機械が、一陣の光芒となって駆ける。
ヘルメットを介して脳波で制御される機体は、最早自分の手足と言っても過言ではない。秒速五十メートル、それ自体が一つの弾丸と化して、数百メートル先に位置する敵陣へと突き抜けてゆく。縦横無尽に、あるいは滅茶苦茶に飛び回る両軍の『機甲兵』のために、深海は掻き乱され、荒れた水流がまた戦況を曖昧にしていた。
眼前に現れた敵機。機影を捉えたと脳が理解した半瞬前には、相手を先に死神の腕に委ねるべく、悪意渦巻く高速のステップが始まっている。反射神経の極限、ネットワークを駆け巡る電気信号。高圧水流を弾と化すライフルの連射を紙一重で躱し、そのまま螺旋を描くように肉薄。膨れ上がる人工筋肉の出力を一挙に押し出し、破壊へと変化させる。左腕のブレードでの一撃は銃身でそらされ、崩した態勢を無理に立て直して追撃を回避。青白いフェルマント・ドライヴの燐光に、音もなく四散する水圧弾のあぶくが混じる。転進する自機に追いすがりつつ連射を浴びせてくる敵機を横目に、操作盤にコマンドを叩き込む。脳波の指示と相まって、機体が一気に上昇。踊るように。舞うように。
最悪の死闘は時として最高の舞踏と同等のものであると、どこかで誰かが語っていた。ギリギリで命を削り合っているからこそ、刹那の輝きがあるのだと――
――聞いて呆れる。
悪態を高速で流れ行く景色に置き去りにして、構え直したライフルの斉射を浴びせる。こちらの身を守るフェルマント・ドライヴの青白い輝きは、敵機をも平等に守護する。強烈な反力に晒された無形の銃弾は、力を無くし次々と霧散していく。
何のために闘っているのか、問われたことも、自ら疑問に思ったこともないわけではない。破壊と、破壊と、それから破壊。生産性の欠片も無い。
答えは単純だ――軍人だから。
ならば、どうして自分は軍人になったのだったか。
脳裏にいつか見たような思いを踊らせながら、漆黒の海底を駆ける。流れるように突き出されたブレードは、やはり敵機のブレードによって正面から受け止められた。彼我の速度と加速度が一瞬にしてゼロになり、突然の加速度で生じた強烈な慣性力が疲労した身体を揺さぶる。上げかけた呻き声を抑えて、機体の足蹴を叩き込む。弾かれたが、距離を取ることには成功した。
(こいつ、できる――)
その思いにどこか刹那的で屈折した喜びが混じっていることを否定できないまま、エンブローア共和国軍第三艦隊機甲兵部隊イワブチ大尉は再びの飛翔を試みる。
螺旋に動いての高速接近・一撃離脱は、地上とも天上とも異なるこの世界で育まれつつある戦術の一つだった。時折挟みこむ急制動で迎撃を回避。斬撃。回避。刺突。迎撃。銃撃。消滅。応射。回避。斬撃。斬撃。掌底。蹴撃。斬撃。銃撃。銃撃。斬撃。
型もクソもない、まるで子供のケンカのような。大義も理由もそこには必要ない。
――そうだ、自分は――
そして、辿り着く結論はいつもと同じ。宇宙を駆けるのとはまた違った――実際に飛んだことはないから知らないが――、地上を駆け回るのとは違った。人類の長い歴史の中でも、おそらくは自分たちが初めてであろう、超高速での海底戦闘。その、水の障壁を突き破り、泡沫を置き去りにして舞う、この感覚が。
決着は唐突に訪れた。僅かに逸れた敵機の攻撃、カウンター気味に付きだしたイワブチ大尉のブレードがその中核を、コクピットを貫いたのだ。離脱。爆発。四散する機体は加護を失い、すぐに強大な水圧を叩き付けられて押し潰される。それは既に当たり前の光景で、眼を逸らすことも、「眼を逸らしてはいけない」と思うことすら、なかった。
既にベテランの領域に足を踏み入れつつある彼にとっても、深海の戦闘は決して楽なものではない。一機を屠った時点で僅かに集中力が途切れてしまうのは仕方のないことではあったし、その僅かな隙が岐路になることは、決して少ないことではなかった。
「――あぶねえ、兄貴ッ」
聞き慣れた声での通信とほぼ同時に届いた、沈み込むような灼熱の感覚。それは、失望と絶望、そして何故か安堵を伴って。
――こら。公的な場では階級で呼べって、言っただろ……
大尉の意識は、そこで途切れた。
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