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朝日ジャーナル「わたしたちと原発」 - 河合弘之の提言
特集『わたしたちと原発』と題された「朝日ジャーナル」(週刊朝日の臨時増刊)が発売されている。ご記憶の方も多いと思うが、昨年6月に出た『原発と人間』の特集号は脱力させられる内容で、巻頭言で編集長の河畠大四が、「人類は、原子力という割安でエコな『夢のエネルギー』を手に入れた」と書き、編集後記で「原発は『賛成』『反対』の二元論だけで語れません」と総括されたものだった。この「週刊朝日の臨時増刊」を担当している編集スタッフは、原発について賛成でも反対でもない立場を表明していて、原発について判断する知識を持ってない者たちが売っていたのである。この当時、確かにマスコミは反対論と賛成論の二つを等価に並べて原発報道をやっていて、御用学者たちが堂々とテレビに顔を出していたし、報ステの「私はこう思う」の特集シリーズでも双方の論者が交互に登板する企画になっていた。それを見ていた「週刊朝日の臨時増刊」の若い編集メンバーが、マスコミの原発報道の論調や態度を「市場」の一般的傾向と捉え、「賛成でも反対でもない」立場で編集していたのである。今回の号は、9か月前と較べれば正常な内容になったが、掲載されている開沼博の愚劣な記事などは、なお「賛成でも反対でもない」編集部の意向を世間に訴えている。一言で言えば、脱構築のイデオロギーに染まった偏狭で未熟な価値相対主義。


現代の日本の若者の支配的な思想である。彼らは、学校で教師によってこのイデオロギーを入念に刷り込まれ、10代の少年期を通じた長い教育で精神形成しているために、脱構築が絶対的なドグマであり、「右でも左でもない」を脊髄反射で自己主張する。そして、脱原発の言説や運動が「左」だと臭いを嗅ぎ取るや、それに対し猛然と罵倒を始め、敵視と憎悪の姿勢で身構えて攻撃の屁理屈を並べ立てるのだ。姜尚中や小熊英二などが常套句にしているところの、戦後日本否定の一般論やら「良識的知識人」へのレッテル批判などの言説を繰り出し、「右でも左でもない」自己の正当化を幼稚に喚き騒ぐのである。若い「社会学者」に散見されるこうした現象は、イデオロギーの為せる業であり、パターン化された宗教的な行動に他ならない。脱構築ロボット。彼らは、学校で教育されて内面化された思想に忠実に動いているのであり、「戦後」や「左翼」を否定することは、生理であると同時に使命であり、その教義を全うするために存在する職業が「社会学者」なのである。脱構築が正統なのであり、脱構築の敵である「左翼」が異端であり、この社会に残存する異端を一掃することが、「社会学者」の天職(ベルーフ)なのだ。こうして、脱構築の「社会学者」が次々と再生産され、出版の「業界」と「市場」を秩序づけて循環させ、脱構築を布教して信者を拡大させるのである。

正直なところを言えば、この「週刊朝日の臨時増刊」を含めて、原発問題に関する書籍を購入して読むのには抵抗がある。確かに、私は原発の専門家でもないし、知識や情報は必要だろうし、原発について何事か発言する身であれば、市民として最低限の勉強は必要であるとは思う。しかし、一方で、本屋に堆く積まれている原発関連本の山を見て、どうにも違和感を隠せない。もう事故から1年になるのに、まだ同じような原発本が出版されて売れ、ネットで議論が延々と続いている現実に不快な気分を抑えられない。もう、いい加減に議論や読書は止めるべきなのだ。結論を出し、原発を停止し廃炉にすればいいだけなのだ。原発をネタにして出版社や雑誌社が商売繁盛するのは、国民の時間と資源の浪費だとしか思えない。日本人はもっと他に考えるべき事柄が多くある。少子高齢化にどう歯止めをかけるか、産業競争力をどう甦生させるか、新しい技術と冨は何なのか、地方をどう再生させるか、新自由主義に替わる経済社会の概念と構想は何か、日本人が知恵を絞らなくてはならない焦眉の課題は山ほどある。原発問題でかくエネルギーを費やすのは不要なのだ。しかし、国論が纏まらないから、徒労感の中で議論に参加せざるを得ない。官僚と政治家と財界とマスコミが頑迷に原発推進を止めないから、綱引きの手を離すことができない。関連本を読んだり紹介する一人にならざるを得ない。

河合弘之の記事は、そうした私の鬱懐にブレイクスルーのヒントを与えてくれる啓示になっていた。福島の原発問題というのは、とにかく事故の責任者を逮捕することが第一なのである。司法による東電と官僚への強制捜査からでしか、問題解決の道筋は見えないのだ。どうすればそれを実現できるのか、私には答えが見つからなかった。強制捜査のためには、その執行を促す政治権力が必要である。民主と自民が国会の多数を占める現状では、誰がどれほど正論を浴びせても、到底、彼らに業務上過失致死傷の容疑をかける司法権の発動はおぼつかない。私もまた、「人道に対する罪」の「福島裁判」と、それを媒介する革命という大風呂敷で思考を止めざるを得なかった。実際、広瀬隆と明石昇二郎が東京地検に告発したが、告発状は検察の机の引き出しに入ったまま放置されている。福島の原発の問題について、ああすべきこうすべきと諸策を提言する者は、それをリアライズする政治過程の具体像を説明しなくてはいけない。河合弘之の提案には政治のイメージがあり、なるほどこれがあったかと頷かされ、感心させられた。河合弘之はこう言っている。「これを突破するにはどうしたらよいか。それは、福島の被害者たちが数千人の単位で福島地検、福島県警に刑事告訴することである。福島の警察官や検察官は仕事を離れれば福島での生活舎である。毎日被曝している。妻子もいるだろう」(P.55)。

「そして、子の放射線被曝に不安を覚え、悩み、その原因を作った者への怒りを共有しているだろう。その彼らに、地元の多くの被害者が深刻な放射能汚染、大量被曝による身体的もしくは経済的被害を損害を訴える方が、東京地検特捜部という安全地帯で働き、家族と東京で暮らす検事の心を動かすよりも、ずっと確率が高いように思える。(略)適用条文は公害罪法だ」(P.55)。東電と関係者への刑事責任の追及の問題は、P.24-25の高橋哲哉の記事にも若干触れられているが、高橋哲哉の場合は、これを抽象的な「犠牲」の持論に展開しているため、要領を得ず、政治の具体的提案になっていない。河合弘之の主張は、まさに「わが意を得たり」であり、私にとって「灯台もと暗し」のシンプルでストレートな着想だった。そして、政治として可能であり、ダイナミックな展望の導出である。問題解決へ向けて政治を動かす主体は、被害を受けた福島県民でなければならないのである。受難と困窮の中心にいる者が、政治を打開して権利を獲得するのであり、加害者に刑事責任をとらせ、復讐を果たして正義を実現する物語の主役になるのだ。河合弘之は「脱原発弁護団全国連絡会」の代表で、これまで各地の原発差し止め訴訟で弁護団長を務め、敗訴に次ぐ敗訴を続けてきた人間である。この指針が実践へと点火され、福島の地で燎原の炎の如く燃え広がり、130年前の自由民権の福島を復活させる政治を希望したい。

一方、P.76には、滋賀県知事の嘉田由紀子が稿を寄せている。「卒原発」を提唱してこう書いている。「『脱原発』には今すぐ原発をやめるイメージがあります。しかし、社会や暮らしには安定的なエネルギー源が必要で、原発に代わるエネルギー供給をいかに確保するかという工程表なしに、原発依存から抜け出すことは難しいのが現実です。今はまだヨチヨチ歩きの子どものような自然エネルギー、再生可能エネルギーが大きく成長するには、カリキュラムや一定の時間が必要です。自然エネルギー、再生エネルギーを中心としたエネルギーのベストミックスに向けて、時間軸を含めた具体的な工程を示した上で取り組んでいこうというのが『卒原発』です」。原発を止めると電力不足になると言っている。こうした嘉田由紀子的な議論が、実は最も悪質で、衆を惑わせ、国論を脱原発に統一できない最大の元凶なのである。嘉田由紀子の右隣に寺島実郎が位置し、左隣に飯田哲也や金子勝が接着している。すなわち、即時全基廃炉を否定する立場だ。嘉田由紀子の論理の最大の問題は、「原発を止めると電力不足になる」という根拠のない前提を置いている点だ。昨年7月と11月に出された政府の報告書では、原発を全基停止させても、対策を講じることで2010年夏の猛暑のピーク時需要をカバー可能だと明確にコミットしている。不足が生じるとは全く言っていない。「工程表」は政府がすでに示している。嘉田由紀子が無視しているだけだ。嘉田由紀子は、マスコミが言う「電力不足」のデマに加担しているのである。

嘉田由紀子のような原発推進派からは遠い良識派が、こうした欺瞞的な「中立」の表象でデマをサポートして立ち回るために、嘘偽りの言説に信憑性が生じるのである。電力供給は設備過剰で電力不足は起きないと指摘し、全基即時廃炉を求める広瀬隆やわれわれの主張が、言論空間全体の中で過激で異端の印象を帯びてしまうのである。実は、この欺瞞的な「中立」表象の問題は、上に述べた脱構築主義のイデオロギーと内面的に密接に関係していると思われる。両極を排除する教義への執着が、「右でも左でもない」信仰への帰依が、思想構造の内部での情報処理の帰結として、自動的に「適正」な立ち位置を算出し、嘉田由紀子や飯田哲也の「中立」表象への支持へと向かわせるのである。客観的な事実の認識や検討や判断ではなく、主観的な「右と左」の対立構図を問題視し、「右も悪いが左も悪い」という自己合理化の信念と教条を基準にして、そこで立場を据えて立論を構えるのだ。それが軽薄な「社会学者」の作法であり、「社会学者」を手本として言論を試みる現代の若者一般の態度である。否、若者だけではない。「社会学者」だけでもない。およそ現在の論壇において、「左派」とされる論者一般の傾向であり、この現代思想(=脱構築)で彼らは業界で商売して生きている。池田香代子は、3.11は静かにして、脱原発の内部で誰かを批判するのは控えよと私に忠告した。池田香代子の「脱原発」の範疇には、おそらく嘉田由紀子も含まれてしまうのだろう。こうして、脱原発の意味が混乱させられ、定義が曖昧になるのである。

意味が混乱させられ、定義が曖昧になるから、いつまで経っても脱原発は成らないのだ。


by thessalonike5 | 2012-03-15 23:30 | Trackback | Comments(0)
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