【コラム】富国も強兵も嫌ならば

 当時の知識階級・官僚階級の士大夫たちは、平和を維持するには国防よりも外交の方が容易な手段だと考えていたようだ。朝鮮王朝時代の第4代国王・世宗が火薬により矢を放つ兵器「神機箭」を開発する際に「明との関係を対決構図に追いやってしまう」と反対したのも、第17代国王・孝宗が清を討とうと「北伐」を主張したのに対し「それで国が滅びたらどうするのか」と激しく反発したのも士大夫たちだった。強い軍隊で中立外交を推し進めた第15代国王・光海君を追放する際に掲げた最初の大義名分も「大国に対して罪を犯した」というものだった。現代に例えて言えば、士大夫たちは権力に対抗しながら自身の力を着実に蓄える左派ということになる。

 士大夫たちは、富国強兵策を王権強化のための口実にしか思っていなかった。むしろ富国強兵を放棄することで平和と生存を保障してもらおうとした。それゆえ壬辰倭乱が終わってからわずか38年後に丙子胡乱(1636-37年の清による朝鮮侵略)が起き、それから273年後には日本に国を奪われたのだ。「それでも今日があるのは天の助け」と書いた宰相・柳成竜(リュ・ソンリョン)=1542-1607年=による壬辰倭乱の記録『懲●録』(●は比の下に必)からは、朝鮮という国が存続したのは奇跡としか思えないというため息が聞こえてくる。

 最近では「中国に対する事大主義と文弱は、韓国の歴史に組み込まれた遺伝子ではないか」という気さえする。「海軍基地は周辺国に間違った信号を発する」という政治家たちの主張は「明との関係を対決構図に追いやってしまう」として反発した300年前の左派と少しも変わらない。韓米自由貿易協定(FTA)に反対する人々も、済州海軍基地建設に反対している政治家だ。富国も強兵もどちらも嫌だというのだから、彼らが政権を握れば一体何をもって国を守り、何をもって国民を食べさせていこうというのだろうか。

 韓国の歴史を見ると、太平の世が100年以上続いたことはない。韓半島(朝鮮半島)をワイキキ・ビーチに移すことができない以上、今後もそうだろう。あいにく韓国は井の中のかわずの鳴き声で軍事基地を留保するほど暇でぜいたくな国ではない。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)社会部次長
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