【コラム】富国も強兵も嫌ならば

 2年前に京都の耳塚を訪れた。丁酉再乱(1597-98年の慶長の役)のとき、日本軍が殺害した朝鮮の人々の鼻をそぎ落とし、塩漬けにして持ち帰ったものを葬った墓だ。鼻塚という言葉は非常に残酷なため耳塚と呼んだというのだから、自分たちがどんなに残虐なことをしたかを分かっていたのだろう。

 そこに建てられた案内板には「戦乱で受けた朝鮮民衆の受難を歴史の教訓として残す」と書かれていた。しかし、戦乱の首謀者だった豊臣秀吉をまつる豊国神社の前に、記念碑のように建てられていることから、教訓というよりも戦功の象徴に見えた。塚のすぐ隣に児童公園を作った町の人々の無神経さも嘆かわしく、その公園で飛び跳ねて遊ぶ子どもたちがこの墓についてどのように教えられているのかも気になった。

 歴史書によると、塩漬けにされた鼻は10万人分に上るという。10万という数字を見ると、朝鮮王朝時代の朱子学者、李珥(イ・イ)が戦乱前に説いた「十万養兵論」が思い浮かぶ。李珥が実際にそう言ったかどうかは諸説があるが、戦乱前ではなく戦乱後に話題になったことから、十万養兵論は朝鮮の脆弱(ぜいじゃく)な軍事力に対する民衆の痛恨の思いが込められているとも言えよう。

 当時日本で宣教活動を行った宣教師ルイス・フロイスは、著書『日本史』で日本が壬辰倭乱(1592-98年の文禄・慶長の役)に動員した兵力を15万人と推計した。小西行長が引き連れた先発隊だけで2万人だった。一方の朝鮮は申リプ(シン・リプ、リプは石へんに立)率いる兵士約8000人が弾琴台(忠清北道忠州市)で背水の陣を敷いたものの川で水死して兵力を欠き、街道を平壌城まで一気に明け渡すことになった。殺りくと飢えにより、この戦の間に朝鮮の人口は3分の1も減少したという説もあり、十万養兵を放棄した代償は、鼻をそぎ落とされた10万人の命だけにとどまらない。もちろん、生き残った人々も生きた心地はしなかっただろう。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)社会部次長
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