『源氏物語』

第一帖

きりつぼ
桐壺



桐<フリー素材サイト「ましうし堂」より>


<桐壺>の簡単なストーリー
<桐壺>の系図
<桐壺>で印象深い和歌
<桐壺>MEMO
<桐壺>を歩く



<桐壺>のストーリー

 いつの帝の御世(みよ)だったでしょうか、女御(にょうご)や更衣(こうい)といった位のお妃(きさき)がたくさん後宮にいらっしゃる中に、さほど高貴な身分ではないけれども帝のご寵愛を一身に受けておられる桐壺の更衣(きりつぼのこうい)と呼ばれる方がいらっしゃいました。このお話では、帝のことを桐壺帝とお呼び申し上げることにいたします。

 桐壺の更衣は、桐壺帝のほかのお妃たちから嫉妬を買ったり嫌がらせを受けたりして病気がちになられました。桐壺の更衣の父・按察大納言(あぜちのだいなごん)はすでに亡くなっており、更衣には充分な後見人がいない状態でした。
 
 そのうち、桐壺帝と桐壺の更衣は前世でも宿縁が深かったのでしょうか、やがて玉のように美しい男児<桐壺帝の第二皇子>が誕生し、桐壺帝は若宮をとても可愛がりました。

 桐壺帝の第一皇子の母親である弘徽殿の女御(こきでんのにょうご)は、桐壺の更衣がお産みになった第二皇子が東宮(とうぐう=皇太子)になるのではないかと心おだやかではありません。
 
桐壺更衣
 弘徽殿の女御は誰よりも先に桐壺帝に入内(じゅだい=後宮に入ること)した方で、権力のある右大臣の娘でもあります。第一皇子は東宮となられる方だと世間では思われていました。 

 桐壺の更衣が住まう“桐壺”という建物は、後宮の建物のひとつで淑景舎(しげいさ)といいます。庭に桐が植えられていたことから“桐壺”とも呼ばれています。この淑景舎は、内裏の東北隅にあり、帝が日常の生活をされる清涼殿(せいりょうでん)から最も遠いところにあります。

 桐壺帝は清涼殿の西隣りにある後涼殿(こうりょうでん)に以前から伺候しておられた別の更衣を他の部屋に移し、桐壺の更衣をここに住まわせることにしました。

 若宮が3歳になった年に袴着(はかまぎ)の儀式が盛大におこなわれました。その年の夏、桐壺の更衣は心労のためか病が重くなり実家へ戻り他界してしまいました。若宮も宮中から桐壺の更衣のご実家へご退出なさいました。桐壺の更衣の遺骸は愛宕(おたぎ)というところで葬送されました。桐壺帝は、亡き桐壺更衣に従三位の位を追贈しましたが、桐壺の更衣を失った悲しみは大変深いものでした。

 若宮は、その後、参内(さんだい=宮中へ上がること)なさいました。翌年の春、東宮の位は、弘徽殿の女御がお産みになった第一皇子に決まり弘徽殿の女御は安堵しました。

 桐壺帝は、若宮が帝の子であることを隠して、平安京内の鴻臚館(こうろかん=迎賓館)にて、その頃、来日していた高麗(こま)の人相見に占いをさせます。
「帝王の地位につく相をお持ちなのですが帝王になられると国が乱れ、政治の補佐役になればよいかというと、その相ではないようです。」
と言われました。

 桐壺帝は、若宮を臣下とするには惜しいと思われましたが、“源氏”の姓を与えることをお決めになりました。

 やがて、桐壺帝のもとに亡き桐壺の更衣のご容貌に似ているという先帝の女四の宮<第四皇女>が入内し、後宮の建物のひとつである飛香舎(ひぎょうしゃ)を賜りました。飛香舎の庭には藤が植えられていたことから“藤壺”とも呼ばれます。
 入内された姫宮を藤壺の宮と申し上げます。≪内裏図参照≫

 若宮は、母・桐壺の更衣と似ているといわれる藤壺の宮をお慕いして、花や紅葉につけても親しみのお気持ちを表します。世の人々は、若宮を「光る君」、藤壺の宮を「輝く日の宮」とお呼び申し上げました。

光源氏の元服<風俗博物館にて撮影>  若宮<光源氏>が12歳の時、元服の儀<=男子の成人式>が清涼殿東廂(せいりょうでんひがしひさし)において執り行われました。作法どおりに加え帝ご自身が、できる限りのご配慮をなさいました。

 角髪(みずら)を結っていらっしゃる若宮<光源氏>の髪型を変えるのは惜しく思われます。
光源氏の元服<風俗博物館にて撮影>  元服の儀では、大蔵卿が理髪役を御奉仕されました。若宮<光源氏>の大変美しい髪を切り、髻(もとどり)を結いました。
光源氏の元服<風俗博物館にて撮影>  加冠(かかん)役の左大臣により桐壺帝の御前で冠をかぶります。

 加冠後、源氏の君<光源氏>は休息所に下がられて、装束をお着替えになり、清涼殿の東庭に下りて感謝の礼をなさいました。その美しさに列席した一同はみな涙を流されました。
命婦から大臣の禄が渡される  桐壺帝は、左大臣を御前にお召しになりました。

 桐壺帝に仕える命婦(みょうぶ=女官)によって、加冠役をつとめた左大臣に禄(ろく=褒美の品)が与えられます。
(左の画像にマウスカーソルを当ててくださいませ。)

 桐壺帝と左大臣は和歌を詠み交わしました。
 
 休息所にお下がりになって酒宴の席となりました。(左の画像にマウスカーソルを当ててくださいませ)

 左大臣は、大事に育てていらっしゃる姫君・葵の上を源氏の君の正妻に、と思っておりますので、源氏の君に婚礼のことをほのめかして申し上げました。

 葵の上の母親は、桐壺帝の妹なので、葵の上と源氏の君とは、いとこ関係になります。
 
 こうして源氏の君のご元服は、東宮のご元服よりも盛大な儀式となりました。 

 その夜、源氏の君は左大臣の姫君・葵の上と結婚しました。葵の上は16歳で、源氏の君より年上であることを気にされて似つかわしくなく恥ずかしいと思われていらっしゃいました。

 源氏の君は結婚後も、藤壺の宮のことをこの世に二人といない女性とお慕い申し上げ、幼心の一心で苦しいまでにお悩みになりました。元服後は、かつてのように藤壺の宮がいらっしゃる御簾(みす)の中へ入ることも許されません。

 内裏での管弦の遊びの時に、藤壺の宮が琴(こと)を、源氏の君が笛を演奏し、心を通わせ、御簾の奥からかすかに聞こえる藤壺の宮のお声を慰めとしています。

 内裏では、母・桐壺の更衣が過ごした淑景舎を源氏の君のお部屋とし、桐壺の更衣に仕えていた女房たちを引き続き仕えさせました。

 桐壺帝は桐壺の更衣の実家である二条院を源氏の君のために立派にご改造させなさいました。源氏の君は、二条院で理想の女性を迎えて暮らしたいとお思いになるのでした。

 「光る君」という名前は高麗人が賛美してお付けしたものだとか。
藤壺の宮




<桐壺>の系図


<桐壺>の系図




独断と偏見による<桐壺>で印象深い和歌


 桐壺の更衣が亡くなる間際、内裏を退出する前に桐壺帝に向けて詠んだ和歌

   限りとて 別れるる道の 悲しきに
      いかまほしきは 命なりけり



 (歌の意:人の命には限りがあるものと、今、別れ路に立ち、悲しい気持ちでいますが、
  わたしが行きたいと思う路は、生きている世界への路でございます。
 )


 『源氏物語』の中では、様々な死が描かれていますが、桐壺の更衣のみが唯一、死ぬ前に“生きたい!”という意思を持って和歌を詠みました。



 <桐壺>MEMO

◆淑景舎(しげいさ=桐壺)から清涼殿までの道のり

 桐壺の更衣が暮らしていた淑景舎(しげいさ=別名:桐壺)は、帝が日常生活をする清涼殿より最も遠いところにありました。≪内裏図参照≫ 桐壺帝からのお召しがあって、桐壺の更衣が清涼殿まで行くには、桐壺帝のほかの妃<女御や更衣たち>が住む建物を通らなくてはなりません。これでは桐壺帝の妃たちも不愉快に思いますよね。イジメがエスカレートしたのもうなずけます。桐壺帝が桐壺の更衣を守るには清涼殿の隣りにある後涼殿(こうりょうでん)に桐壺の更衣を住まわせることしかできませんでした。桐壺帝のほかの妃たちにとっては、桐壺の更衣への憎悪がいっそう高まるのでした。


◆桐壺帝は優秀な帝だった!

 桐壺帝の後宮には、たくさんの女御や更衣がいました。それは、有力な貴族たちが娘を入内させたいと思わせるだけの能力がある帝(皇太子)であったためです。少なくとも桐壺の更衣への愛情に目覚めるまでは、賢帝であったといえると思います。


◆桐壺の更衣入内の謎、父・按察大納言(あぜちのだいなごん)の野望とは!?

 桐壺の更衣は、父親である按察大納言(あぜちのだいなごん)の遺言で入内しました。父親という後ろ盾がないまま入内するのは心もとないことです。故・按察大納言(あぜちのだいなごん)が娘に託した願いとは何だったのでしょう。
 それは、入内→皇子誕生→皇子が東宮(とうぐう=皇太子)となる→帝として即位 という夢があったのではないのでしょうか。そして、一族を繁栄させたいという野望があったと思われます。
 桐壺の更衣の母(光源氏の祖母)は、光源氏が幼い頃に亡くなります。


◆高麗(こま)の相人(そうじん)の占いとは!?

 光源氏は幼くして外国人である高麗<=渤海国(ぼっかいこく)>の相人と出会いました。占い結果である“帝でもふさわしくなく、臣下としてもふさわしくない立場”とは一体どんなものなのでしょうか。
 今後のストーリー展開をお楽しみに!


◆藤壺の宮の入内は反対されていた

 藤壺の宮<先帝の第四皇女>の母は、桐壺帝に入内することを反対していました。
【反対理由】
 ・東宮の母である弘徽殿の女御(こきでんのにょうご)が意地悪。
 ・桐壺の更衣が後宮でのイジメで亡くなってしまっため不吉。

 しかし、藤壺の宮の母が亡くなってしまったので桐壺帝は藤壺の宮を後宮へ迎えいれたのでした。


◆実は東宮(とうぐう=皇太子)の妃に望まれていた葵の上

 光源氏が12歳で結婚した左大臣の娘・葵の上。これは政略結婚です。
 葵の上は東宮<右大臣の娘・弘徽殿の女御が生んだ桐壺帝の第一皇子>の妃として望まれていましたが、葵の上の父である左大臣は躊躇していました。左大臣は葵の上を桐壺帝の第二皇子である光源氏と結婚させたいと思っていたからです。
 左大臣の正妻は桐壺帝の妹宮で、その間に生まれた葵の上は大事に育てられました。
 桐壺帝は、東宮<第一皇子>を擁する右大臣家の権力が増大するのを配慮して、左大臣家に愛息子である光源氏を託したと思われます。また左大臣家としても桐壺帝との関係をより強くしたいという思惑があったことでしょう。

 当時、右大臣家と左大臣家の関係は良好ではありませんでした。そのため緩和策として、左大臣家の嫡男・蔵人少将(のちの頭中将)は右大臣家の姫君・四の君を正妻として結婚しました。





<桐壺>を歩く   リンク先は私のサイト内でのご紹介ページです。
淑景舎(桐壺)跡 淑景舎(しげいさ)<別名:桐壺(きりつぼ)>跡

 桐壺の更衣の居所です。桐壺の更衣亡きあとは、光源氏の内裏での住居としました。

 現在、平安宮内裏跡は西陣の住宅地の中にあります。当時を偲ぶような面影はありません。

 2008年3月に「平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡」説明板が設置されました。実際に歩いて帝が住まう清涼殿との距離を感じてみてください。
平安宮内裏弘徽殿(こきでん)跡の石碑 この北 平安宮内裏弘徽殿(こきでん)跡

 弘徽殿は、飛香舎(ひぎょうしゃ=藤壺)とともに、帝が住まう清涼殿に近く、高い身分の后妃の御殿でした。
清涼殿(せいりょうでん)跡

 清涼殿は帝の居所でした。『源氏物語』<桐壺>において、桐壺の更衣を喪った桐壺帝がに壺前栽を眺めながら女房たちと語り合う場面が描かれています。また、光源氏の元服の儀を執り行われたのも清涼殿でした。
京都御所 清涼殿 京都御所 清涼殿(せいりょうでん)

 現在の京都御所にある清涼殿です。平安時代に内裏があった場所と大きくずれていますが、その建築は当時をしのぶことができます。春と秋の一般公開を除けば、事前申し込みで見学することができます。
 清涼殿は帝が日常の生活をおくった場所であり、『源氏物語』<桐壺>においては、光源氏が元服の儀を行った場所でもあります。
京都御所 紫宸殿 京都御所 紫宸殿(ししんでん・ししいでん)

 現在の京都御所にある紫宸殿です。内裏の正殿。帝が政務を行う場所です。即位などの重要な儀式を行う場所でもありました。
 光源氏の元服より先に、弘徽殿の女御が産んだ桐壺帝の第一皇子<東宮>の元服が紫宸殿で行われました。
東鴻臚館跡 此附近 東鴻臚館(ひがしこうろかん)跡

 平安京には朱雀大路をはさんで、東西に鴻臚館がありました。鴻臚館とは来朝した外国使節を接待し宿泊させる迎賓館のような施設でした。
 東鴻臚館は渤海国(ぼっかいこく)の使節に限られて使用されていました。

 光源氏が身分を隠して高麗(こま)の相人(そうじん)に運命を占ってもらったのは、東鴻臚館だと思われます。光源氏は観相<占い>ののち、高麗の相人と漢詩を読み交わし、高麗人から舶来品を贈られます。
飛香舎(藤壺)跡 飛香舎(ひぎょうしゃ)<別名:藤壺(ふじつぼ)>跡

 飛香舎の南庭(=壺)に藤が植えられていたことから、藤壺と呼ばれました。清涼殿から近く後宮の中で弘徽殿とともに重要な場所でした。『源氏物語』において光源氏が恋焦がれた女性・藤壺の宮の居所です。
京都御所 飛香舎<藤壺> 京都御所 飛香舎(ひぎょうしゃ)<藤壺>

 現在の京都御所にある飛香舎<藤壺>です。壺庭に藤棚があり、平安時代の様式をよく伝えている殿舎です。毎年、春・秋の一般公開の時期であっても限られた記念の年でないと見学不可能ですのでご注意ください。


人形の写真(撮影:なぎ) 風俗博物館で2003年に展示されていたもの


【参考】
「源氏物語必携事典」 編:秋山虔・室伏信助/発行:角川書店
「源氏物語五十四帖を歩く」 監修:朧谷壽/写真:日竎貞夫/発行:JTB
絵解き『源氏物語』CD版 桐壺」 CD講演:日向一雅/監修:神作光一・中野幸一/発行:竹林舎
「源氏物語と東アジア世界」 著:河添房江/発行:NHKブックス
渋谷栄一氏のサイト『源氏物語の世界』
【和歌・歌の意 引用】
渋谷栄一氏のサイト『源氏物語の世界』




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