しばらく、論争に明け暮れていた。

今、考えると、実に愚かなことをしたものだと思う。

私が論争した人たちは、ある教派を異端と考えている。

私は、自分が直接、その教派に関係したことはないが、知り合いがその教派におり、また、その教派を異端と考える理由は薄弱であり、

一番大切なことは、誰かを異端と言うことが許せないために、彼らと論争したのである。

初めは、彼らも話せばわかる人たちだろうと思っていた。

しかし、私は、それは自分の見込み違いであることを知らされた。

彼らは、詭弁を多用し、その教派の人たちを、何が何でも異端にしようという熱意に燃えていたのだ。

私は、彼らの詭弁の論理矛盾を指摘したが、彼らは、何度そうしようと引き下がらない。

もう、彼らのなかでは、その人たちが異端であることは決まっており、ただ、その結論に向けて、自分たちに有利だと思える情報をかきあつめているだけだとわかった。

だが、しかし、人を異端にすることは、人に、「アナテマ(呪われよ)」ということであり、
その人を、もう人間ではなく、裁いて滅ぼしても構わないモノにすることである。

何とおぞましいことなのか、私はそこに感じられる巨大なマイナスエネルギーにぞっと背筋が凍り、吐き気さえももよおした。

もし、それが神という愛から出ているならば、痛みがあり、悲しみがあり、また異端という判断に対する慎重さがあるはずだが、
そのようなものは一片も感じられない。

むしろ、ある種の情熱があり、喜びさえあり、少しでも異端という判断を助けるものなら、ハイエナのように飛びつくのである。

人を異端と宣告することは、中世においては、即、死を意味した。
実際、アルビジョワ十字軍によって、カタリ派は、女も子供もすべて、殲滅されたのである。

今も、それは、相手に対する究極的な生殺与奪の暴力であることは変わらない。

相手を「神になる」という教えを持って異端と断じているが、
自分たちは、この相手を異端に断じるという究極の暴力をもって、彼ら自身が神になっているのである。

いったい、彼らがイエスを信じたとき、彼らは誰かを異端として究極の暴力を振るうために信じたのか?

まさに、宗教はおぞましい。宗教こそは、人間を悪魔に変えてしまう洗脳装置であると言わざるを得ない。