東京都千代田区の国立劇場で11日行われた「東日本大震災1周年追悼式」で述べられた式辞や遺族の言葉全文は以下の通り。
東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
1年前の今日(こんにち)、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。その中には消防団員をはじめ、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。
さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のためにさまざまな支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。
また、諸外国の救助隊をはじめ、多くの人々が被災者のためさまざまに心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく子孫に伝え防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。
本日ここに、天皇、皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、東日本大震災1周年追悼式を挙行するに当たり、政府を代表して、謹んで追悼の言葉を申し上げます。
多くの尊い命が一時(いちどき)に失われ、広範な国土に甚大な被害をもたらした東日本大震災の発生から、1年の歳月を経ました。
亡くなられた方々の無念さ、最愛の家族を失われたご遺族の皆様の深い悲しみに思いを致しますと、悲痛の念に堪えません。ここに衷心より哀悼の意を表します。また、今もなお行方の分からない方々のご家族をはじめ、被災された全ての方々に、心からお見舞いを申し上げます。
亡くなられた方々の御霊に報い、そのご遺志を継いでいくためにも、本日、ここに三つのことをお誓いいたします。
一つ目は、被災地の復興を一日も早く成し遂げることです。
今もなお、多くの方々が、不自由な生活を余儀なくされています。そうした皆様の生活の再建を進めるとともに生まれ育ったふるさとをより安全で住みよい街として再生させようとする被災地の取り組みに最大限の支援を行ってまいります。
原発事故との戦いは続いています。福島を必ずや再生させ、美しいふるさとを取り戻すために全力を尽くします。
二つ目は、震災の教訓を未来に伝え、語り継いでいくことです。
自然災害が頻発する日本列島に生きる私たちは、大震災で得られた教訓や知見を、後世に伝承していかなければなりません。今般の教訓を踏まえた全国的な災害対策の強化を早急に進めてまいります。
三つ目は、私たちを取り結ぶ「助け合い」と「感謝」の心を忘れないことです。
被災地の復興には、これからも、震災発生直後と同様に、被災地以外の方々の支えが欠かせません。また、海外からの温かい支援に「恩返し」するためにも、国際社会への積極的な貢献に努めていかなければなりません。
我が国の繁栄を導いた先人たちは、危機のたびに、よりたくましく立ち上がってきました。私たちは、被災地の苦難の日々に寄り添いながら、共に手を携えて、「復興を通じた日本の再生」という歴史的な使命を果たしてまいります。
結びに、改めて、永遠に御霊の安らかならんことをお祈り申し上げるとともに、ご遺族の皆様のご平安を切に祈念して、私の式辞といたします。
本日ここに、東日本大震災により、尊い命を天に召された御霊(みたま)の追悼式が執り行われるにあたり謹んで哀悼の言葉をささげます。
「翔也4歳になったね。お誕生日おめでとう」と、震災前の2月18日、最愛の孫、翔也の誕生日のお祝いをして家族全員が満ち足りた、本当に幸せな時間を過ごしました。
翔也の笑顔に家族全員が癒やされ、元気付けられ、いつも家族の中心にいてくれました。
あの日からわずか22日後、津波の犠牲になったのです。家族全員で慈しみ、育んできた、生まれてまだ4歳しかたっていない孫の命をあの津波が奪っていったのです。
震災のあの日、私は50キロ離れた大船渡市にいました。道路はがれきで埋まり、泥まみれになって歩いて自宅に向かいたどり着いたのは翌日の昼過ぎ。自宅は流され、津波は私を産み育ててくれた母や、人生を共に歩むことを誓ったかけがえのない大切な妻の命までも奪っていきました。
私の住んでいる大槌は、津波のあと、火災が至るところで発生したため、焼け焦げたがれきや車や家の壁が、街全体が真っ黒に覆われた光景が目に焼き付いて離れません。
この震災によって、私の住んでいる集落でも90名を超える尊い生命が奪われ、いまだに42名が行方不明で、小さいころから一緒に遊んだ仲間、よく面倒をみてくれた近所のおばちゃん、親戚の人たち、集落の1割もの方が犠牲となりました。
天災とは言うものの、この世には神も仏も存在しないものだと今もあの時を思い出すと涙があふれてしまいます。この震災で犠牲となられた皆様の悔しさと無念さ、残された家族の悲しみを思うと言葉になりません。
ただ、悲しんでばかりもいられません。私たち遺族の周りには、前を向いて、復興に向けて、協力してくれる仲間が居ます。町民の3倍以上となる5万人のボランティアが、私たちの街の復旧・復興のために駆け付けてくれたように。
私たちは、この震災の教訓を風化させることなく、後世に語り継ぎ、時間はかかるとは思いますが、一歩ずつ古里の復興に向け、まい進することを御霊にお誓いいたします。
最後に、東日本大震災で犠牲になられた皆様の御霊のやすらかなご冥福をお祈りします。
「悲しみを抱いて」
東日本大震災では大勢の人が亡くなりました。そして、いとおしい人を思い続けるたくさんの人が残されました。
私は津波で甚大な被害を受けた、宮城県石巻市北上町に2人の子供と両親とで住んでいました。
震災の1週間前、23歳だった長男、智史の結婚式でした。息子夫婦が入籍の日に選んだのは3月11日でした。2人は我が子の誕生を楽しみに、人生で一番幸せな時を迎えていました。私たち家族も、その将来に向けてささやかな幸福を感じておりました。震災の日も、いつもと変わらない朝を迎えて、変わらず明日が来ると……来ないなんて思いもしませんでした。
地震の後、息子は家族の身を案じ、妹と祖父母が身を寄せていた近くの指定避難所に車で向かったそうです。
津波が海から数メートルの避難所を襲い、たくさんの尊い命をもぎ取り奪っていきました。
窓からは、迫りくる波が見えただろうに、「どんなに恐ろしい思いをしたか」。それを思うと、胸が締め付けられます。
ただただかわいそうでかわいそうで、いたたまれません。
次の日、避難所から100メートルの自宅のあった場所近くで息子は見つかりました。一緒にいたはずの娘は家族の一番最後、1カ月後にやっと見つかりました。
妹をその腕の中で守っていたかのように手を組んで水たまりに横たわっていました。「おかあ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで、おまえ頑張ったな。偉いぞ。「みんなと一緒にいてやったんだよね」。何度も話しかけました。
冷たくなった夫にすがって泣き続ける嫁。こんな残酷な思いをさせてしまって本当に申し訳なくて済まなくて、残されたこの子らがふびんでなりません。
身重の妻を残して逝った息子の気持ちを思うと、どんなに無念だったか。この母が代わらせてもらいたかったです。
見渡す限りの惨状に地獄はここだと思いました。
私の大切な家族。
強くて厳しかったけれども、芯の温かだった母。
一家を辛抱強く支えてくれた父。
年の離れた妹を心底可愛がり父親代わりをしてくれた息子。
心優しく、その笑顔が我が家の明かりだった娘。
14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり私の生きがいでした。
受け止めがたい現実、やり場のない怒りと悲しみ、そして限りのない絶望。
最愛の人を失ったというのに自分が生きているという悲しみ。「生きることがつらい」と思う申し訳ない気持ち。生きている事が何なのか、生きていく事が何なのかを考えることさえできない日々が続きました。
愛する人たちを思う気持ちがある限り私たちの悲しみが消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。
だから、もっと強くなるしかありません。涙を越えて強くなるしかありません。
今、私はこう思うようにしています。「子供たちが望む母でいよう」「これでいいだろうか」「こんなときに両親はなんと言うだろう」
そう思う事で亡くした家族と、「一緒に暮らしている」と感じていたいからです。
絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました。
忘れ形見の初孫が7月に生まれ、元気に育っています。
その孫の成長が生きる希望へとつながっています。
最後に被災地の私たちを支えてくださった多くの皆さん、日本全国、世界各国の皆様に心から感謝を申しあげます。
皆さんからの温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくださいました。
だから今日まで過ごしてこられました。
その恩に報いるには、私たち一人一人がしっかりと前を向いて生きていくことだと、そう思っています。さしのべてもらったその手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。
本当にありがとうございます。
福島県浜通りの北部に位置し、重要無形民俗文化財に指定されている相馬野馬追の土地、相馬で私は育ちました。
家の近くには、太平洋が広がり、漁港ではホッキ貝やカレイなどが水揚げされ、日本百景の一つに数えられている松川浦がありました。
2011年3月11日、あの日、この光景と私たちの生活が一変しました。
午後2時46分、突然、今までに感じたことのない大きな揺れが何度も襲ってきました。私は、津波を心配し、慌てて高台にある小学校へ車で避難しました。
私の父は、地元の消防団員です。高台の小学校に着いたとき、聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、消防団活動に入ると言い残し、急いで走り去りました。
高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。
それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。高台から見える光景は、一瞬にして変わり果て、住宅地は、海の底に沈んでいました。
現実とは思えない、何と表現したらいいのかわからない光景に私は、ただ、ぼうぜんと立っているだけでした。
避難先の小学校では、食べ物もなく、不安の中、寒くて暗い夜を過ごしました。家族と離れ離れになり捜しまわる人もたくさんいました。
私も父と連絡が取れず心配でたまりませんでした。
数日がたったある日、父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。人の役に立つ事が好きで、優しかった父。学校行事も積極的に参加し、小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。私はこんな父が大好きでした。
捜索にあたっていただいた皆さん、父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、ありがとうございました。
1年がたっても、いまだ行方不明の方がいることに心が痛みます。
天皇、皇后両陛下はじめ、たくさんの方々のお見舞いや励まし、ご支援ありがとうございます。
現在、私は、神奈川県の中学校に通っています。小さな頃からいつも一緒だった友達と離れ離れになり寂しいですが、こちらの中学校でも新しい友達ができました。勉強は、ボランティアの大学生の方々にも教えていただき、頑張っています。
将来は、少しでも人の役に立つ仕事に就きたいと思っています。
また、復興に向けて皆で力を合わせ、頑張っていきたいと思います。
毎日新聞 2012年3月12日 東京朝刊