コナミファミコン初期


・橋本和久(1958.11.15生。B型。1981年コナミ入社。現在、(株)スターオンライン取締役副社長)

・梅崎重治(1960.12.7生。A型。1983年コナミ入社。(株)コナミコンピュータエンタテインメントスタジオ
       取締役執行役員常務・制作推進部統括マネージャー)



(要約)

梅崎: 僕ね、コナミがゲームを作ってる会社だって知らなかったんですよ(笑)

橋本: だいたい1983年とか1984年頃でしたかね、ゲームの会社だって言い出したのは。僕がコナミに入った
    時は新卒が30人くらいいて、当時は業務用の基板を作ってましたね。「ピカデリーサーカス」なんていう、
    10円で遊ぶルーレットスロットのゲームを出したりしながら、そろそろビデオゲームでは「スクランブル」が
    大ヒットして、「スーパーコブラ」とか「サーカスチャーリー」なんてのが出てきてて、このへんのヒットで
    会社も大きくなってきまして、僕らが入った頃は主に業務用を担当してて、その2、3年後にファミコンを
    始めたんですね。

梅崎: 僕が入った頃は、液晶ゲームとかLSDゲームとかをちょこちょこと作ってたりしたんですが、僕が入った
    1983年にちょうど家庭用の部署ができたんです。最初はアメリカのATARI2600とかにソフトを作ってて、
    それからMSXをやってMSX部隊とファミコン部隊とが並行してやってて、次にファミコンの部署ができて
    家庭用はMSXとファミコンの部署の2つが主力でしたね。

橋本: だけどまだ主力は業務用で。経験者は業務用で、プログラムも何も知らない者たちには先生が1人
   いて、プログラムの勉強をしながらファミコンを作ってた(笑)だから、当時はプログラマーとか企画職とか
   分かれてなくて、デザインツールもまともなツールなんて無かった時代だったよね。

梅崎: プログラマーもデザイナーも関係な<、2、3人で企画をやってましたよね。

橋本: ファミコンが始まって少しずつ専門的なデザイナーが出てきてましたけど、企画職は元々ほとんど
   いませんでしたから。だいたい業務用からネタを持ってきてあとはアイデア勝負みたいなノリでね(笑)
   ファミコンなんかはだいたい4人で4ヵ月から6ヵ月程度で作るのが普通で、これはスーパーファミコンに
   なるまで結構こんな感じだったよね。僕が最初にやった「ハイパーオリンピック」なんて、プログラムと
   デザインの計2人で半年。「グラディウス」も4人で半年はかかってないかな。「ハイパーオリンピック」は
   コントローラが痛むからって、専用コントローラを作りましたけど。
   「グラディウス」は「移植せぇ!」って言われたものですから、割り切りましたよ。というか、ファミコンは
   スプライトが圧倒的に少ないから割り切るしかないでしょ(笑)「これはここまで!」って作りましたね。
   部下が1人いたのですが、彼は一生懸命業務用をプレイしてましたね。業務用のグラディウスって
   すごい難しいじゃないですか。僕はそんなにプレイしてなくてクリアなんか当然できないから、例の
   コナミコマンドを入れたの(笑)

梅崎: あれって、コマンドの由来は?

橋本: いや、ないよ、なんも(笑)。なんせ自分が基準やったから(笑)、自分が覚えやすいようにやったのよ。
    開発期間は半年ぐらいでしたね、当時はプログラムを組むのがパズルみたいで楽しかったです。
    プログラムを構築するのがいかに暗号を詰め込めるか?みたいな感覚があって。でもグラディウスは
    興行的にはものすごくボロクソに文句言われましたよ(笑)、会社も期待して100万本近く作ったのに、
    市場では50-60万本しか売れなくて。逆に「グーニーズ」とかはそれほど期待してなかったのに
    100万本近くいったの。
    あの当時って、なんかしょーもない隠れキャラが流行ってたんですよ。「ハイパーオリンピック」とかも
    3、4個、UFOとか入れてたりしましたけど、「グーニーズ」もそんなのありましたよね。当時は誰でも
    わかりやすいところに入れてました。誰でも期待するようなところに。まあ、やっぱり「ゼビウス」の隠し
    コマンド)の影響はものすごく受けてると思いますよ。そういえばこの当時は、作ってる最中にドラクエ
    を遊んでた記憶がありますね。ディスクシステムの「ゼルダ」とか夜中遅くに一生懸命やってた(笑)

梅崎: そうそう、ゲームを作るのも楽しかったけど、やるほうも楽しかった(笑)。今もやりますけど、ドラクエは
    ハマりました。私、青山と橋本とで購入してきたドラクエを交互でプレイし、1日でエンディングを
    見ました。最後までプレイした直後はとても感動しましたね。思わず僕らのゲームにもスタッフロール
    を入れようと思いましたよ。このゲームはどちらかと言うと中身よりも技術的な話をすることが多く、
    社内でもすぐに研究されました

    ディスクシステムは単純に容量がデカくなるってぐらいのイメージしかなかったですね。

橋本: だいたい1メガの容量やったけど、クイックディスクでちゃんとプログラムを組めはそんなに重たくは
    なかったし、作りやすかったですね。でもまあ、ロムに比ぺると当然読み込みも遅いから、よ<考えて
    作らないとならなかったけど。
    「かんばれゴエモン」は元々の題材は業務用で出てた「ゴエモン」という作品があって、それを移植
    したようなゲームで。業務用ではあんまり売れなかったのを家庭用オリジナルで作ったんですね。

梅崎: まぁ、とにかく広いマップで。最初は「からくり道中」というタイトルがメインだったんだけど、それに
    「ゴエモン」がくっついて、ゴロが悪いから「がんばれ」を順につけた(笑
)
    「ゴエモン1」ではゴエモン1人しか登場しませんが、「2」になって2P同時プレイを採用した際に、
    ゴエモンの相手方として選ばれたのがえびす丸で。新人として入ってきたスタッフの顔があまりにも
    個性的で愛嬌があったため、直ぐにキャラクター化してゲームに採用しました。この時にゴエモンと
    えびす丸は意匠登録もされました。

橋本: 僕がゲーム的に指示をしたのは、「ただ単に広いマップをうろうろするだけでいい」という主旨でした。
   当時はスクロールで自由に走れるゲームって制限の多い作品ばっかりだったから、単に走って遊べる
   というだけでも面白いんじゃないかなって思ったんです。

梅崎: あとは、飛んだら何かか出るという。

橋本: 結局ゲームが下手でも時間をかけてお金を稼げば、お店で通行手形は買えたので、暇さえあれば誰
    でもクリアはできるというイメージで作ったのよ、僕は。

梅崎: まあ、自由度がありすぎてすぐに変なところに飛んでしまったりとかあったけどね(笑)あと、3D迷路に
   入ると時間が凄くかかるし。

橋本: アホやな、あれは入るからアカンのや(笑)入らないで進むのかいいの。まあ、作る方は2メガという
    容量がとてつもなかったよね。とにかくマップを繋ぐツールも当時はなかったから、自分で1つ1つ紙
    で繋いでたような気がする。

梅崎: そうそう、大きな方眼紙で書いてたような。

橋本: その後ぐらいだよな、ツールを使ってマップを作るというようになったのは。このゲームの開発は
    ホンマに終わらないと思ったもん。だいたいこの頃からデザイナーのスタッフが本格的に入ってきて
    「グーニーズ」「ドラキュラ」「ゴエモン」とかか大体同時期にスタートしてるんですよ、特に「グーニーズ」
    はデサインにこだわりすぎてマップが狭くなってしまって、最後に無理やり「裏面を作れ!」って(笑)
    仕方ないので、色を変えて、ウラに行けるようにしたと思います。「短いからできるやろ?」って強引に
    作った。でもこの頃から、ツールの何を使わないといけないとか、何をしないとしんどいことになるかとか、
    ようやくわかるようになってきたで、このへんはね、やっぱりコナミが業務用をやっていたことが、凄く
    大きく影響してて。さすがに当時は大きなマップを作るようなツールとかはなかったんですけど、ドット
    打ちのツールというのは、業務用の方から結構回ってきてたんですよ。だから当時、業務用メーカー
    の方が良い絵を出していたというのはそういうところがあるかもしれないですね。
    サウンドも業務用で歴史がありましたからね。ファミコンをやっていた頃は、既に業務用の部署には
    作曲の専門家がちゃんといたんですよ。あと、うちの会社の近くに大阪音大があって、そこの卒業生も
    結構いた(笑)「魂斗羅」とかのスタッフもそうですよね。

梅崎: そういう意味では、どのハードでもサウンドヘの評価は高かったですよね。

橋本: そうそう、サウンドチームの中にプログラマーがいて、作曲家が作ったサウンドをどんどんファミコン
    ソフト用にも作ってた。サウンドだけは、ちゃんとサウンドの人間が作ってた。

梅崎: ファミコン時代は自分自身の成長期でもありましたね。全くプログラムとかも知らなくて、プログラムを
    ファミコンでやり始めて、こんなに面白いものだとわかり始めて仕事に一番力を注げてた時代かも
    しれません。

橋本: 僕もファミコン時代が一番面白かったと思います。今の時代PS2とかでゲームを作っている若い人達
    に比ぺると、僕らは凄く幸せだったのかもしれないですよね。だって今なんか、規模の大きなゲームに
    なるとメニュー画面作るだけで1人、インターフェイスだけで1人とかね。プログラムもやって、企画も
    やって、デザインも一部やってた時代なんて、ファミコン時代ぐらいなものですから。僕らは1つの
    ゲームのほぼ全てに関われてたのに対して、今の人はかわいそうかもしれない。僕の場合は、その後
    スーファミで「グラディウス?」とかPCエンジンで「パロディウスだ!」、そしてPS2に至るまでほとんどの
    ハードの立ち上げに参加しましたけど、一番面白かったのはやっぱりファミコン時代だったと思います。

                                             (2003)


・青山和浩(プログラマー)



(要約)

[ハイパーオリンピック]
 コナミ初のファミコンソフトです。各部署からスタッフ召集され、社運がかかった開発でした。橋本が担当
したハイパーオリンピックはライセンス賞品であり、当時のファミコンでは珍しい画面の分割スクロールを
行うなど、よく出来た作品でしたね。

[悪魔城ドラキュラ]
 当初はファミコンのROMカートリッジで制作を進めていましたが、途中からディスクシステム対応になり、
コナミのディスクシステム対応第1弾として発売されました。その後、SFCやGB、アーケード等にも移植
されましたね。ホラーものとして世界観がしっかりしているものなので、今後もさらに進化を遂げていくことで
しょう。ゲーム内容も、鞭を振って敵を倒したことで得られる爽快感はアクションの基本。そして悪者を倒し、
お姫様を助け出すという、とてもわかりやすい内容はゲーム企画の基本みたいな作品でしたね。

[グラディウス]
 スペースシューティングといえばグラディウスじゃないでしょうか。単なるシューティングではなく、頭の
中で考えながら自機を動かす、たとえ1割り込みでも操作を間違えるとダメだとか、何度も繰り返し学習する
ことによってステージをクリアする楽しさがあったと思います。

[グラディウスII]
 グラIIといえば梅崎さん。彼の作る作品はいつも完成度が高く、このグラディウスIIにおいてはプログラム
1人、デザイナー1人、サウンド1人と、端で見ていても凄い!と思いました。

[がんばれゴエモンからくり道中]
 初のメガロム作品ですね。当初は橋本とデザイナーの2人で着手していましたが、「これじゃいかん、
何時終わるかわからん」ということで、ファミコンのプログラムは初めてだった梅崎と、今も現役プログラマー
の私、そしてデザイナーを含めて6人で制作しました。メガロムって素人さんにはわからないと思いますが、
当時のマリオブラザーズの64個分に相当するメモリ容量です。この時「作っても作っても終わらない」と
初めて感じましたね(笑)。このゴエモンは初回50万本以上を出荷し、10年以上に渡ってシリーズ化され
ています。よくここまでアイデアが続いたという感じがしますね。

[がんばれゴエモン外伝]
 アクションやシューティングが主体の中、今も昔も同じで、やっぱりRPGを制作するのには時間がかかり
ます。しかし、RPGもやってみたい。ファンタジーはドラクエがあるし、ここは一発和風のRPGで勝負だ!
と思いついたのがこの作品です。ちょうど中途入社でシナリオをやりたいという人材がいたため、すぐに
取りかかりました。めっちゃ短期間で制作したRPGでしたね。社内で表彰もされましたが、もう少し時間を
くれーって感じでした。

[ツインビー]
 元々アーケードからの移植で、当時アーケードのインカムテストでもそこそこ稼いでいた作品でした。
このアーケード版の企画も私がやっていました。作っている時は、まさかファミコンで作るとは重いもよらな
かったのですが、次に何を制作しようかと機種選定時にファミコン用を選んだんです。早速企画の申請を
したところ、最初の申請では「不可」とあっさり企画申請を落とされてしまいました。その後、当時の部長が
再度現CEOに掛け合ってもらいようやく制作をスタートでき、ファミコンブームに乗って約100万本のヒット
になりました。ただ、制作の終盤になると少しでも時間が惜しくなり、お風呂に入らない日が続いたことが
あります。それで足の水虫が悪化して3日ほど休みました(笑)それからファミコンで3本出し、アーケード
に戻って「出たな!ツインビー」が出ました。SFCではアクションのツインビーが制作され、さらに登場人物
の設定集が作られるようになるなど、よくぞここまで考えられるものだなと関心しましたね。

[コナミワイワイワールド]
 前々からやってみたかった企画が、こういったゲームキャラが総出演するアクションゲームでした。
ツインビーやドラキュラのシモン、グラディウスなど、複数プレイヤーは制作者が一番嫌がることをやって
やろうと思ったことが始まりでした。

[月風魔伝]
 今だから話せますが、ゲーセンで似たようなコンセプトのゲームがあって、これをファミコンでどうかなぁ?
と思って軽い気持ちが着手したのがこの作品です。実際に作り始めると大変でしたね。縦や横スクロール
はあるは3Dはあるわで。ほとんど家に帰れない状態が何日も続きました。

[けっきょく南極大冒険]
 一般の会社で言う課長クラスが自らプレイヤーの動きを作って、スタッフの手伝いを行ってくれました。
今のソフト会社じゃ管理もすれば制作もするのは当たり前ですけど、当時はそうしたことも珍しく、社員の
士気も高かったと思います。

                                                 (2003)


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