現在位置:
  1. 朝日新聞デジタル
  2. ニュース
  3. 社会
  4. その他・話題
  5. 記事
2012年3月11日16時33分

印刷印刷用画面を開く

mixiチェック

このエントリーをはてなブックマークに追加

〈東日本大震災追悼式〉福島県遺族代表のことば

関連トピックス

 東日本大震災1周年追悼式に参加した福島県遺族代表・村岡美空さんの「ことば」は次の通り。

     ◇

 福島県浜通りの北部に位置し、重要無形民俗文化財に指定されている相馬野馬追の土地、相馬で私は育ちました。

 家の近くには、太平洋が広がり、漁港ではホッキ貝やカレイなどが水揚げされ、日本百景の一つに数えられている松川浦がありました。

 2011年3月11日、あの日、この光景と私たちの生活が一変しました。

 午後2時46分、突然、今までに感じたことのない大きな揺れが何度も襲ってきました。私は、津波を心配し、慌てて高台にある小学校へ車で避難しました。

 私の父は、地元の消防団員です。高台の小学校に着いたとき、聞こえた車の急ブレーキ音に振り返ると父でした。父は、車の中から家族の無事を確認しただけで、消防団活動に入ると言い残し、急いで走り去りました。

 高台の小学校は、父の職場から家までの通り道です。大きな地震と津波の心配で、職場から車を飛ばし、地元へ向かっている途中で、偶然、私たちと遭遇したのです。

 それからしばらくして、ものすごい音が響き渡りました。高台から見える光景は、一瞬にして変わり果て、住宅地は、海の底に沈んでいました。

 現実とは思えない、何と表現したらいいのかわからない光景に、私は、ただ、ぼうぜんと立っているだけでした。

 避難先の小学校では、食べ物もなく、不安の中、寒くて暗い夜を過ごしました。家族と離れ離れになり捜しまわる人もたくさんいました。

 私も父と連絡が取れず心配でたまりませんでした。

 数日が経ったある日、父は、変わり果てた姿で、私たち家族のもとへ帰ってきました。人の役に立つことが好きで、優しかった父。学校行事も積極的に参加し、小学校の時には、バレーボールも教えてくれました。私はこんな父が大好きでした。

 捜索にあたっていただいた皆さん、父を見つけ私たち家族のもとへ届けてくれた皆さん、ありがとうございました。

 1年が経っても、いまだ行方不明の方がいることに心が痛みます。

 天皇皇后両陛下はじめ、たくさんの方々のお見舞いや励まし、ご支援ありがとうございます。

 現在、私は、神奈川県の中学校に通っています。小さな頃からいつも一緒だった友達と離れ離れになり寂しいですが、こちらの中学校でも新しい友達ができました。勉強は、ボランティアの大学生の方々に教えていただき、頑張っています。

 将来は、少しでも人の役に立つ仕事に就きたいと思っています。

 また、復興に向けて皆で力を合わせ、頑張っていきたいと思います。

PR情報
検索フォーム

おすすめリンク

福島はどのようにして「原子力ムラ」となったか――。福島生まれの著者が「地方」と「日本の近代化」の関係から追及

守り続けてきた自然や技術、人々の気質…東北の良さを改めて見つめ直す。朝日新聞連載「東北の力」より。

東日本大震災から1年。大震災からの復興に向けて、今、日本にどのような思想が求められているのか。


朝日新聞購読のご案内
新聞購読のご案内 事業・サービス紹介