東日本大震災1周年追悼式に参加した宮城県遺族代表・奥田江利子さんの「ことば」は次の通り。
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「悲しみを抱いて」
東日本大震災では大勢の人が亡くなりました。そして、いとおしい人を思い続けるたくさんの人が残されました。
私は津波で甚大な被害を受けた宮城県石巻市北上町に、2人の子どもと両親とで住んでいました。
震災の1週間前、23歳だった長男智史の結婚式でした。息子夫婦が入籍の日に選んだのは3月11日でした。2人は我が子の誕生を楽しみに、人生で一番幸せな時を迎えていました。私たち家族も、その将来に向けてささやかな幸福を感じておりました。震災の日も、いつもと変わらない朝を迎えて、変わらず明日が来る来ないなんて思いもしませんでした。
地震の後、息子は家族の身を案じ、妹と祖父母が身を寄せていた近くの指定避難所に車で向かったそうです。
津波が海から数メートルの避難所を襲い、たくさんの尊い命をもぎ取り、奪っていきました。
窓からは、迫りくる波が見えただろうに、どんなに恐ろしい思いをしたか。それを思うと、胸が締め付けられます。
ただただかわいそうでかわいそうで、いたたまれません。
次の日、避難所から100メートルの自宅のあった場所近くで息子は見つかりました。一緒にいたはずの娘は、家族の一番最後、1カ月後にやっと見つかりました。
妹をその腕の中で守っていたかのように手を組んで水たまりに横たわっていました。「おかあ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで。おまえ頑張ったな。偉いぞ。みんなと一緒にいてやったんだよね。何度もそう話しかけました。
冷たくなった夫にすがって泣き続ける嫁。こんな残酷な思いをさせてしまって本当に申し訳なくてすまなくて、残されたこの子らがふびんでなりません。
身重の妻を残して逝った息子の気持ちを思うと、どんなに無念だったか、この母が代わらせてもらいたかったです。
見渡す限りの惨状に地獄はここだと思いました。
私の大切な家族。
強くて厳しかったけれども、芯の温かだった母。
一家を辛抱強く支えてくれた父。
年の離れた妹を心底かわいがり父親代わりをしてくれた息子。
心優しく、その笑顔が我が家の明かりだった娘。
14年ぶりに授かった娘は家族の宝物であり私の生きがいでした。
受けとめがたい現実、やり場のない怒りと悲しみ、そして限りのない絶望。
最愛の人を失ったというのに自分が生きているという悲しみ。「生きることがつらい」。そう思う申し訳ない気持ち。生きていることが何なのか、生きていくことが何なのかを考えることさえできない日々が続きました。
愛する人たちを思う気持ちがある限り私たちの悲しみが消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。
だから、もっと強くなるしかありません。涙を超えて、強くなるしかありません。
今、私はこう思うようにしています。「子どもたちが望む母でいよう」「これでいいだろうか」「こんなときに両親はなんと言うだろう」
そう思うことで、「亡くした家族と一緒に暮らしている」。そう感じていたいからです。
絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました。
忘れ形見の初孫が7月に生まれ、元気に育っています。
その孫の成長が生きる希望へとつながっています。
最後に、被災地の私たちを支えて下さった多くの皆さん、日本全国、世界各国の皆様に心から感謝を申し上げます。
皆様からの温かな支援が私たちに気力と希望を与えてくださいました。
だから今日までこうして過ごしてこれました。
その恩に報いるには、私たち一人一人がしっかりと前を向いて生きていくことだと、そう思っています。差し伸べてもらったその手を笑顔で握り返せるように乗り越えていきます。
本当にありがとうございます。