(cache) SS LIBRARY -WORKS:002-004-003:砂理 その3

works:002-004-003

砂理 その3

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 私は前後不覚のまま、気がつくと教室で席に座っていた。記憶が覚束ない。終日頭がぼんやりとして、何かを考えようとするたびに猛烈な羞恥心がぶり返してくる。このところ寝不足が続き、昨日は一睡もできなかった。体中を駆けめぐる感情を抑えきれないまま、まんじりと夜を明かし、いつの間にか自分の席に座っている。私はどうやって登校してきたのだろうか。朝食は採れたのだろうか。わからない。
 しかし混濁した脳内で、明瞭に浮かび上がる言葉もあった。
『おまえはな、犬なんだ』
 機械の与える快楽に悶えていた私に、弘樹が発した一言。
 その言葉が私の中にこびりついて、一時も離れない。
「違うっ!」
 思わず声に出して叫んでいた。
 近くの生徒が訝しげに私を見てくる。赤面してしまった私は、慌てて誤魔化そうとした。けれど、声は上擦り、舌がまともに回らない。
「なな、なんでもないのっ! 気にし、しないで!」
 出そうとした以上に大きな声がでてしまい、更に多くの同級生が私に注目する。頭が真っ白になった。
「見ないで! こっちを見るな!」
 人目を怖いと感じたことは、これまでになかった。当たり前だ。気高く美しい私が人目を憚る理由など、この世にあるはずがない。けれど、今は違う。
 部下の誰かが、私の写真を持っている。汚された私の写真を。ここにいる私と、あられもない私の姿とを見比べて、心の中で嗤っている。名も知らないその生徒のことを意識するようになると同時に、私は教室内で起こる笑い声が全て自分に向かっているように錯覚し始めた。
 あるいは、既に画像データは校内全体へ広まっているのかもしれない。
 ついさっき窓際で談笑していた伊藤と鈴木も、後ろの席で話している佐々木と御影山も、みんな私のことを馬鹿にしている。
「言う通りにしなさい、私を見るなぁ!」
「あら、どうしたの砂理。今日はずいぶん余裕がないみたいね。なにか自信をなくしてしまうような事でもあったのかしら?」
 澄まし顔の女子生徒が私に話しかけてきた。
「・・・・・・なによ美月、何か文句でもあるの?」
「弘樹君から話は聞いたわよ」
 大人びた容貌の女子生徒、美月は上品に微笑んだ。
 美月の言葉の意味を察して、私は全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。
 美月は今年の初めに転校してきたヨーロッパ出身の帰国子女だった。校内でも砂理と人気を二分する美人であり、僅かな期間で砂理に次ぐ取り巻きを引き連れるようになったため、弘樹とのような親の対立こそなかったが仲は非常に悪い。つまり、秘密を知られる相手としては最悪だった。
「砂理、あなた弘樹君の犬になったんですって?」
「おかしなことを言わないで! 誰が犬なのよ!?」
「だって、証拠を見せてもらったもの」
 美月は心地よさそうに喉を鳴らす。
「砂理がぐちゃぐちゃに泣く顔って、本当に可愛いわねぇ」
「なっ――!」
「まだ聞いてなかったの? 私は弘樹君から、学校にいる間は砂理を私の犬として扱ってもいい、っていわれているのよ。もしも私に逆らったら・・・・・・わかるでしょう?」
 胃が締め付けられる感触。
 学校までは手を出せない弘樹自身の代わり、というところだろうか。正直、向こうから行動を起こしてくるとは予想していなかった。
「そんな、そんなのって・・・・・・」
 あり得ないことだ。この自分が他人に使われる立場になるということは、天地が逆転するに等しい。しかもよりによって、弘樹の次に目障りな相手から。
「誰かこの女を捕まえて! 写真を捨てさせるのよ! 野田川! 沢木下!」
 荒事担当の部下の名前を呼ぶ。二人はいつもなら登校と同時に私の傍へついているはずだったが、今日に限って持ち場を離れ、教卓の上で漫画雑誌を広げている。呼ばれた二人は雑誌を広げたまま逆さに置くと、私の席の後ろまでゆっくりと歩いてきた。
「なにをトロトロしているの。早く引っ捕まえ――ひゃぁ!?」
 すぐ傍まで寄ってきた二人は、私の腕を左右から一本ずつ捕まえて、持ち上げた。長身で体格のいい二人の力によって、私は椅子に座った状態から持ち上げられ、足が宙に浮く。捕獲された宇宙人のような格好だった。
「――あなたたち、何をしているのよ。どういうつもり!?」
「あのね、その二人は私の友達になったのよ」
 美月は私の足下から椅子を引き寄せて、そこに腰掛ける。上目遣いに見上げながら、私の置かれている状況について教えた。
「砂理の手下をやってた人達に事情を話してね、私の側に付くなら圧力をかけないように砂理へ指示しておくって約束したら、喜んでこっちに来てくれたわ。親の力だけで従えてたんだから当然よね。少しくらいは人徳もあればよかったのにねぇ」
 舐めるような視線。恥部を見透かされているように感じて、胸がざわめいた。
「ねぇ、あなたたち冗談よね。悪ふざけだとしても、今ならまだ許してあげるわよ?」
「見苦しいわよ。砂理」
「黙りなさいよ。これで勝ったつもりなの?」
「これは、ちょっと見栄えを良くしてあげないといけないわね――男子注目!」
「な、なにをいきなり・・・」
 と、両腕を抱えた二人がそれぞれの空いた手を使って、私のスカートを目一杯めくり上げた。腰回り全体がオレンジのショーツと共に教室の全生徒へ公開される。
「きゃあぁ――――――」
「ああ、いいわね。やっぱり砂理は偉そうにしているよりも慌てふためいている方が魅力的だわ。そのパンツも似合ってるし」
「え? ちょっと、なに? いや、まってよ!?」
 両腕を固められ、足が宙に浮いた私には、全開になった下着を隠すこともその場から逃げることもできない。あられもない姿でどうしていいかわからずまごつく私に、周りの男子は、ついでに女子も、揃って注目していた。
 劣情や好奇の目を意識した私は、両腿を高く上げてショーツの前を遮る。
「まぁ、変な格好」
「見ないで、止めさせてっ!」
 睨みつけている私にまるで怯まず、美月は私に顔を寄せて、指先で胸をつついた。嘲りの現れたその態度に、狼狽えてしまっている私は反駁できなかった。
「ふふ、これでも遠慮しているのよ。私は借りているだけで、本当は弘樹君の犬なんだからね。傷めてしまったら悪いもの」
「あ、あなたたち。自分がやってることわかってるの? こんな、こんな・・・・・・」
「こういう事をしたから、どうなるっていうの?」
 美月は、やんわりと微笑した。
「そろそろ気がつきなさいよ、砂理。あなたの部下はもう嫌々言うことをきく必要なんて無くなったの。我が儘を押し通してくれる部下がいなくなったら、あなたが地位を維持するなんてことできるはずもないわ。私が犬に何をしたってね、味方をしてくれる人なんて、ここには一人もいないのよ」
 諭すように、丁寧な発音で、ゆっくりと説明される。そんな気遣いが無くとも、説明の内容は容易に理解できるものだった。ただでさえ私に比肩するポジションにいた美月の背後に、私の弱みを握る弘樹が付いているこの状況。彼らの前に、私は無力だ。
 限界が訪れたのは、この時だった。ここ最近の睡眠不足、弄ばれた疲労、蓄積し続けるストレス、そしてとどめに、自分の足場が崩れ去る脱力感。
 視界が真っ暗になり、意識がどこか遠くへと去っていった。
 目を覚ましたとき、最初に見えたのは保健室の白い天井だった。
 久しぶりに眠ったおかげか、朦朧としていた頭から幾らか霧が晴れたように感じる。そのかわりに体の方はたまった疲れに浸されて、今にも腐り落ちそうなほど強い倦怠感に見舞われていた。
「起きましたか、お嬢様?」
 女子の小さな声が、ベットの脇から聞こえた。
 榊原。部下の一人で、いつもは主に使いっ走りを任せている。調教部屋の手配とセッティングを担当したのも彼女だった。気が弱く、もっとも忠実に遣えてくれていた。今も、こうして見ている限りは以前と変わりなく思える。
「よっぽど疲れてたんですね、もう放課後ですよ。倒れてからずっと眠っていたそうです。ただの貧血だからダイエットはほどほどにしてしっかり食べて休みなさいって、保健の先生が言っていました」
「・・・・・・美月は?」
「もう帰りました。手紙がそこに置いてあります」
 榊原の指さした先、添えてある花瓶の手前に、ルーズリーフの切れ端が置いてあった。
「読んで」
「はい」
 動く気分になれない私に代わって、榊原がルーズリーフを取って読み上げる。文面は短かく、すぐに終わった。
「ゆっくり休んで元気になってね。明日も仲良く遊ぼうね。ずる休みなんかしちゃ嫌だよ」
「馬鹿にしてぇ・・・・・・っ!」
 虚仮にされた屈辱感に、涙が溢れる。私は布団をたくし上げて顔を隠した。ここまで舐められても、部下に寝返られた私には反撃の手段がないのだ。
「泣かないでください、お嬢様」
 布団の向こうから榊原の声がする。
「私はお嬢様の味方ですよ」
「・・・・・・!」
 私は、そっと布団を下げた。
 ちょこんと椅子に座った小柄な女子生徒が、穏やかな眼差しをこちらに向けている。
「ほんと? 本当に、味方なの?」
「はい」
 はにかみながら答えた榊原は、こうも言い添えた。
「ですから、どうにか父の処遇に便宜を図ってもらえませんか。このまえ仕事でミスをしてから立場が危ういらしいんです」
(思いっきり打算じゃない・・・・・・)
 なんだか急におかしくなってきた。結局、初めから私に味方などいなかったのだ。ただ権力や容姿に任せて周りを従わせてきただけで、私を認めて言うことをきいていた人間は誰一人としていなかった。
 いままでも、それを自覚していたつもりでいた。自覚した上でそれが現実なのだと考えていた。この世は力を持ったものが動かしていくものであって、絆を求める心などは感傷に過ぎない。そして財力、権力、容姿、知力等の様々な力に恵まれた私が敬われるのは当然なのだ、と。
 しかし実際には、純粋な繋がりについて、多少の期待もあったようだ。
 裏切られた、という失望感が気分を深く沈ませた。
 犯され、弱みを握られ、クラスでの地位を追われた今、私は力のほとんど全てを奪われている。力はなく、私自身に味方をしてくれる人間も居ない。残されたのは――自分の身一つだけ。
 そう考えると、逆に気が楽になった。割り切ってしまえば単純な話だ。
 頼れるものは自分だけ。自分の力だけで闘わなければいけない。
(それでも、負けない)
 私がこのさきどんな辱めを受けることになったとしても、決して屈しないことを、たった一人でも抗い続けることを、胸の中で静かに誓った。
「冗談じゃないわ。あなたがいつこの私に命令できる立場になったっていうのよ。弱っている私に優しくすればいいようにつけ込めるとでも思ってたわけ? 巫山戯るのもいい加減にしなさいよ。ええ、確かに私はいいなりになるしかないわよ。脅されて、無理矢理にね。でもそんなことくらいで私がしおらしくなると思ってるなら大間違いよ!」
「頼みを聞いてもらえないなら」
 榊原は携帯を開いた。
「この画像をバラ撒くことになります」
 最新型携帯の大画面液晶に表示されていたのは、紛れもなく弘樹の撮影した写真だった。砂理の痴態を写した写真を手に、榊原は申し訳なさそうに伏し目を作っている。
 いまさら脅されることに怯えはしない。が、それとは別に引っかかることがあった。
「写真・・・・・・弘樹に渡されたのはあなただったの?」
「はい。部屋の場所を教えて、合い鍵を渡したのも私です」
「え、じゃあ、美月が言ってたのは?」
「それは、こっちの手紙を見てもらえばわかります。美月さんが渡すように頼まれていたそうなんですけど、お嬢様が放課後まで起きなかったので私が預かったんです」
 榊原は美月のルーズリーフと別に置かれていた封筒を私に手渡した。 
 封筒の中には、一枚の便箋と黒い小さなチップが入っていた。
「SDカード・・・・・・」
「動画データです。どうしても気になってさっき手紙を読んでしまったんですけど、そう書いてありました」
 途方もなく嫌な予感がした。それも、致命的な災厄の予感が。
 恐る恐る、便箋に記された文章へ目を向ける。弘樹の筆跡で、いやに芝居がかった軽薄な文章が綴られていた。
『調教部屋で撮影した動画の編集が終わったから、主演女優にコピーを送らせてもらうよ。砂理の名演の甲斐あって、なかなかの自信作に仕上がった。僕の自己評価は決して過大ではないはずだ。実際に視聴してもらった美月女史にも大絶賛を貰っているんだから、間違いない。
 砂理には何の話かわからないかもしれないから、念のために説明しておこう。
 どうやら気がついていなかったらしいけど、君に振り向くのを禁じて道具を準備している隙にビデオをセットしておいたんだ。せっかくハンディカムが用意されていたから活用しないと損だしね。電源ランプをテープで隠しておいたからわかり難かったかな。
 君の魅力がたっぷり詰まった名作だ。できれば、最後まで目を逸らさずに堪能して欲しい。次も期待しているよ。
                              弘樹より、愛犬砂理へ』

 血の気が引いていく。
 記されている事実を受け入れることにかなりの時間がかかった。
 美月が観せられたのは、一場面の写真ではなかったのだ。調教部屋で私が手錠を付けられたあとの一部始終を、美月に全て知られている。そして弘樹の手元には、脅しに使える材料が一つ増えた。
「たぶん携帯で再生できますけど、ここで観ますか?」
「・・・・・・余計なお世話よ。家で観るわ」
「保健室でなら、また失神しても安心ですよ」
「余計なお世話だって言ってるのよ、調子に乗らないで!」
 叫び返しながらも、自信は揺らいでいた。それでも内容を確かめずにカードを捨てることには抵抗がある。この動画は美月も観ているのだ。美月に知られている私の姿がどんなものなのか、知らずにいることもまた不安だった。
 懊悩する私に対して、榊原は携帯を掲げて見せる。
「それは置いておくとして、父の処遇の件なんですが――」
「わかったわよ! 口利きはしてやるから早く消えなさい!」
榊原には観ると啖呵を切ったが、結局、その晩は動画を見なかった。SDカードをPCに差し込むところまではできたものの、再生するには踏み切れなかったのだ。調教部屋で自分が見せた姿は惨めなものに間違いなく、直視するには並々ならない覚悟が必要だった。
(観るのは明日にすればいい。いいえ、別に観る必要もなかったんだわ。こんな不愉快な物をわざわざ観ないといけない理由なんてないじゃない)
 弘樹は嫌がらせのつもりで送ってきたのだろうから、適切な対応はそれを無視してやることだ。美月がどこまで知っているのかも気にかかるが、その問題はひとまず置いておこう。それよりも大事なのは、学校生活にどう対処していくかだ。
 私は頭を捻ろうとしたが、疲労の貯まった体が強く睡眠を要求するのに負けて、まともな策を見いだす前に机で眠ってしまった。翌朝、突っ伏した格好で目を覚ました私は、慌てて準備を整える。
 眠ろうとしても寝付けないというのに、集中したいときに限って眠くなってしまうことが不条理だった。机では疲れが取れず、美月の居る学校へ向かうのは気が引け、全身が鉛のように重い。
 とはいえ、相手がこちらの体調を気遣うはずもなかった。
 無理に普段通りの朝食を胃に詰め込んでから、気合いを入れ直して家を起つ。
 

 以前なら私が登校する時間には、部下が校門前で待っているのが日常だった。しかし今朝、送迎の車から降りた私を待っていたのは、取り巻きを引き連れた美月だった。私の側には誰もいない。
「おはよう、砂理」
 にこやかに挨拶する美月の傍を素通りして、足早に校舎へ向かう。歩幅で少々劣る美月は小走りにこちらと足並みを揃えながら、そっぽを向く私に構わず話し続けた。
「体の調子は大丈夫? 無理しちゃ駄目よ?」
「・・・・・・」
「返事がないわね。気疲れしているのはわかるけど、苦しいときほど笑顔が大切なの。ほら、にっこりしてご覧なさい」
 私は更に足を速める。
 明るかった美月の声に、不満げな色が混じった。
「ねぇ、忘れてないとは思うけど、あまり態度が悪いとあなたは困ったことになるのよ?」
「私はね」
 私は立ち止まって、身を寄せてくる美月の双眸を真っ直ぐ睨み付けた。
「時々耳が悪くなるのよ。だからあなたが腐った口から調子外れな雑音を吐いたとしても、気がつかないかもしれない。そうしたら命令されても気づかないかもしれないけど、そのときはご免なさい」
 以前、弘樹が使った屁理屈。まさか自分で使う日が来るとは思わなかった。その後も嫌味を続けようとする美月に構わず、教室へ向かう。けしかけられた取り巻きに囲まれるくらいのことは覚悟していたが、美月は意外にあっさり引き下がり、無理に追ってくることはなかった。
 そのまま午前の授業はつつがなく進み、目立った攻撃も受けないまま四時限目の体育が終わった。
 だからといって、油断したつもりはない。更衣室はもっとも危険な場所の一つであり、次に使う生徒が入ってくる時間まで入るのを待つべきだと知ってはいた。けれど授業が終わると同時に捕まえられ、四人がかりで引きずり込まれてしまっては、流石にどうにもならない。
『あなたが罹っている時々頭が悪くなる病気なんだけどね、治す方法を知っているの。痛くないからじっとしていなさい』
 ボールペンでそう書いてある紙を、美月は両手脚を捕まえられた私の顔に押しつけた。
「悪くなった頭でも文字は読めるのかしら。それも無理ならよっぽど重傷だろうから、べつにいいわよね」
 立ったまま更衣室の壁に押しつけられた私の前に立って、美月は手に持った剃刀とクリームのチューブを強調して見せた。美月が合図すると、横から伸びた手が体操服の短パンとショーツを腿の辺りまで降ろす。
 脱がされたことにショックはあまりなかった。覚悟していたということもあるが、慣れてしまったせいでもあるかもしれない。慣れだったとしたら、脱がされ慣れたという事実の方がよほど苛ただしかった。
 露出した茂みの中から一本を摘んで引っ張りながら、美月は言った。
「体毛を剃ると、人の言うことをちゃんと聞けるようになるらしいわ。最初は陰毛、もしそれでも治らなかったら眉毛、それでも悪いままなら坊主にするといいんですって。一回だけで治ればいいわね」
「くだらない・・・・・・知性の感じられない発想だわ」
「あら、聞こえていたの。まぁいいわ、さっさとやりましょう」
 美月はクリームを手にとって、黒い茂みに塗り込めていく。弘樹のものよりも繊細な指先が、明らかに愛撫を意図した動きで丘の上をなぞる。むず痒さが腰回りに広がった。自然と唸るような吐息が口から吐き出される。
「感じる?」
「鬱陶しいだけよ。やるなら早く済ませなさい、無駄に煩わせるのは止めて欲しいわ」
「ふぅん・・・・・・やぱり弘樹君からじゃないと嫌なの?」
「なっ!?」
 予想外の流れに不意を打たれる。美月は割れ目のうえにのせた指先を上下させながら、底意地悪そうに口端を吊り上げて、周りの女子へ視線を巡らせた。
「こいつ、今はこんなに怖い貌してるけど、乱れると情けないのよ? アンアン言いながらやめて〜いやぁ〜って必死にお願いしてたんだから」
「あ、あれは、だってっ!」
 私を捕まえている女子がくすくす笑う。同じ更衣室内で見て見ぬ振りしている女子達は、口々に勝手な話を始めていた。
「いまさら強がって見せたって怖くないのよ、ワンちゃん?」

「犬じゃない! そんなの、あんた達が勝手に言ってるだけでしょう!」
「そんなことないわ。砂理も自分で認めていたじゃない」
「だからあれは、仕方なく・・・・・・」
「どうして仕方なかったの? どんなことをされて、どんな風になったから? みんなに教えてあげてくれないかしら?」
「・・・・・・っ」
 口ごもる私に追い打ちをかけてくる美月。動揺の隙を抜けるようにして、恥丘から昇った刺激が脊髄を駆け上がった。
「やられたことを思い出してムラムラしてたりして?」
「わ、訳のわからないことを言わないでっ」
「まぁいいわ。時間も勿体ないし、そろそろ剃りましょうか」
 美月は身を屈めて、カバーを外した剃刀を茂みの端に当てた。
 しょり、しょり、と縮れた陰毛は端から少しずつ刈り取られ、地肌の色が表に現れてくる。少なくない人目の前でこんな仕打ちを受けることに、ふつふつと憤りが沸き上がった。
「これで半分つ〜るつる〜っ。折角だから写真に撮っておきましょうか」
「余計なことはしないで、さっさと済ませなさい」
 暴れ出したくて仕方がなかった。と言うより、既に暴れようとしているのだが、手脚をがっちり捕まえられているせいで動けないでいた。
 陰毛を剃る作業を中断した美月は、携帯で写真を撮影する。
「この写真、男子に売ったら幾らになるかしら?」
「いい加減にしなさいよこの下衆! そこまで付け上がるようなら容赦してあげる理由なんてないのよ!?」
「そうねぇ、これは砂理の言うとおりだわ。本当のご主人様から許しを貰わないで、砂理の体を勝手に売り物にするなんて、あまりにも非常識よね」
「な・・・・・・あ、あいつは主人なんかじゃないわよ! 私は誰にも飼われてない、あなたたちは揃いも揃って勘違いしているだけ。こんなことができるのは今だけよ、美月も、美月の言うことをきいている奴も、私を助けようとしない奴も、みんなただじゃ済まないんだからっ!」
「ふふ、暴れないの。肌に傷が付くわよ?」
 再び丘の上に剃刀の刃を当てて、美月は残り半分の陰毛を刈り始めた。程なく、秘所は覆いをなくして裸にされる。美月は改めて、パイパンにされた私の股間を撮影した。

「どう? これで少しは人の話が聞けるようになった?」
「あんたの声なんてまともに聴いたら耳が腐る」
「なんだか、身の程を勘違いしてるのは砂理の方みたいね」
「何ですって?」
「弘樹君から送られた動画、まだ観てないんでしょう? 昨日渡した手紙に同封されてたって電話で聞いたの。あなたは自分の姿から目を逸らしているみたいだから、一度観てみるといいわ」
「何で私が、あんな物を・・・・・・」
「どうせ怖くて観れないでしょうけどね。あんな物を観たら、二度と自分をお偉い様だなんて思えなくなるでしょうから」
「挑発しているつもり?」
「観る勇気がないの?」
「・・・・・・わかったわよ。そのくらいどうって事ないもの。勝手に盛り上がっていればいいんだわ」
 私は渋々頷いた。もちろん依然として気は進まない。けれど、観ないことで美月に優越感を与えてしまう訳にもいかない。
 その後、私は生まれて初めてパシリをやらされた。召使い扱いは下校時刻まで続き、動画を必ず観るよう念を押した上で、美月はようやく私を解放した。

 SDカードに書き込まれた動画データがPCのプレイヤーで再生される。映像は無駄に高画質だった。再生が始まると、プレイヤーのウインドウが大画面ディスプレイいっぱいに拡大される。
 私は慌ててウインドウを最小化した。大画面でこの映像を観るだけの勇気は、流石にもっていない。再生すること自体、悩み抜いた結果なのだ。
 動画は顔に覚えのある少女が後ろ手に手錠をかけられる場面から始まる。内容は編集され、少女と弘樹との遣り取りは手短にカットされていた。少女は床に引き倒されてから、バイブを入れかけたところで中断して生尻を曝し、改めてバイブを入れられて崩れ落ち、痙攣しながら床を這い回っていた。卑しい姿。実際に観たことはなかったが、画面の中の少女が曝す痴態はAV女優やソープ嬢といった卑賤な女の所行そのものに見えた。けれどおかしな事に、その少女は時々、弘樹から『砂理』と名を呼ばれていた。
(これが、私・・・・・・?)
 覚悟していた以上にショックな光景。まだ真新しい、決して屈しないという誓いが、掻き集めて再構築したばかりのプライドが、綻んでいく。
『はあっ、やめっ・・・あっ・・・・・・ん、はぁ・・・』
 胸と陰部を同時に攻められながら、少女は必死に藻掻いていた。しかし抵抗は無意味そのもので、弘樹の手と、振動する機械は、易々と少女を喘がせる。それこそ玩具を扱うように、少女の体を悪戯に弄ぶ。
『ぁ――――っ・・・・・・はぁ・・・はぁっ・・・くぅ・・・っ・・・はぁ・・・』
『はは、ごめんごめん。遊びすぎた』
 朗らかな笑い声が、カメラに後頭部を向けた男から発された。
 それから弘樹は精液の塗られたリモコンを私の顔に寄せる。このあたりの会話は、全く編集を加えられないまま収録されていた。
『あ、なた・・・いいと、おもってる、の・・・この・・・・・・この、わたし・・・に・・・・・・こん、な・・・こんな、屈辱っ・・・』
『この私って、どんな私だよ。いままでずっと勘違いしていたみたいだな』
 記憶がフラッシュバックして警笛を打ち鳴らす。
 ここから先を観るのは危険だ。私の中に深く突き刺さった一言が、弘樹の口からでようとしている。再生を止めたいという想いと、ここまできて逃げ出したくないという想いとが葛藤している間に、その瞬間は訪れた。

『おまえはな、犬なんだ』


「――!」
 必死に引き剥がそうとしてきた歯車同士が噛み合ってしまった感触。映像の中の私は犬呼ばわりされた事に不快感を示したが、自分が弘樹から快楽を与えられる姿を客観的に観てしまった私の感情は、その言葉に強く逆らってはくれなかった。
「ちが、う・・・違う・・・・・・!」
 口にする否定の言葉が、自分の耳にも白々しく聞こえる。
 思い出されるのは、嘲笑する美月の余裕に満ちた眼差し。私がどれほど超然としているように振る舞ったとしても、この動画を観ている美月のまえでは、容易に一笑されてしまうだろう。二度と、私を畏れることはない。
 頬を引きつらせる私の目の前で、映像の中の私は精液の塗られたリモコンに舌を付ける。
 舌の先で電源を切り、バイブの振動から解放された彼女を待っているのは、その日の主菜だった。
 両手を手錠に繋がれたままバックをとられた私は、上半身を支えることができず、床に胸から上を押しつけられる。その体制のまま突き上げられ、息苦しさと快楽から何ともいえない音が吐き出された。容赦なく突き込まれる肉棒が前後するたびに体が跳ねる。
 映像の中の私が喘ぐごとに、これまで築いてきた私自身に対するイメージが崩れていくように感じた。
『へぁ・・・うっ・・・・・・ぁ・・・いひゃ・・・や・・・やめっ・・・・・・かお・・・いたっ・・・』
『床で顔を擦りたくなかったら、自分で腰を動かせばいいんだ』
『・・・んっ・・・・・・うぅ・・・』
 自ら腰を動かし始めた私に合わせて、弘樹も肉棒を突く勢い緩やかに変える。いつしか私は、ひどく冷静に動画へ見入っていた。
 二人は互いに達した後、一息ついた。それから弘樹は私をひっくり返して、正常位で挿入する。私は手を庇った不自然な姿勢でそれを受けた。その辺りの記憶は曖昧にしか残っていない。その時の私には、まともに物を認識する余裕がなくなっていたためだ。

『だめ・・・い、いや・・・・・・もう・・・ゆるしてっ・・・いやぁ・・・・・・っ』
『けどなぁ、砂理は、生意気な態度ばかりで・・・いるからなぁ』
『ごめ・・・なさ、いっ・・・・・・ごめん・・・ぁっ・・・おねがいっ・・・ぁん・・・!』
 そこで、弘樹はいったん腰の動きを止めて訊いた。
『自分が犬だって認めるか?』
『みとめる・・・・・・みと、める・・・から・・・やめて・・・』
『前におまえから言われたんだが、犬なら何って答えるんだっけ?』
『え?』
 攻めが再開される。
『犬が、答えるときは、どうするん、だった?』
『わ・・・・・・わんっ・・・!』
『声がっ、小さいな!』
『わんっ・・・ぁ・・・わぅんっ・・・わん・・・ぁ・・・』
 大粒の涙を流しながら、私は一心に声を張り上げて幾度も鳴く。観ている私にも、そのときの記憶が脳内に蘇っていた。犯されながら犬の鳴き声を上げるという状況が、これまでにないオーガズムを促していたのだ。
『・・・わ・・・ふぁ・・・・・・ぁあ――――ぁ――――っ!』
 ウィンドウの中で、私が果てる。それと連動するように、PCの前にいる私の頭からも、充満していた靄が晴れた。無理矢理つなぎ合わせていた自信の残骸が、波に掠われた砂山のように、さらさらと崩れて消えていく。
 程なく動画の再生は終わった。
 動画が終わってからも私はしばらく動けずに、奇妙にすっきりした心境で、黒一色だけを表示したウインドウを眺め続けていた。
「私・・・・・・これからどうすればいいの?」

 

 翌日、なにもする気になれなかった私は、体調不良を理由に学校を休んだ。近頃具合が悪かったので、両親や家政婦もその言い訳を信用した。美月には逃げたと思われるのだろうが、そんなことはもう、どうでもよかった。
 できるなら、消え去ってしまいたい。
 翌々日も休むつもりでいたが、美月から『来なさい。また休んだらバラ撒かせて貰うから』とメールが送られてきたため、力の入らない体を引きずって学校へ向かった。購買の焼きそばパン三つとクリームパンを一つ、おにぎり四つと、ウーロン茶とミルクティーを二本ずつ。代金は各員から百円ずつ渡され、足りない分は自腹。私にとっては痛くもない出費だったが、命じられて払うのはやはり癪に障る。両手にポリ袋を提げて、昼休みの混んだ廊下を歩く。
 購買のある一階から教室のある三階まで昇り、軽く息を切らしながら教室の戸を潜った。
「ご苦労様。あなたの席を作っておいたから、座っていいわよ」
 口先だけで労いながら、美月は床を指し示した。そこには前の授業で貰ったプリント用紙が一枚敷かれている。それが座布団代わり、ということなのだろう。
 美月本人は手の込んだ弁当を持参しているため、ミルクティー一本を除けば、惣菜はほとんど全て取り巻きのための物だった。美月の席の周りに座っている生徒の輪、その外側に敷かれたプリントが、クラスにおける私の立ち位置だ。手下の、更に下。
 私は弁当を床に据え、プリントの上に膝をついて正座した。
 私を輪の外側に取り残した形で談笑する美月たちをよそに、黙って弁当を口に運ぶ。時折、これまでなら私の機嫌を伺っていたような生徒が、私を指してくすくすと笑った。沸き上がる憤りを堪え、笑い声に対して無関心を装う。
「これ、捨てておいてね」
 美月は飲み終えたミルクティーの空容器を、私の弁当箱に放り込んだ。サンドイッチの上に落ちて、ぱさ、と音を立てる。それに倣って取り巻きたちも、空のペットボトルや、パンのフィルムを弁当箱に投げ込んだ。ゴミの大半は弁当箱を外れ、いくつかが私に当たった。
 無抵抗のまま、耐える。相手は私を怒らせたうえで、無駄な抵抗を愉しもうとしているのだ。直情的に反発するのは愚作と言えた。
 学校で犬扱いされるようになってから四日目、最初のうちはあれこれ命令してきた美月だったが、私が黙って言うことを聞き続けていると、次第に興味を薄めていった。からかわれることが少なくなり、今では雑用扱いに落ち着いている。
『もう大人しくなっちゃったの。つまらないわね』
 そう失笑気味に言われたのが、妙に胸に刺さった。
 弘樹といい美月といい、よほど私を玩具扱いしたいらしい。しゃぶり尽くそうとするような彼らの態度を苛ただしく思ったが、今はそれ以上に、恐ろしさの方が勝っていた。自分はこのまま屈してしまうのではないか、という不安が刻々と膨らんでいく。
(どうしたらいいの?)
 自問するが、弄ばれている間の無力感ばかりが思い出されて、思考がまとまらない。ただひたすら仕打ちに耐えながら、心を許さないよう努める事ができるだけだった。
「元気がないわね、砂理。腰が冷えたの?」
 美月の冷やかしに、周りの生徒はどっと笑った。私は表に出そうな反応を抑え込みながら箸を動かし続ける。美月はそこで話しかけるのを止めず、言葉を続けた。
「ねぇ、そろそろ諦めてしまいなさい。化粧を濃くしてるみたいだけど、隈が隠せてないわよ。肌もガサガサじゃない。ちかごろ寝てないの? 辛い?」
 突発的に叫びたくなるのを、全力で堪える。無遠慮に眺めてくる美月の視線から逃げ出すことも、我慢しなければならなかった。
「そんなにずっと仏頂面でいなくたって、愛想よくしっぽを振ってくれば可愛がってあげるのに。私は従順なペットには優しいのよ?」
「・・・・・・」
「ほーら、媚びてみなさいよ。弘樹君に挿れられていた時みたいに、しおらしくね」
「――黙れっ!」
 忍耐が限界を超えた。弁当箱を放り捨てた私は、右の拳を固めて美月の席へ走り寄る。が、横合いから飛びかかってきた二人の男子生徒に捕まり、一矢報いるには至らなかった。邪魔をしてきたのは、寝返った荒事担当の二人。床に押しつけられた私を見下ろしながら、美月はにんまりと笑った。
「よかった、まだこんなに元気があったのね。もう潰れちゃったのかと心配したじゃない」
「離しなさい、お願いだから私にこいつの貌を殴らせてっ!」
 押さえつける力は強く、抜け出せそうにない。
 美月は私のそばまで歩み寄ると、近くの椅子を私の前まで引いて、そこに座った。
「せっかく這い蹲ってるんだから、靴でも舐めて貰いましょうか。もちろん、命令よ」
 命令、という言葉に粘質な響きを伴わせて、美月は上靴を履いた足を突き出す。
 従うより仕方がなかった。渋々舌を伸ばそうとしたとき、美月が口を挟む。
「そういえばこいつ、弘樹君にこれと同じ事をさせたらしいわよ」
 美月は私でなく、周りの生徒に向かってそれを言っていた。
「どうなったと思う? こいつは靴じゃなくて素足を舐めさせたらしいんだけど、激しく舐められすぎて感じてたんですって。それから舌を離させようとして椅子の上で暴れて、床に転げ落ちてしまったらしいわ。つくづく間抜けよねぇ?」
 教室は笑い声に包まれた。
「それはきっと、あなたが這い蹲らせるよりも這い蹲る方が得意な奴だからなのよ。本当に砂理らしくて無様だわ、その格好」
 あまりにも侮蔑的な言い分。けれど美月の話した醜聞には、誇張らしい誇張はなかった。明確に否定することができない。こんな発言を許してしまう自分があまりに情けなく、ついに涙腺が緩んでしまった。
「あら、可哀想。泣いちゃったの?」
「泣いてない!」
 怒鳴る私に対して、周囲は爆笑した。
 そんななか、上品に笑いながら、美月はおどけた口調を作る。
「そーなんだー、泣いてないんだー。じゃあ砂理の両目からでてるのは何なのかな? 心の汗? 鼻水? みんな、砂理の顔を見てよ。泣いてるでしょう?」
 周囲から口々に「泣いてるー」「泣いてるね」「涙でてるー」と肯定する声が上がる。答えなかったのは、未だに腹を抱えて笑い続けている生徒だけだった。
 完全に、見せ物にされている。
「まだ靴を舐めてないわよ。早くしなさい」
 一刻も早く解放されるために、急かされるまま靴へ舌を這わせた。ゴムと誇りの臭いが口内に広がる。味は感じず、乾いた物に舌が触れた感覚だけがあった。
「よくできました。これで殴りかかろうとしたことは不問にしてあげるわ。二人とも、離していいわよ」
 拘束を解かれた私は、美月に背を向ける。涙を流してしまった顔を、迅速に取り繕わなければならなかった。
 そこへ背後からわざとらしい話し声が聞こえる。
「それにしても、まさか砂理が他人の靴を舐めるような情けない人間だったなんて思わなかったわ。ほんのちょっと前まではいつも自信満々な貌で胸を張っていて、大勢のファンと手下に傅かれていたお姫様だったのにね。ねぇ、どうしてこんな風になっちゃったの?」
「――っ」
 気が変になりそうなほどの悔しさに、涙腺が決定的な崩壊を迎えた。
 大粒の涙が勢いよく溢れて顎まで伝い、呼吸が震える。もう取り繕うのは不可能だった。せめて顔を見られないように、全速で教室を駆け出す。沸き上がる笑い声から逃げるようにして廊下を走った。
 激しく足音を立てる私に、廊下を歩いていた生徒の注目が集まる。泣き腫らしている貌を手で覆って隠しながら走っていたおかげで視界が狭まり、一人の生徒に勢いよく衝突した。派手に転倒した私の周りで、通行人は足を止め、私の姿に注視する。
 私は転倒したときに捲れたスカートを直し、すぐさま立ち上がってその場を離れた。貌も、下着も、大勢に見られていた。まさに形無しだった。
 トイレに飛び込み、鍵をかける。
 洋式便器に腰掛け、そこでようやく一息ついた私は、腰を屈めて泣いた。
 最早この学校に、私の居場所は便所の個室以外どこにもなかった。

(どうして私がこんな目に遭うのよ?)
 泣かされて、逃げ出した。立場を奪われた私は、ついさっき面子を完全に失墜させてしまったのだ。美しく気高かったはずの自分はもうどこにも居ない。最早、意地を支える物が何もなかった。
 負けを認めてしまいたいという感情が胸中で膨れあがっていく。
 抵抗を続ける限り、私は辱めを受け続けるだろう。弘樹や美月が思いつく限りの手段で私の体は弄ばれる。それら全てに耐えきることにも、再び立場を逆転させることにも、自信は持てなかった。面子の剥がされた状態では、人目に触れるだけでも心細い。
(私はもう無理、誰も助けてくれない・・・・・・どうしろって言うの?)
 沈んだ胸中へ自問すると、犬になればいい、と暗い答えが浮かんだ。
 全て捨ててしまえば楽になれる。それの何が悪いのだろうか。
 そうして、すっかり弱気になってしまっている自分に気がついて、余計に悲しくなった。涙もまだとまらない。
 私はハンカチを取り出そうとして、制服のポケットを探る。その時、同じポケットに入っていた携帯のアイコンが点滅している事に気がついた。メールの着信を知らせるアイコン。取り押さえられたり、走ったりしている間に着信したせいでバイブに気がつかなかったのかもしれない。
 メールの件名は、『弘樹より』だった。





 メールの内容は簡素で、放課後に調教部屋へ来い、というもの。
 気がつけば、私は鞄も置き去りにしたまま学校を抜け出していた。人の空いた住宅街を走り、マンションへたどり着く。まだ正午を過ぎたばかりで、部屋にはまだ弘樹がおらず、ドアにも鍵がかかっていた。鍵を入れた財布は、教室に置いたままだ。
 中に入れないと理解したところで、急に力が抜ける。
 その場に座り込んだ私は眠気に襲われて、壁にもたれかかった。
 このまま弘樹が来るまで、しばらくは安らいでいられる。
 ずっとこんな時間が続いて欲しいと思いながら、同時に、早く楽になりたという感情もあった。どちらが本音なのか自分でもわからない。そして考える余裕も、すぐになくなる。張っていた気が緩んでしまった私は、溶けるように深い眠りへ落ちていった。
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