午前七時半 千葉県木更津市 某一戸建て


 日曜日の朝、学生や会社員はいつもよりも長く寝ていられる一日。木更津の中でも海に一番離れている町にある、とある家庭の朝はとても平和なものだった。ローテーブルの上には炊き立てのごはんや、納豆に味噌汁、漬物に卵焼きに煮物と見ているだけで食欲を掻き立てられる極々一般的な日本の朝食風景が広げられていた。
 尾野彩華は一週間前から妹夫婦と一緒に暮らしていた。綾香の右隣には既に尾野という苗字を使っていない三つ下の妹、瀬戸内明菜がお茶を入れて正面にいる旦那の幸治郎に渡している。そして彩華の左隣には妹夫婦の一人娘である麻衣子が彩華の食事を手伝おうと哺乳瓶の用意をしている。


 尾野彩華は二十八歳のアイドル声優だった。アイドルとは言ってもテレビ番組や雑誌で活躍していた訳ではなく、アニメキャラクターの声やそのキャラクターソングを歌い、たまに洋画の吹き替えやナレーション等を定期的にこなしているだけで普通の声優と対して変わらず、同期の女性声優から見てもいまいちパッとしていなかったのだ彩華だった。演技力も性格も決して悪くは無いのだがこの業界では必要な武器である個性が彩華には欠けていた。一時、地方ラジオでパーソナリティを勤めた事もあったが、その性格故に当たり障りの無いトークを行ない良く言えば放送事故が無い、悪く言えば面白く無かったというのが業界での評価だった。デビュー当初こそ豊満なFカップと母性溢れる顔立ちから水着撮影などアイドルとしての仕事も入ってはきていたが二十八という年齢になり、妹は二十歳で子供を作り既に結婚しているため、父親からも長女として見合いの話も一つ二つと持ち出されており今後の活動を悩んでいた。しかしそこに彩華が……いや誰もが予想していない出来事が起きた。
 今から約数ヶ月前、日本の各地で二十代の女性が年端もいかぬ幼児へと若返る事件が起きた。いや、現時点では事件と呼ぶのか現象と呼ぶのか定かではないのだが。そして彩華もその犠牲者の1人だった。
 若返ったその日、彩華は自宅で就寝していた。この日は仕事の予定も入っておらずゆっくりとした休暇を取る予定だった。しかし、ゆっくり寝た後、目が覚めると彩華はまず体を動かせない事に気付いた。腕は動かせるし首もある程度動く、しかし体を起こす事が出来なければ寝返りをしようにも布団が異様に重くなっており動くことがで出来なかった。それにベッドがとても広く感じる。助けを呼ぼうとしても口から発せられるのは滑舌の良いいつもの自分の声ではなく、まるで言葉を覚えたての赤ん坊や幼児が喚く様な意味不明な叫びだった。仕事の予定が入っていない為、マネージャーが心配して家に来る事も無いし、誰かと遊ぶ予定も無く彼氏もいなかった為、この状況はまさに絶望的だった。何しろベッドから出て携帯電話を取ることすら出来ないのだ。
 半日以上の間その状態が続き意識も朦朧としてきた時、部屋にチャイム音が響き渡り、それからしばらくして事務所のマネージャーと救急隊員によって彩華は救出された。後日談によると事務所の女性声優が彩華と同じく若返えるという現象が起きて、事務所は急いで所属している女性声優の安否を確認して回っていたという事だった。
 彩華は病院に運ばれ、そこでやっと自分の姿を鏡で見ることとなり言葉を失った。鏡に映っていたのはふっくらとした肉付きに閉じることも出来ないほど短くぷにぷにとした足、腕もまた短く手は紅葉のように小さい。顔も丸くなっており髪も細く繊細になりおでこが広く赤子独特の骨格になっており、綾香の目の前にはまだ1人で歩くことも出来ないであろう可愛らしい幼児が驚いた顔をして自分を見つめていた。
 彩華の母親は数年前に他界しており、父親は地方の料亭で板前をしていた。都内で働く彩華にとって父親には正月だけ妹夫婦達と一緒に挨拶しに行く事にしていた。逆に都内から一時間程度で会える妹とは数ヶ月に一度という頻度で主婦とアイドルの生活を笑いながら語り合う日を年に何回か酒を交えて送っていた。

 リハビリは予想以上にきつかった。というよりも他の若返った女性達と比べてもかなり幼くなってしまった彩華はリハビリ以前に、まずは一歳児並みに動けるようになるところから始まった。最初に意思の疎通を図るために顔の筋肉を動かし喋る練習から始まり、両足で立ち上がったり手で何かを握る等と実際の一歳児程度の幼児と同じような行動をするのが彩華の課題だった。それから数ヶ月経ち、職場への復帰を諦めきれずにいた彩華だったが、妹の誘いもあって政府が若返った女性達を今後どの様に対応するのかはっきりするまで妹夫婦の家にお邪魔することになった。


「はーいあやかちゃーん、ミルクでちゅよー」
 彩華からすれば姪という立場ににあたる麻衣子が哺乳瓶の乳首を口元まで寄せてくる。
 二十八歳になる彩華からすれば辱めにしかならないが、麻衣子からすれば始めての妹が出来た様なモノでまだ五歳といえども精一杯下の子の世話しようと頑張っていた。
 政府は彩華を含めた若返った女性達の事を世間には公表せず、秘密裏に原因解明を探ろうとしていたため若返った事を親族と関係者以外に話すのを全面的に禁止し、被害者の周りには警護や護衛のため私服警察を配置したがそれは事実上の監視であり軟禁だった。
 妹夫婦は彩華の若返りを既に知っていたが麻衣子に関しては事実を話しても、重大さを把握していないが故いつ口に出してしまうか分からない危険性があった。妹夫婦と相談した結果、事実を隠して親戚の娘を一時的に預かることにしたと偽った方が良いという結論になり、この瀬戸内家では彩華は一歳になった親戚の子供という立場で生活をしていた。
 もともと怒りっぽい方ではなく、どちらかというと穏やかな性格の彩華だったが新しい生活は大人としての自尊心を崩される様な日々が続いた。
 彩華は麻衣子の腕に抱かれながらゆっくりと哺乳瓶のミルクを飲んだ後、カラフルなプラスチック容器に盛り付けられている離乳食を食べさせてもらった。綾香が若返ってからはまず食生活に慣れるまでが大変だった。まだ顎の筋肉も弱く食道も小さな彩華は固形物を食する事は出来ず、病院ではおかゆの様な味付けの薄い流動食しか食べられなかった。妹夫婦の家に来てからも口にするのはベビーフードばかりで今も目の前に美味しそうな日本の朝食が広がっているのに味気ないペースト状の食事は彩華の心を暗くした。
 次に辛かったのが衣類だった。トイレに行けない、それどこかまだ排尿感覚さえ無い彩華がおむつを取り替えてもらうのは致し方ないと思っていた。肉体的不便があるのだから世話をしてもらっている身として文句は言えない。しかし彩華が不満を抱いたのはこの生活で与えられる衣類は殆どが麻衣子のお下がりということであった。妹夫婦の家に住み世話をしてもらい、さらに経済的にもお下がりを着る方が良いというのは彩華としても理解はしていた。が、姪の着れなくなったベビー服に袖を通すというのは些か恥辱を伴った。お下がりという事だけあって服には食べこぼしの染みや袖口を口でしゃぶった形跡も見られ、何よりこの体になってから彩華は出来るだけ無地やボーダー、色も地味目なモノを着たかったのだが、出てきた服は妹である明菜、或いは麻衣子の趣味なのかピンクや水色や白など明るい色を使い、フリルやハート、女の子向けのキャラクターが可愛らしくプリントされている様な服ばかりで、もちろん若返った彩華の体にはとても良く似合ってはいたが、二十八歳にとっては精神的にかなりきついものがあった。
 若返った体も、普段は重いだけと思っていたFカップの胸も無くなってしまうとそれはそれで寂しく、何かに摑まって立つ事は出来ても歩くこともまだ出来ない彩華の移動手段は常にハイハイであり、走り回る麻衣子から逃げる事も出来ず仕事をする事の無くなった日常は以前より眠る時間は長くなったものの、それでも絶望的に思えるほど長く感じた。だが本来の性格からか、彩華は嫌な事があっても一切不満を垂らさずに今の環境を受け入れる事にしていた。今の自分に出来ることはそれぐらいしか無いと言い聞かせ孤独ともいえる閉鎖的な毎日を送るしかなかった。
「ほら、無理矢理飲ませるから彩華ちゃんが嫌がってるじゃない」
 状況を察したのか妹の明菜が娘の麻衣子を注意してようやく自由の身になった。そのまま明菜に食事を手伝ってもらい平和な朝食は無事に済む事が出来た。

 

「それじゃあ買い物に言ってくるからパパは子供たちをよろしくね」
「気をつけていってらっしゃい」
「いってらっしゃいー」
 時刻は十時になろうとしていた。今日は日曜でスーパーの朝市があるため明菜は車で買いに出てしまった。普段ならば彩華と麻衣子を一緒に連れて行くのだが今日は休日という事もあり、子供たちは父親の幸治郎と一緒に留守番をする事になっていた。駐車場から車が発進する音をしっかりと確認してから幸治郎は麻衣子に何かを教えるように語りかけた。
「いいかい?パパはこれから二階の書斎で勉強をしなくちゃいけないんだ、だから麻衣子はお姉ちゃんとして彩華ちゃんの面倒を見ていて欲しいんだ」
 お姉ちゃんという言葉に麻衣子は表情をパッと明るくしながらウンウンと大きく頷いた。
「わかった!まいこ、おねえちゃんだから!」
 すると満足げに幸治郎は微笑んで、何かあったら絶対パパを呼ぶんだよと釘を刺してから二階に上がっていった。彩華は幸治郎の行為に大人の男性としての怪しさを感じながらも静かに見送った。たまには家で妻の居ない時間を楽しむ事だって必要だろうと、大人の気を利かせた。それに朝食も済みお腹も膨れた事で彩華自身にも軽い眠気が襲ってきて麻衣子が遊ぼうとしてくれているのだが、睡魔の方が強くリビングで身を丸めて眠りに落ちた。
 だが父親と母親の目も無く、彩華も寝てしまったこの状況下で麻衣子は大人たちの考えとはズレた五歳児の考えるお姉ちゃんとしての行動を可能にさせてしまった。

 

 彩華は食後の眠りに落ちてから十分ほどしてようやく目が覚めた。電車に乗っているかのようなカタカタと体が揺れる感覚に眩しい日差しが彩華の脳を覚醒させていく。
―ふぁぁ……どうしてもお腹がいっぱいになると眠くなっちゃうのよねぇ……うっ……それにしても外の日差しが眩しぃ…………え!日差し!?―
 彩華は家のリビングで寝てたはずなのに、外の日差しを浴びている事実に一瞬で目が覚めて体を起こした。
―ここは……―
 彩華が見回すと、どうやら自分はベビーカーに乗って外に連れ出されている様だった。ベビーカーには押し手が乗せている子供と向き合うタイプと、押し手が進む方向と子供が同じ向きになるタイプの二種類がある。彩華が乗っていたのは前者でこれも麻衣子が小さい時に使っていたものだった。どうやら寝ている間に乗せられてたらしい。ベルトで固定されているもののふんわりとした柔らかいシートとその中に入っている体にフィットしてくる様なマットが揺れを最小限に吸収して心地よかった。
 乗っていたベビーカーが向き合うタイプだったため、揺れの招待は麻衣子がベビーカーを押しているからだと確認する事は出来たのだが、しばらくして彩華の心は急速に不安で覆われていく。
 幸治郎さんの姿も妹の明菜の姿も見当たらないのだ。まさかと思いながらもあどけない喋りで麻衣子に向かって語りかける。
「ぱぱぁ……ぱぱぁ……?ままぁ……?」
「あ、彩華ちゃんおきたんだ!パパは家でおべんきょうだから、きょうはおねえちゃんがおさんぽにつれてって上げるからねー!?」
 彩華の不安は的中した。なんと麻衣子は自分を連れて一人で散歩に出ていたのだ。五歳児1人の外出でさえ危ないのに、一歳児程度の自分を連れて散歩だなんて無謀としか思えなかった。事実、無謀だという事を知らないからこそ五歳児の麻衣子は彩華を連れ出して来たのだが。
―だけど何かあってからじゃ遅いのよ……!?―
「なきそうな顔でどうしたの彩華ちゃん?」
 彩華の不安な表情を察したのか麻衣子が手を止めて覗き込んでくる。
「パパァ……ママァ……」
 本当に泣きたい状況だと思いながら彩華は幸治郎と明菜の事を呼んで家に帰りたい事を必死にアピールしようとしたが、麻衣子はそんな意図など気付かず全く別の行動に出た。
「あ、もしてかして、おむつかえてほしいのかな?」
「ふぇっ!?」
 麻衣子がわかったと言わんばかりに声を上げながら体を抱え上げたので、急なその行動に彩華は小さな悲鳴を上げた。
 ベビーカーから出るとそこはどうやら家の近くにある大きめの運動公園のようで、噴水や遊具、食事をするような木で出来たテーブルには別の課家族連れが座っており、その周囲を走っている人も見えた。麻衣子は近くにあったベンチに彩華を寝させて着ていたロンパースを脱がせ、履いていた紙おむつのテープを切った。
「あぁ、やっぱり!ごめんねーきもちわるかったねー?」
 先程麻衣子に指摘されてから彩華は自分の下半身がじっとりと濡れている事に気付いた。排尿の間隔さえ無い今の自分が情けなかったが、この体になってからそういう事態には慣れてはいた。だがやはり姪に下半身をマジマジと見られるのはあまり気持ちの良いものではなかった。
 麻衣子はまず、いつも母親の明菜が使っているおむつ交換セットの中からウェットティッシュを取り出して彩華の秘部を綺麗に拭き取る。次に新しい紙おむつを取り出そうとしているのだが、母親の見よう見まねでやっているためかモタモタとした手つきで紙おむつの前後を確認して悩んでいる。下半身を丸出しにしたままの彩華としては早く済ませてもらいたいのだが、自分で交換も出来るはずが無いので心配と心細さの合い混じった感情で麻衣子を見つめる事しか出来ずにいた。ようやく、仕組みが把握できたのか麻衣子は紙おむつを広げ彩華のお尻の下に新しい紙おむつを滑り込ませた時だった。
「あっ!麻衣子ちゃーん!!」
 遠くで若い女の子の叫ぶ声が響いた。彩華と麻衣子が同時に声の方向を向くと、麻衣子と同い年程の少女がこちらに向けて大きく手を振っていた。
「あっ美優ちゃん!!」
 麻衣子は視線の方向に体を向けて手を振り替えした。
「ごめんね、彩華ちゃん、ちょっとまっててね!」
「ぇえっ……?」
 そう言うと、麻衣子はそのまま美優ちゃんと呼んだ少女の方向へ駆け出してしまう。
「ぇっ……えっ?ふぇっ!?……お、おねーちゃぁん…………」
 上手く回らない口で麻衣子を叫ぶが返事は返ってこない。あまりの突然の出来事に一瞬で彩華の頭が白くなる。何しろ自分は1人で家に帰ることはおろか、歩くことすらまだ出来ないのだ。しかも下半身を丸出しの状態で人目のつく屋外のベンチに寝かされてしまっている。不安から少し遅れて恐怖という感情がジワジワと湧き上がってくる。
 これが妹や幸治郎さんなら彩華もこれほど慌てなかったであろう。しかし、今一緒に外に来ているのは小学校にも入学していない僅か五歳の女の子なのだ。もしかしたら友達と遊んでいるうちに自分の事を忘れてしまうかもしれない。戻ってくる前に野良犬にでも襲われたら下手をすれば死んでしまうかもしれない、知らない子供に悪戯されるかも、危ない大人に誘拐されるかも。と、ありとあらゆる怖い妄想が次々に浮かび、彩華は小さな体を震わせた。
 何しろ今の自分はいくら二十八歳の頭脳を持っていても体は無力な赤子なのだ。どんな事態が起きてもされるがまま、自分の意思とは関係無しに流れに身を任せる事しかできない。
 麻衣子が離れてどれだけの時間が経ったのか分からない。一分か……それとも十分は経ったのか。下半身は素肌に風が通る度に肌寒く、上半身を起こす事は出来ても、ベンチの上という危険な状態でそれ以上体を動かすこともできなかった。お尻に敷いてあった紙おむつはいつの間にかベンチの下まで落ちてしまっている。何とかベンチの上で四つんばいになると綾香は必死で麻衣子を探そうとするのだが、その低い視点で何処を見回しても見つからなかった。焦りがどんどんと先程浮かべた恐怖を現実のものへと近づけさせ彩華の目には涙さえ浮かびはじめていた。
「まいこおねえちゃぁぁぁん……」
 出来る限りの大きな声で麻衣子を呼ぶが近くを走っていた男性がチラッとこちらろ見ただけで肝心の麻衣子は姿を現さない。
 その後も何度も叫んだのだが麻衣子はこちらに帰ってくる気配がなかった。もうどこに行ってしまったのか分からない。まるで無人島に1人で漂流してしまったかのような絶望感に怯え彩華の理性は限界を迎えた。
「ふ……ふぇぇぇぇぇええええん」
 若返った体は涙腺が緩いのかどうかは分からないが、自ら何もする事の出来なくなった彩華はもう感情を爆発させて泣き上げるしかなかった。不安な気持ちを泣き声にして響かせるその姿は誰がどう見ても赤子そのものだった。
 1人で泣いている子供の姿に流石に周りにいた大人たちも心配し始めたのか何人かがどうしたものかと集まって来る。そして彩華も涙以外にも鼻水や涎を垂らし息が切れて、わぁわぁと泣くことに疲れてきたとき、ようやく麻衣子が大人たちの間から現れた。彩華はやっと来た麻衣子に今度は安堵の涙を浮かべる。
「あぁ!彩華ちゃん、どうしたんでちゅかー?おねえちゃんがいなくなってさびしかったんでちゅねー、よちよち」
 居なくなった事を詫びる訳でも反省する訳でもなく、麻衣子はそのまま下半身丸出しの彩華を抱き上げて赤ちゃん言葉であやした。
 彩華は決壊してしまった涙を止める事が出来ずに、安心を掴んで話さない様に下半身を顕にしつつも麻衣子の大きい体を抱きしめ続けた。
 ヒックヒックと彩華が泣くのを落ち着きはじめたので、ようやく周りの人たちも離れ、泣いてぐしゃぐしゃになった顔を綺麗にしてもらった後、やっと彩華は麻衣子に新しい紙おむつに替えてもらった。
「この子、麻衣子ちゃんのいもうと?」
 先程手を振っていた美優と呼ばれる少女が麻衣子に尋ねる。
「ううん、彩華ちゃんはしんせきの子で今は、麻衣子がめんどうを見てあげているの!」
 えっへんと威張らんばかりに美優に対し胸を張る麻衣子を彩華はやれやれと泣き腫れた顔で見上げていた。
「じゃあ、その彩華ちゃんもいっしょにあそぶ?」
「うん、いいよ!!」
 彩華の意見など関係無しに、麻衣子が勢い良く承諾をする。だが当の彩華は遊ぶ遊ばないより前に、別の不安を感じていた。美優ちゃんはもちろんの事、先程まで綺麗な洋服を着ていたはずの麻衣子だが、今の格好は頭からびしょ濡れで所々泥がはねたのか茶色い染みになっていた。恐らく下着も靴の中も水が入ってしまっているであろう。麻衣子が顔を擦ると手についていた土がどこかの民族化粧の様に目の下に模様を描いた。
「彩華ちゃん、じゃあおねえちゃんたちといっしょに、ふんすいのそばでおしろをつくろう!」
 そう言うと麻衣子は彩華を抱えたまま友達と一緒に噴水に向かって駆け始めた。そして遅れて彩華の悲鳴に似た泣き声が木霊した。

 

 結局彩華も小さな体での水遊びに夢中になってしまい、麻衣子共々泥だらけの服とベビーカーで家に帰ると、既に明菜はすでに帰ってきており麻衣子はもちろんの事、旦那の幸治郎も子供達が抜け出した事に気付かなかった事で怒髪天を衝くが如く怒りを受けることになった。
 麻衣子の場合は着ていた服と彩華を乗せたベビーカーまで泥まみれにしていたため、庭でパンツ一丁になってベビーカー洗いの刑となった。半泣きでだっておねえちゃんだからとブツブツと文句を垂れていたが、母親の明菜とすれば何事も無く帰ってきてくれてホッと安堵していた。家に帰って麻衣子も姉の彩華の姿も無く、ベビーカーまでもが消えていたときは心臓が止まる思いだっであろう。
 彩華は麻衣子よりも先に明菜にシャワーで綺麗にしてもらうことになった。アレだけ大変な思いをしたのに、実は家を出てから二時間も経っていない事に彩華は驚いた。確かに子供のときは一日の時間がとても長いと感じていたが、若返ったせいかここ最近は大人だった時と比べ、日を追う毎に時間の流れが遅くなっているのだという事に薄々気づいてはいた。
「ごめんねお姉ちゃん……まさか麻衣子が1人で外に出るなんて思ってもなくて……」
 彩華の小さな頭についた土をシャワーのお湯で洗い流しながら明菜は幼い姉に謝った。
「いいのよ……べゆに、だえかが、けがすゆなんてこよもあかったんやから」
 上手く呂律が廻らないせいか、ゆっくりと喋り、気にしていないと彩華は妹を許す。
「でも、麻衣子はお姉ちゃんが来てから色々変わったのよ?」
「えっ?」
「以前は嫌な事があったらスグに泣いていたし、散らかしたら片付けないし、好き嫌いも多かったけど、お姉ちゃんが家に来てから何かとお姉ちゃんだからって自分の事は自分でするようになったし、我侭を言わなくなったから……これでもお姉ちゃんには感謝しているのよ?」
「……そっか」
 妹夫婦の家に来てから面倒ばかり掛けてしまっているのではないかと、少しばかり気が重かった彩華だったのだが、これでも少しは麻衣子ちゃんの自立に役立ってはいたのかと思うと気持ちが少しだけ軽くなっていくのが分かった。
 だが、彩華の心はどこか……充実した日々を送っていても、若返ってから肉体以外に何かを失ってしまった様な変な感覚があった。
 体を拭いてもらい、新しい服に袖を通して抱っこをされながらリビングに戻ると、付けっぱなしにしてあったテレビから可愛らしい少女の声が聞こえた。
 彩華は抱えられながら何処か懐かしい響きの声に反射的にテレビの映像を見つめた。
「……あれ?お姉ちゃんどうしたの!?」
 明菜が抱えている姉がボロボロと泣いているのに気付いて焦りながら尋ねる。しかし彩華は妹に対して何も語らなかった。
 何故自分でも忘れていたのか分からなかった。テレビに映っていたのは少女向けアニメで、かつて自分が声を当てていたキャラクターが自分ではない誰か別の女性の声で一生懸命、悪役のキャラクターと戦闘しているシーンだった。
 彩華は若返り、若返った姿で過ごすうちに無意識のうちに大人だった時の居場所を忘れて自分が傷つかないようにしていたことに気が付いた。彩華はこの精神が狂うような現象の後、どんなに恥ずかしい事や大変な事があっても、そこに自分の居場所を作ることで何とか自我を保ってきていたのだった。かつての自分の居場所を忘れている事に気付かず。
 しかしテレビの映像でかつて自分が確かにいた場所は、すでに別の声優に代わっており、居場所を失って初めて自分がいかに声優という職業を愛していたのかを実感した。個性が無いと言われても、同期はどころか後輩に追い抜かれても、そこは立派な彩華の居場所だった。肉体の若返りも姪に対する立場も、妹に世話になることも、お下がりを着る事にも絶えられたのに、かつて自分が存在した証も居場所も自分が気づかない間に無くなってしまっていた事に静かに涙を流した。それは数時間前、麻衣子を呼ぶ時とは違い、大人の……仕事に誇りを持つ女性の涙だった。
 そしてもし元に戻れる日が来たらいくら父親に反対されても、声優という職業を続け……もし戻れなくてもまた声優という職業を目指すのだと心に誓った。

 

 

午後十時半 東京都千代田区 警視庁記録室


 加賀は1人でモニターに映し出される映像を見つめていた。ここ最近は整えていないのか髭は様々の方向へと自在に伸びていた。
「やはり……しかし何故ここに……」
川月から受け取ったビデオテープは中の映像を動画データーに変換してUSBに入れておき、オリジナルは本人に返していた。
 加賀の手元には膨大とも言える若返った女性達のデーターが広げられていた。そしてその中の一枚の写真を取り上げるとモニターと交互に確認する。
 川月は若返った娘の検診を断っていたため、説得の上、娘の過去のデーターと呼べるモノを全て提出することで合意した。若返りの原因さえもつかめていない現状、まずはどういう若返りなのかを調べる事から始まった。
 つまり、背が低くなり、骨格が変わり、皮膚が変化した事で結果的に子供の様な外見になったのか、それとも十数年前の肉体と全く同じ組織細胞に変化して本当に子供時代の肉体へと若返ったのかということだった。現在の調査ではほぼ間違いなく後者であると研究員は報告している。若返った後の女性達も本来の成長速度で肉体が発達していることが分かっていた。
 しかし、加賀はそんな事を見比べている訳ではなかった。手元にある写真は、元人気俳優の川月聖夜ではなく別の女性が写っていた。
「何故……彼女がここに……」
誰も居ない、夜の記録室で加賀は自身の髭をザリザリと弄りながら食い入る様にモニターの映像を睨んでいた。

 

まえ                                             つづき