正午 北海道札幌市 中央警察署

 

「そうですか……わざわざご足労頂きましてありがとうございます」
「いえ……こちらこそ……」
「それじゃあ刑事さん、私達はこれで失礼いたします」
 警察署内にある応接室で二人の男性刑事が可愛らしいワンピースを着た少女とスーツ姿の何処か洒落た雰囲気のある五十代ほどの男性に深々と頭を下げて立ち上がる。パッと見ただけでは親子の様に見えなくもない少女と男性だが、少女は北海道で活躍していたシンガーソングライターで男性は少女の所属している小さな音楽事務所の社長だった。
 少女はどう見ても小学校に入る前の四、五歳程度にしか見えなかったが実は歴とした二十四歳の成人女性である。しかし、おそらく誰がどう見ても彼女を成人女性だと気づく者はいないであろう。そこまで彼女の肌、声、雰囲気、動き、服装の全てが幼かった。唯一、あどけなさは残るが実際の幼児では到底出来ないであろう落ちついた話し方を除いて。
 刑事二人は少女と男性が応接室から出て行くと靴音が聞こえなくなったのを確認してから口を開いた。
「まさかあの子が朝丘來羅だったなんてなぁ」
 鼻の下から顎まで連ねた髭が実際の年齢より上に見せているが、剃れば端正な凛々しい二枚目であろう加賀昭二は髭をゾリゾリと弄りながら呟いた。手元の写真には清楚だが何者にも媚びないといった様な表情を浮かべる小豆色の髪をショートカットにした若い女性が写っていた。
「えぇ、小さい頃から男性的な方なのかと思いきやフランス人形の様な可愛らしさでしたねぇ……」
 加賀昭二よりも軽い雰囲気で語る眼鏡の男性、楠木利明が音楽雑誌を見つめながら相槌を打つ。
 数週間前、日本の各地で二十代の女性が年端もいかぬ幼児へと若返る事件が起きた。いや、現時点では事件と呼ぶのか現象と呼ぶのか定かではないのだが。
 政府は女性達が若返った原因を迅速に究明するのと同時にこの事実に対し素早く報道規制をかけ、全容を丸ごと隠すという荒療治に打って出た。そして結局のところ警察を全て動かすわけにも行かず、警視庁のエリート組や秘密警察と呼ばれる裏組織、国立研究所の研究員などを含めた総勢百名足らずを集め事件の全貌を調べようとした。その為もちろん警察といえでも末端の者にはこの事実を知らされてはいない。
 しかしいくら海千山千の者達を集めたとしても、この奇怪とも言える事件の足がかりさえ掴めないでいるのが現状だった。
「北海道まで来てみても、結局は他の人たちと変わりませんでしたねぇ……まぁ精神まで退行しちゃってたり精神安定剤を投与されて喋ることすら儘ならなかった人達と比べればまだましな方か……そんないたいけな朝丘來羅を見て加賀さんは話を聞いてどう思いました?」
 楠木は固まった背筋を伸ばしながら何処か茶化すように先輩の加賀に尋ねる。
「楠木、あんまり不謹慎な事を言うもんじゃない……俺は朝丘來羅に言うような事は何もねぇよ、強いて言っても見た通りの自分の作り上げてきた時間と体を粉々にされちゃいましたって感じの……今まで会って来た可哀相な女性達と同じように見えたよ」
 低くドスの効いたような声で加賀は答える。
 加賀も楠木も本来北海道警察署に所属している訳ではなく普段は都庁で勤務をしている。三十四歳で警視正になった加賀とその部下の楠木もまた二十六歳という年齢であり、二人とも俗に言うキャリア組だった。二人とも若いうちから手腕を発揮しており加賀に関しては後に警視監、警視総監になるのは確実だと噂されるほど頭が切れ、正義感溢れる人物だった。
「やっぱりアレじゃないですかねー海外からの薬物テロとか……やっぱり報道規制掛けない方が良かったんじゃないですかね?」
「政府のお偉いさん方は若返りの秘密を独占したいだけなんだよ、それに海外からのテロだとして何で二十代のしかも人気のある女性だけしか狙わねぇんだ?それだったらもっと無差別に攻撃したほうが国を弱体化できるもんだろうが」
「じゃあ悪の秘密結社とか古代文明の力とか……?」
「小学生の妄想じゃねえんだからオカルト言うな」
 事実加賀自信も事件の原因を探るためオカルトと呼ばれるような書式や専門家に話を聞いて回ったりもしたが参考になるような話は何1つとして見つからなかった。
―しかし……これはやはり誰か人間が起こした犯行だ……それとも宇宙人か?いや馬鹿な……―
 らしくない考えを頭に浮かべ加賀は自嘲気味に笑った。
「でも昔あったじゃないですか、ほら、ノートに殺したい奴の本名を書いたら死ぬって漫画……今回の事件も本名をノートに書いたら若返るっていうオチだったりして」
 本気なのかふざけているのか分からない喋り方で楠木は広げてある書類とノートパソコンを話しながら片付け出す。
「だからオカルトは止めろ。それに例えそうだとしても、それは本名を書くんだろ?若返った女性達の中には偽名で本名を事務所にしか教えず世間に公表していなかった者もいたんだぞ、一般人には無理だし事務所のトップだとしてもだ、流石に日本全国の会社やメディアに顔が通じてるって訳じゃ無ぇだろう」
「いえいえ、その話には悪魔の目っていうのがあって……」
 話に切りが無いと感じた加賀は冷めた緑茶を口にしながら楠木の話を受け流していた。これで仕事が出来なければ一緒にチームを組むこともなかった事であろう。ある意味この性格なうえ仕事は人並み以上にこなすことが出来るのだから厄介だとも言える。
 加賀も楠木の言う漫画は知っていた。ノートに殺したい人物の本名を書くと殺すことができ、しかも死因や時刻まで操れ、悪魔と取引することで相手の本名を見られる悪魔の目を持てるというモノだ。
 実際に今回の出来事もその話を信じそうになるほどSF映画みたいな事件だった。まず、二十代女性でしかも一定の人気を誇っている人物だけが若返るなんて事からまず病気や、無差別に起きる事件ではない事が分かる。しかも同じ日のほぼ同じ時刻にだ。一般人と言える様な女性が1人もいない事が事件の怪しさを物語っていた。さらに若返った年齢が皆、一歳から五歳児までというのも加賀は不思議で仕方がなかった。二十八歳の女性が一歳になっていたり二十歳の女性が五歳だと変化もバラバラだったが、その例外に見当たる人物もおらず、これが一体何を意味しているのか捜査員全員が疑問に思っていた。

「今回の出来事で若返った女性は何人いたか覚えているか?」
 加賀は楠木の話を遮って尋ねる。
「えっ?えーと確か五十六人だったと思いましたけど……ちなみに僕達が会ったのはさっきの朝丘來羅で二十三人目です」
 そう、何と全国で五十六人もの女性が若返っているのだ。本当にこれでは漫画や映画の話ではないか。事実は小説よりも奇なりなんて言葉を加賀は心底嫌っていた。いつだって事が起きるというのは人と人が交わってから発生するものであり、所詮人は人が考える事以上の事は出来ないし、どう頑張っても人は羽ばたいても空を飛べず、誰が何をしても心臓が止まれば死ぬ、それがこの世の理だと加賀は常々考えていた。今回の事件も犯人の影がチラついている以上……いや、加賀の中で犯人は絶対にいると確信していた。いるのであれば何をしてでも捕まえる、それが加賀の信念であった。
 先ほどの疑問点の他にもう1つ加賀は気にしていたことがあった。
「今回の事件でおかしなところは五十六人という人物が若返っていながら誰一人死んでいないというところなんだよな……」
「あ、前にもそれ仰ってましたよね、でもこのままじゃいつ自殺者が現れるか……」
「……それはまぁ仕方ないが、言いたい事はそうじゃない、五十六人もの成人女性が若返った時刻に誰一人として車を運転していたりアルコールを大量に摂取していたり1人で山に行っていたり、火を使っていたりしていなかったって事だ。まるで全員無事に若返る事が予め予測していたようじゃないか……?」
 実際に二人が事情聴取した二十三人のうち二十人とは会話する事が出来たのだが聴取した全員、部屋で寝ていたりホテルに泊まっていたり彼氏やマネージャーと一緒に居たりと若返って命の危機に合う様な場面や場所に居た人物は誰1人としていなかった。
「あぁーそうなんですよねー……でも例え犯人がいたとして、その思想や目的だって……もはや犯人像さえも分かっていない訳だし、単独犯なのか複数犯なのかも分からないんですからいくら政府直々の御命令だとしてもこれじゃあ解決の糸口さえ見つからないっすよー……あ!若返った女性が好きな若返りフェチの犯行ってのはどうっすか!?自分が好きな女性を若返らせてそれを隠すために他の女性も……」
 加賀はもう楠木に口出しする事を止めていた。加賀の頭の中にはもちろん若返る女性が好きだという人種が存在するという事も知ってはいたが、それが今回の女性達を狙ったとするならばかなりお粗末な犯人だったと言う事になる。その様な趣味嗜好を持ち合わせているのならばきっと自らの目の前で楽しむであろうし。例えば東京に居たとして若返ったかどうか確認できない北海道の地にいる女性を対象にして何の得があるというのだろうか?そしてそういう奴こそ一般人や復讐したい相手にその様な力を使用するものではないか?
―いったい誰がこんな事件を起こして得をするっていうんだ……!?―
 他にもこの世の綺麗な女性に嫉妬している同姓や自分以外のアイドルを嫌っている同職の女性なども犯人像として考えていたが、どれもこれも二十代限定でしかも大学のミスコンレベルの女性達にまで対象を絞るという理屈が見つからなかった。
―なんでこの年代の女性だけなんだ……決してこれは偶然ではない、犯人が居たとしてもこれでは自らこの事件には犯人がいますと教えているようなモノではないか……!?―
 結局いくら考えても今の現状では何も分かる筈がなく、北海道で若返った被害者全員に会った今、加賀も楠木も東京へ戻り報告書を提出する事以外に出来ることは何もなかった。
 片付けが終わった二人はコートを着てバッグを背負うと応接室を後にした。エレベーターで一階へと降りる際に加賀はふと考えていた。
―しかし何故あの日だけしか若返る現象が起きなかったんだ……?…………いや待て…………あの日だけだと……!?違う!!もしかしたらあの日だけでしか若返らせる事が出来なかったんじゃないのか……?年齢もそうだ、二十代だけ若返ったんじゃなくて二十代の対象者しか若返らせる事が出来なかったんじゃないのか!?―
 手続きを終え警察署から出ると加賀は懐から煙草を取り出し火を着けた。加賀の中ではこの一連の出来事に携わった時からこれは歴とした犯罪なのだと胸に強い思いを抱いていた。だがそれと同時に疑問も浮かぶ、何故ここまで限定した女性を対象にしたのか?先ほど思ったように例えその限られた女性しか若返らせる事が出来なかったのだとしても、これでは誰かの意思による犯行ですよと自らヒントを与えている様なものじゃないか。それに五十人以上の女性を対称にする理由が見つからない。そんなまるで警察や政府を試すかのような犯人の思想が加賀の刑事としての正義感にチクチクと嫌な刺激を与えていた。
 トゥルルルルルルル
 電子音が響いたかと思うと楠木はすばやい手つきでバックから携帯電話を取り出し通話ボタンを押す。
「あ、はい楠木です…………あ、やっぱりそうでしたかぁ……分かりました……いえいえ、ありがとうございます……とんでもないです!それじゃあまた何か分かったら連絡してください……ええ、それじゃあ」
「……誰からだ?」
 加賀が煙草の灰を携帯灰皿に落としながら尋ねる。
「主任研究員の山庵さんですよ、今回若返らなかった知名度のある女性の中ではスポーツ選手や作家、後はメディアに姿を露出していない声優だったり、就労目的で滞在している外国人とかだったんですけと……で、調べたらやっぱり若返った人達の中にはこういう職種の人達は1人もいなかったんですよねぇ」
「お前、そんな事を1人で調べていたのか……」
 加賀が驚いたように髭を弄りながら目を丸くした。
「僕だって僕なりにこの事件の真相を追っているって事ですよ、こんな事件に遭遇できるのなんて一生に一度ですよ?何かワクワクしてくるじゃないですか!まるでSF小説みたいで興奮しませんか!?」
「感心した俺が馬鹿だったのかもしれん……全く、さっさと東京に戻って次の聴取に取り掛かるぞ」
「加賀さんもあんまり僕の事で自己を嫌悪しない方がいいですよ、それじゃあ解決に向けて頑張るとしますかぁ……ねっ!!」
 空港まで向かう送迎用の車に二人は乗り込み、まだ解決の糸口も見つかっていないこの奇怪な事件を雲をも掴むが如く挑んで行くのであった。

 

 

 

 

午後四時 埼玉県さいたま市 某保育園


 子供達がはしゃいでいる声が窓越しから聞こえてくる。加賀が何気なく室内から外を見つめると可愛らしいフリルの付いたピンク色のワンピースを着こなして同い年ぐらいの女の子と楽しげに遊んでいる少女が見えた。おままごとをしているのか下着や服が汚れる事を気にせず外で遊ぶ姿は微笑ましくもあった。
 加賀は手元の写真に目を落とすとそこには美しいというより格好の良い女性の姿が写っていた。川月聖夜、若い頃から美青年や王子など俗に言う男性役を多くこなして来た人気若手俳優だ。男性よりもむしろ同姓のファンが多く、そのハスキーで通る声と高身長に加え男よりも男らしくスマートな身のこなしに女性に愛される女性として同世代に膾炙していたのが彼女だった。
 トントンッ
 保護者室と呼ばれる園児の親や保育士が集う部屋のドアをノックする音に加賀と楠木は素早く立ち上がると、ドアを開け初老の男性が中に入ってくるのを確認するのと同時に頭を下げた。
「すいません、お忙しい中わざわざ……」
「いえいえ、娘を迎えに来たついでですからお気になさらず……それにこちらからも頼みたい事がありましたし」
 深い皺を寄せながら笑う初老の男性からは自愛に満ちた表情が放たれており、加賀も楠木も少しホッとしたような笑みを浮かべた。
 加賀と楠木は都庁に勤める刑事である。とある怪奇とも言える謎の事態が発生し、政府の報道規制の元、密かに捜査本部を立ち上げたが事件は解決の糸口も見つかっていなかった……加賀と楠木はその真相を追ってこの保育園まで出向き事情聴取という名の事態解決の手がかりを探しに来ていた。
 今まで会ってきた人物からは顔を合わせた途端に泣かれたり原因解明できない警察に対し罵声を浴びせてきたり殴られそうになった事もあった。なので今回の物腰柔らかな初老の男性に出会えて二人はどこか胸をなでおろす思いがあった。
「彼女が……川月聖夜さんですか?」
 楠木が窓を覗きながら先ほどの遊んでいるワンピース姿の少女に視線を預けながら初老の男性に問う。
「……ええ、そうです……」
 男性が意味深な間を取りつつ質問に答える姿を加賀は自身の髭を弄りつつ黙って見つめていた。
 初老の男性は川月旭という名で、川月聖夜……本名川月紗代の実父であった。本来だったら外の少女はまだ四、五歳程度で、六十近い男性の娘だとは思えなかったし、何しろ少女は何処からどう見てもまだ子供で二十代の川月聖夜とは明らかに歳が離れ過ぎていた。
 しかし少女は確実に川月聖夜であった。数ヶ月前、日本の各地で二十代の女性が年端もいかぬ幼児へと若返る事件が起きて、彼女もまたその被害者であった。いや、現時点では事件と呼ぶのか現象と呼ぶのか定かではないのだが。
「まぁ……あの様に遊んでいる彼女を見ることが出来て良かったです、思った以上に元気そうで何よりですよ」
 楠木が取って付けた様な世辞を入れつつ話を本題に入れる。
「本来こんな事は私達が介入する事では無いのですが……なんで川月さんは、若返った原因を解明するための検診と診断を断り、しかも強制では無いにせよ捜査協力も断り続け、さらには被害者に与える国からの支援金まで断ってまで聖夜さん……いや、紗代さんの新しい戸籍を求めたりしたのですか?」
 加賀は楠木に対し、いきなり本題に切り出しすぎだ!と怒鳴りたくなる衝動を拳を握り抑えると黙って川月旭を見つめ続ける。
 しばらく沈黙が続いた後、川月はゆっくりと柔らかな声で喋りだした。
「私もいつの日かこうやって説明しなくてはならないと思っていました……これを見ていただけますか……」
 そう言うと川月は一枚の紙を取り出した。おそらく白かったであろう紙は日に当たって薄茶色に変色しており、何回も折っては広げたのか折り目が強く残っている。楠木がそっと丁寧に受け取り紙に目を通す。
「これは……紗代さんの診断書ですか?……いや、しかし報告では一度も受けてないと……?」
「はい、これは一年ほど前に診断してもらった時のものです……そしてその診断書の結果にはクロイツフェルト・ヤコブ病の可能性がある書かれています」
「クロイツ……?すみません、医療関係にはあまり詳しくなくて」
「全身の不随意運動と急速に進行する認知症を主徴とする中枢神経の変性疾患だ」
 楠木が喋っている途中で加賀が髭をいじりながら病気の説明をした、楠木はもちろん川月も驚いた表情で加賀を見つめた。
「……よく、ご存知ですね……娘は小学生の時に自動車事故に会い、手術を行いその時にドイツから輸入された乾燥硬膜を移植しました」
「なるほど……それで、潜伏期間の後に発祥の可能性があったという訳ですか……」
「あのぉ加賀さん……つまりどういうことなんですか?」
 楠木は二人が何を言っているのか分からないといった様子で話の腰を折り解説を求めた。
「ヤコブ病ってのは脳の中に十年も二十年も潜伏していつ発祥するかも分からない病気なんだ、そして発祥したら約数ヶ月で脳がスカスカになって死んでしまう、確か治療法方は見つかっていなかった筈ですが……川月さん?」
「ええ、そうです……娘も発祥はしていなかったのですが、その輸入した乾燥硬膜を移植したのは娘を含めて四人でした……そして娘以外の三人はヤコブ病で既にこの世から他界しています」
「つまり紗代さんが発祥する可能性は極めて高いと……」
 ようやく楠木も話の内容を理解できたところで、川月は紗代こと俳優、川月聖夜の生い立ちを話し始めた。


 川月紗代は埼玉県で生まれ、下には三歳下の弟がいた。家は決して裕福ではなかったが、それなりの暮らしは出来ていたし父の旭も母も優しく愛情を満遍なく注がれて幸せに暮らしていた。
 しかし紗代が六歳のときに母親と共に大きな交通事故に合った事で生活が大きく変わってしまう。原因は整備不良のトラックがハンドルを奪われて紗代と母親の乗っていた軽自動車に突っ込んだのだ。母親は即死で紗代は難しい手術の後なんとか一命を取り留めることができた。
 まだ三歳の弟を残し母親は他界してしまい、父親は家事と仕事を両立しながら二人を育てた。弟は名を葉柄(ようへい)と言い、生まれつき体が弱く発育も遅かった。医者曰く二十歳まで生きれれば良い方らしかった。そんな葉柄に友達は少なかったが、その分紗代は葉柄をとても可愛がり、ほかの姉弟と比べてもとても仲が良く、紗代は体の弱い葉柄のために親以上に一緒の時間を過ごした。
 父親の負担を少しでも軽くするため紗代は家事を手伝い、中学校に上がる頃には家の事は一通り出来るようになっていた。しかしその時期に葉柄は治療のため入退院生活に入り家計は火の車になっていった。
 中学校で紗代は男子を初めとしてクラスからイジメに合っていた。暴力を振るわれたり罵声を浴びせられるという訳ではなく所謂シカトであった。弟の病気や貧乏で片親な紗代に近づく者はあまりおらず、またその端正な顔立ちから、年頃からか同姓にも良く思われていなかった。それでも挫けずに学校へ通えたのは家族への愛と弟から貰う励ましの言葉があったからだった。互いが苦しくても姉弟の二人が一緒に居るときだけイジメの事も良くない体の事も忘れて幸福な時間を過ごすことが出来た。
 卒業が近づきイジメがエスカレートしてきた頃、イジメの存在に気づいた父親は激怒して学校側へ怒鳴り込み厳重注意を行うと共に男子からのちょっかいがイジメの原因に繋がった事を知った父親は紗代を卒業後、規律正しい事で有名な女子高に通わせることにした。
 高校での紗代は恋愛対象のいない、しかも異性交遊を禁止されている学校指導からか上級生からも下級生からも男役として好まれ憧れられた。しかし紗代はそういったモノに一切興味は持たず、高校側の許可のもとアルバイトと学業を両立させていた。弟の容態も良くなっており退院したら高校に通いたいと言っていた弟の為に退院祝いに学費を出そうと心に決めていた。
 しかしその思いもむなしく弟は紗代が三年生になると何の前触れも無く静かに息を引き取った。病気は確実に良くなっていたし医者も高校通学を視野に入れた退院を検討していた。しかし葉柄はこの世を去った。紗代は過酷なまでの現実を前に父親と共に涙を流した。
 父親の説得の元、紗代は自ら稼いだ額に父親の援助を受け大学へと進学する。
 そして大学で全国の人を励まし応援したいという気持ちのもと、演劇の道に足を踏み入れ俳優を目指す事となる。元から顔立ちも良く背の高い紗代はモデルなども兼ねながら着実に活躍の場をステップアップしていった。
 数年間舞台公演等で役者としてのスキルを磨いた後、初めてのドラマ出演が大ヒットを記録した。そのスピンオフ作品に紗代が主演女優として選ばれその年の新人俳優賞を受賞し、今までの辛い人生からようやく明るく輝いた道に出れたと父親の川月旭も思っていた。
 だが……。


「そんな時にこの病気が……」
「そうです……こんなことってありますかねぇ……紗代は何も悪くないのに……こんなに頑張っているのに決して幸せになれないのかと私は怒りさえ覚えました」
 髭を弄りつつ加賀は険しい表情で診断書を見つめる、楠木は川月の話に心を打たれてぽろぽろと涙を流していた。
 病気の事実を知ってからも紗代は舞台やテレビ局に迷惑を掛けたくないと、ギリギリまでこの事を世間に公表しないでいた、しかしいつ爆発するか分からないダイナマイトを抱えているようなモノで紗代に掛かるストレスも日に日に増していき、いつの日か演技以外で笑顔になる様な事は無くなっており、父親と会う時間も少なくなっていた。時折1人で泣くこともあったらしく、自分の人生を嘆き父親に対しても強く当たる事もあったという。以前ならば弟の葉柄が励ましてさえくれれば、紗代も救われていたのかもしれないが、父親を含めて弟の代わりになれる存在など他に誰もいなかった。しかし病気の存在を知っている誰もがそんな彼女にケチをつけたり怒ったりする事など出来ず、黙り、気が済むまで受け止めてやることしか出来なかった。
「はい……しかしそんな時に奇跡が起こりました……私は始めて神という存在を信じ、感謝しました……」
「今回の若返り現象か……」
「ええ、娘が若返った時は驚きましたが、さらに驚いたのは若返った日に掛かりつけの病院で診察してもらった時です。なんとヤコブ病の原因である手術の跡が無くなっていたんです……事故前の肉体に若返ったせいなのか、移植の跡も無く健康そのモノになっていたんですよ」
「……なるほど」
「……うぅっ……いい話だなぁ……」
 涙をハンカチでふき取りながら話に感激する楠木を無視して加賀はさらに話を進める。
「しかし、それで何故新しい戸籍を……?」
「……実は若返ってから紗代は人が変わった様に明るくなったんです、精神が退行した訳ではないと思うのですが……なんというか無邪気というか小さい頃も服は弟のお下がりになる事を知っていたので少年みたいな格好をしていたり性格もサバサバしていたんですが、若返ってからはその反動なのか女の子みたいな可愛らしい服装を好むようになりまして……」
 加賀は先ほど窓越しにみた若返った川月紗代の姿を思い浮かべた。
「そして気づいたんです、紗代は子供時代に辛い経験をし過ぎてきた……そして自身の病気も知り精神はボロボロになってしまった……しかしそこで何もかもをリセットする若返るという奇跡が起きて……紗代は全てをやり直して新しく生きたいんだと感じました、今まで私も紗代に対して辛い思いをさせてきました……だからもう一度……一から今まで出来なかった青春を取り戻させてあげたいのです」
「そうですか……ですが若返りの原因解明の為に検診ぐらいは出来るんじゃないですか?」
「強制でないのであれば、紗代にはもう過去を思い出させるような事をさせたくないのです……もちろん世間には若返った事は話しませんし紗代の中では自分は一度死んで生まれ変わったとも言っていました、そして葉柄の生きたかった分までしっかりと人生を歩むのだと……出来れば……娘を辛い過去から解き放ち、そして……そっと生かしておいてはくれないでしょうか?」
「…………分かりました、私達では判断しかねますので上にこの事を伝え追ってご連絡を致します」
「ありがとうございます……」
「……出来る限り紗代さんの意思を尊重させたいのが私共の思いですし、日本の法律上これ以上あなた達を拘束する事も出来ません、観測下で犯罪さえ行わなければ手出し出来ないのが憲法の限界ですから」
 加賀の言葉に川月は静かに瞼を濡らした、楠木は目を赤くしてウンウンと頷いている。
「ちなみに電話で話した件なのですが……」
「あ、ハイそれなら大丈夫です……私達にはもう必要の無いモノですから……どうぞ」
 すると川月はバッグの中から今では珍しいビデオテープやらアルバムを取り出した、大分年数が経っているらしく見た目からでも十分古さを感じた。
「あ、お父さーーーん!!」
 外で幼い姿へと変貌した人気俳優、川月聖夜が手を振っていた、しかし若返ったとは思えないほどその表情は幸福に満ちたモノだった。川月旭は立ち上がると、それではこれで、と会釈をすると出会った時と同じく自愛に満ちた表情で娘の元へと向かっていった。
「加賀さん……どうでしたか?」
「今回は……限りなく白に近い黒だったな」
 加賀は川月をこの事件の犯人ではないかと密かに睨んでいた、実はヤコブ病の事を加賀だけは事前調査で既に知っていた。そして今までの捜査に非協力的な態度から見て、若返りという狙われる技術を拡散して惑わせるため今回の事を起こして娘を救ったのではないかと考えていたのだが……。
「これはもう直感で分かった、川月は単なる幸せな被害者だ」
 加賀が手に持つビデオテープの一本には『紗代 五歳 運動会』と書かれていた。

 

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