辻本家バスルーム
両手で大きなシャワーの取っ手を掴みながら身体を綺麗にしていくかなめ。
しかしその姿は大凡高校生には見えない幼い体つきをしていた。
―朝、目が覚めてから自分の体がこんなに小さくなってしまったのに妹も母親もまるで当然の様に接してくる……―
これがドッキリだというなら大掛かりもいいところだ。しかし、かなめは温いシャワーのお湯を浴びながら、今の状況を理解できる1つのアイテムを見つけることができた。
「これは……子供用のシャンプー?」
かなめが手にとったものは女児が見るようなアニメのキャラクターがパッケージになっている子供用のシャンプーだった。
―……こんなの、昨日までは置いていなかった……それに私のお気に入りだったシャンプーが無くなっている……―
そして思い出す、先ほどまて着ていたパジャマも昨日着ていた服とは違う。そもそもあんな子供服自体、辻本家には無かったはずだ。
―もし私が高校生の身体から若返ったり、もしくは縮んだのなら着ていた服がぶかぶかになっていたはず…………ということは……?―
少しづつ絡まった人を解くように現状の自体を把握していく。かなめはゆっくりと風呂場の鏡に映し出された顔を見つめた。
そこには幼い自分がぼんやりと見つめ返していた。そう、アルバムを見返したときに写っていた自分の顔に間違いなかった。年齢こそ違うが辻本かなめ本人だ。
―この子は私……この身体は誰でもない、小さい頃の私に間違いない……!―
そして先ほどの姉や母親のこれがさも当然だという言動を思い出す。
―……小さな私の姿を二人とも普通だと思っていた?しかし昨日までは確実に高校生の私だったしお母さんも里穂も目の当たりにしているはず……―
そしてかなめは1つの結論に限りなく近づく事に至り思わず小さく呟いた。
「ここは……昨日まで私がいた世界じゃない……?」
かなめはこの世界が今まで十七年間生きてきた世界では無いんじゃないかと予想した。
ここはかなめが小学生として暮らしていて、里穂が姉として存在している世界。しかしかなめの記憶は何故か高校生のままだという事に。
かなめが高校生の姿だった時に使っていたシャンプーは無くなり、子供用のシャンプーが手元にある。
それはここが昨日までの世界ではなく、今は別の世界に自分が存在している意味していた。しかしそこでまた一つ疑問が浮かんだ。
―それでも変よ……私は小学生の頃……ううん、小さい頃からおねしょなんてしたことなかったはずなのに……―
そう、かなめは物心ついたときからすでにおむつ離れをしていたし、記憶では里穂がいた頃には逆にその世話をしてあげていた事の方が印象に残っている。おねしょなんて里穂が生まれる前、高熱を出した晩にしくじった時ぐらいだった。
しかし先ほどまでの感じでは、この世界のかなめは日常的におねしょをしているということになっている。
―この世界の辻本かなめは、今の私が小さかった時とは微妙に何かが違っているとか……?……でも何かしらの原因で小さい私になったのならまた何かの因子で元に戻れるかもしれない……でなきゃ、このまま小学生として人生をやり直すことになる……!―
まるで誰もいなくなった世界に一人だけ取り残されたかのような不安を覚えながら、まずはこの世界での自分を知らなくてはと決心を固めて、先ほどまでのやりとりで熱くなった頭を冷ましつつかなめは風呂場から上がった。
いくら小学生の自分とはいえ高校生のときと比べ幼くなった身体を見つめてかなめは大きく溜息を吐いた。今の自分には大きすぎるバスタオルでその貧相な体を拭き終わる。
が、また一つ昨日までの我が家と違う箇所にかなめは気づいた。
「……あれ?」
―タンスに……下着が入っていない……?―
いつもだったら脱衣所にあるタンスの下から二番目には自分の下着が入っていたはずだ。
しかし下着が入っている引き出しを開けてみるとそこには予備の石鹸やら電球などが入れられていた。
「かなめー体洗った?朝食できてるわよー」
渡りに船。まさにそんな言葉がかなめの頭によぎった。小さな自分が過ごしていた家のことなど知る由も無かったところで母親がかなめの様子を見に来たのだ。
「ご、ごめんなさい、もう出たから……で、その……私の下着なんだけど……」
うまく言葉を選びながらしどろもどろで尋ねるかなめ。ここで自分が違う世界の住人なんて言ったところで耳を傾けてくれるわけが無い。
ここは大人しくこの世界のかなめを演じながら様子を伺うしかなかった。
「あら、もうきれちゃったの?そこにまだ無かったかしら?」
下着がきれるとはとは一体どういうことなのかと思いながら、母親が指差すほうに視線を向ける。
「……えっ!?」
かなめの背筋が凍りついた。
―……これは何かの冗談、ジョーク、勘違いの類、そうに違いない……―
しかし母親の目からはそんな様子など感じとれなかった。
「なんだまだあるじゃない」
そういうと母親は洗濯籠の横にあった『ピンク色のビニールパッケージ』の中から『女児用』の『紙おむつ』を取り出した。
「もう、かなめがこの間学校で履かずに失敗しちゃって先生に呼び出されたときは顔から火が出るかと思ったのよ?」
きっと母親のいう失敗とはトイレに間に合わなかったということだろう。
「これ……私が履くの……?」
かなめは引きつった顔で尋ねる。
「先生とお母さんとかなめで約束したでしょ?しばらくは履いて学校に通うって」
どうやらこの世界のかなめは人より発育がよろしくないらしい。いくら今のかなめが昨日まで高校生でも今はこの世界の小学生でしかない。
この世界での自分の立場を弁えて行動せざるを得ない。それがいくら恥辱に塗れた事であろうと。
「ど、どうしても履かなきゃダメ……?」
「どうしたのよ?昨日まで恥ずかしがらずにちゃんと履いて通ってたのに、とりあえずこの間失敗したばかりなんだから今週は先生との約束どおり履いて通いなさいね」
母親が紙おむつを手渡すとキッチンの方に戻っていった。かなめが手にした女児用の紙おむつには可愛らしいキャラクターやハート、花柄などがプリントされており、その幼稚さがより一層恥ずかしさに拍車を掛けてくる。
―……早く元の世界に戻らなくちゃ……―
かなめは心の中で強く決心し直して恥辱に満ちた下着に足を通した。
辻本家リビングルーム
リビングのテーブルには既に里穂が座っており一足早く朝食に手をつけていた。
脱衣所で唇を噛み締めながら苦渋の表情で何年か振りかの紙おむつに足を通し、誰かに見られでもしないようにとかぼちゃシルエットのデニムとチュニックに着替えたかなめは自分の椅子へと座った。いつも自分が座る場所にあった椅子も子供用の座高の高いチャイルドチェアに代わっていた。
しかしそんな事よりかなめは自分の履いているカサカサとした履きなれない下着の感触に戸惑っていた。だがそれは事情を知らない人から見ればただの落ち着きの無い子供にしか見えない。
座ったかなめの前に母親が朝食を持ってくる、メニューは今までとあまり変わったところは見られなかった。
シーザーサラダに焼きたての食パン、サニーサイドアップとヨーグルトに牛乳。いつも通りの朝食だった。
「お姉ちゃんのときは夜もそんなに失敗してなかったのにねぇ」
「かなめは大器晩成型っていうの?きっと小学校を卒業してからメチャクチャ成長するタイプだね!」
「でも流石に入学して何回も先生を困らせちゃってからは登校拒否にならないか心配したわよ」
「あぁー……先月も私が迎えに行くまでビショビショのズボンで泣きっぱなしだったらしいし、でもどこの学校にもそんな子の一人や二人いるって」
「こういう時にパパが励ましてくれればいいのに、相変わらずカメラやら役者やらで帰ってこないし……」
「でも昨日、かなめと一緒に戌井様に会えて良かったぁ……あ、今日も会うんだった!かなめ!忘れちゃダメよ!」
「え!?あ……うん……」
二人が話す内容に対し目を丸くしながら聞きいていたかなめだったが、ここでの自分がどんな存在だったのかを少しづつ理解していった。
少なくともこの世界のかなめは、以前の自分と比べて手の掛かる子供だということも。
―……だけどどこか昨日までの世界と繋がっている箇所もあるみたい……戌井十夢と会ったことはこっちでも事実みたいだし―
「!?」
朝食を食べながら世界の繋がりを考えていたかなめが動きを強張らせた。それは一瞬口の中に粉薬でも含んだのかと思えるほど強い苦味だった。
―これって……ピーマン?―
あまりの味に飲み込むことができず、口の中から苦味の元をつまみ出してみるとそれは千切りにされたピーマンだった。
今までのかなめだったらピーマンは別に苦手な食材でもなかったし、食べられないという訳でもなかった。
しかし今口の中に広がった味は確かにピーマンでありながら、今まで味わったことの無い強い苦味を感じた。
何かの間違いかと思いもう一度、サラダを口に入れるがまた嫌な苦味が口に広がり飲み込むことを拒んでしまう。
―体質が変わっているかもとは思っていたけど……もしかして味覚まで変わっちゃってる!?―
確かに意識して食事に手をつけてみると甘みや苦味、香りに食感までが今までより少し変わっている気がした。
正確に言うとより敏感にそしてより極端になっているように感じた。そして苦手な食べ物に変わってしまったピーマンに難航していると母親から好き嫌いしちゃ駄目よと指摘され、返す言葉が無く俯いて苦味に耐えながら食事を無理やり喉に通した。
辻本家玄関
子供であろうと大人であろうと人は各々に義務を持ち合わせている。
それはどんなに嫌であろうが辛かろうがこなさなくてはならない。
例え中身が高校生であったとしても、その世界で小学生なら小学校に通ってみんなと仲良くお勉強をしなくてはならない。
最初こそかなめは風邪を言い訳にして欠席にしてもらおうかと思ったが母親にスグ仮病だと見抜かされてしまった。
かなめにとって今の自分と同い年ではあるが、1年生の児童と一緒に国語や算数を学ぶというのに大きな抵抗があった。
しかし何がきっかけで元に戻れるか分からない現状、少しでも多くの情報を得るためだと自分に言い聞かせ、重い気持ちになりながら学校に通うことにした。
―うっ……ランドセルってこんなに大きかったっけ……?-
かなめは数冊の教科書やノートと筆記用具が入ったランドセルを背負うと重さに少しよろけてしまった。
小学校1年生にとって六年間の成長を見据えた設計になっているランドセルは確かに大きく感じてしまう。
今のかなめの姿は誰が見ても身体のサイズと不釣合いでいくら標準サイズのランドセルでも背負ったランドセルがかなめの小ささをさらに象徴してしまう。
「代えの下着は持った?ハンカチとティッシュは大丈夫?名札もつけた?」
心配そうに玄関まで見送る母親を後にしてかなめと理穂はそれぞれの学校へと足を向けた。
「先生困らせちゃダメだよ?トイレに行きたくなったらちゃんと言うんだよ?忘れ物しないようにね?今日も戌井様に会いに行くんだから!」
「わ、わかってるってば……!!」
この世界では姉という立場になっている里穂も別れ際までかなめの事を気にしていた。
今まで妹としての里穂しか見たことのなかったかなめは立場が入れ替わったことに多少憤りも感じていたが、献身的な里穂の姿に若干ではあるが新鮮さも覚えていた。
公立の小学生は基本的に登校班と呼ばれる地域で数人のグループに分かれ学校に通うこととなっている。
―しょ、小学生の子たちってどんな風にコミュニケーションとってるんだろう……―
小学校には数年ぶりのブランクがあるかなめは流石に緊張を隠せないでいた。それは過去の1年生だったときの自分よりも、この世界の自分のほうがいろいろと劣っていることも関係していたし何よりかなめは自分のクラスメイトを誰一人知らないのだから当然といえば当然である。唯一の救いと言えば、昔に通っていた小学校と同じ学校に行くことだった。
―もし誰かに話しかけられたりしたらなんて言えばいいんだろう……?それよりみんな今の私についてどこまで知っているの……?―
様々な思いを巡らすかなめだったが、そんな心配をよそに集合場所に行き登校班が揃うと「おはよう」や「じゃあ行きますか」など簡単な言葉を交わし無言で歩き出した。
わずか四人のグループだったがかなめは一番小さく、おそらく班長だと思われる里穂と同じぐらいの身長を持つ男子の後ろを歩幅に苦労しながら着いていった。
―か、体が小さいと……こんなにも距離が違って見えるなんて……!―
学校までは家から一㎞もない近所だったが小さなかなめの体は重いランドセルも相まってまるで登山でもしている気分だった。
―はぁっ……歩幅が違うだけでこんなに遠く感じるなんて……そ、そういえば何で私、公立の小学校に通ってたんだっけ……ふぅ……中学は私立だったけど、うちの両親なら公立じゃなくて私立に通わせそうな気がしてたけど……小さいときのことだから思い出せない……―
昔の記憶をいろいろ思い出そうとしながらかなめは先を歩く男子生徒の後を離されないように必死に歩く速度を速めた。