かなめの部屋


 仕事の都合で父親が居ないがそれはいつものことだった。母親、妹、かなめという女性三人での食事が終わると、かなめは自分のベッドに倒れ込むように体を沈めた。
 仰向けに寝転がると理穂から貸してもらった戌井十夢が表紙を飾っている雑誌を開く。先ほど「明日会いに行くんだから前もって勉強しておいてね!」と無理やり里穂に渡された雑誌だ。
戌井十夢、年齢二十四歳。十八歳で舞台デビューをして二十一歳で新人俳優賞、翌年には主役を演じた映画「リバースワールド」が日本アカデミー最優秀作品賞に選ばれ一躍日本中にその名前が知れ渡ることとなる。
 近年では舞台や俳優活動のほかに声優や脚本、美術の世界にもチャレンジを試みている。
 しかし彼が異様に注目されているのはプライベートや友人、家族関係に至るまで情報が余りにも少なく私生活についても不明な点が多く、スキャンダルの影すら感じさせないところにある。逆にそういうミステリーで神秘的なところにひかれるファンも少なくない。
 演技力は愚か健康管理やファンクラブ活動、勉学に至るまで申し分の無い才能を発揮させている。
―なによ、これじゃあ完璧人間じゃない……ちょっと羨ましいかも……―
 かなめも世間一般的には完璧人間の部類に入るのだが、かなめは自分を普通の女子高生だと認識しているため本人による自覚がない。
―それにしてもこの顔……テレビや雑誌でよく目にするけど……何か気になるのよねぇ……―
 雑誌の中には中世的で艶やかな、しかし見方によっては男性的にも見える、まるで絵画の世界から抜け出してきたような美青年がカメラに向かって微笑みかけている。しかしそこにナルシズムや見下すといった思惑は感じられず、ただただ美しいとしか表現できない戌井十夢の姿が映っていた。
―会ったことないはずなのに……以前どこかで見たような気がする……どこだっけ?―
 かなめは頭の奥深くにこびりついている様な記憶の断片を引っ張りだそうとしたが、どうしても思い出す事は出来なかった。
 しばらく思い出そうとしていたが無駄だと気づくとスグに諦め勉強机に座って復習と課題を始めることにした。
「お姉ちゃーん、お風呂空いたよー!!」
 勉強も捗り少し疲れてきたところでタイミング良く廊下から里穂の声が響いてくる。わかったーと返事を返し脱衣所に向かうかなめの頭には先ほどまで思い出そうとしていた戌井十夢の事など綺麗に忘れさられていた。

 

某舞台事務所入り口


 翌日、学校が終わり日が沈みかける夕刻、そこには私服に着替えたかなめと理穂の姿があった。
 服装は清楚なボーダーニットとデニム姿のかなめ、その横で姉と手を握っている里穂は張り切ってきたのかコクーンシルエットのチェックワンピにタートルとどこか大人びた風貌から気合の入り方が伺えた。
 世田谷区と台東区の狭間にかなめと理穂の父親、辻本乱銅が勤める舞台事務所がある。
 一見すると三階建ての大きいエステクリニック、もしくはスポーツジムかと思わせる外観だが、中は見た目よりもさらに奥行きがあり広々とした空間が広がっている。
 入り口でかなめと里穂は父親、辻本乱銅のマネージャーに会い中に入れてもらうと、そのまま客間の様な部屋に通された。そして扉を開けたスグそこには父親と楽しそうに喋っている戌井十夢の姿があった。
「ひゃっ!!」
 自分の恋焦がれてた人を間の辺りにして里穂は思わず小さな悲鳴を出してしまった。
 緊張しているのか目の焦点も微妙に合っていない。頬もうっすらと赤らんでいる。
 乱銅が二人の姿に気づくと戌井を立たせ紹介させようとする。里穂は本当に倒れるかもしれないほど我を失い欠けている。
「おぉ、ようやく来たな!戌井君、この二人が私の自慢の娘だ!」
 口の周りに生えた無精髭が歪み満面の恵比須顔を浮かべる乱銅。
「どうもこんにちわ、戌井十夢と申します。お父さんの辻本監督には大変お世話になっております」
 綺麗な笑顔と透き通るような声を響かせながら戌井は二人に握手を求めてきた。
「はわわわわあああああ」
 もはや錯乱状態の里穂と握手を交わし次にかなめへと手を差し出す。
 平静を装っていたかなめであったが、本物の戌井十夢の持つ迫力に軽く目を潤ませていた。
「は、始めまして……辻本かなめと申します、父がいつもお世話に……」
「始めまして?」
 かなめが言葉を捜しながら喋っている途中で戌井は不思議そうに声をあげた。
「あ……な、何か失礼なことでも言いましたか?」
「あ、いやスミマセン、何でもないんです」
 戸惑うかなめにニッコリと戌井は微笑んだ。
 父親を挟みながらかなめと里穂は戌井といくつか言葉を交わし里穂にはその場でサインがプレゼントされた。
「あぁぁぁ……りがとぅ……ございましたぁ……っ」
 いつもの活発な里穂からは想像も出来ないほど大人しくなってしまい、かなめもこんな妹の姿を見るのは初めてで流石に驚いていた。
 他愛も無い社交辞令の一言一言に感動している里穂。そんな会話がしばらく続き。
「明日ここで舞台稽古があるんです、もし時間があったら是非見学に来てください」
「えぇぇぇ!!っはい!!絶対来ます!!学校休んででも来ます!!」
「いや、学校にはちゃんと行ってください・……稽古は昼過ぎから夜までやってますから」
「あ、ありがとうございます!滅多に経験できるモノではないので明日も是非とも見学に来させてもらいます!!地震が起きても津波が来ても来ますから!!」
「お父さん……里穂に何とか言ってあげたら……?」
 妹のあまりの興奮ぶりに少し引きながら父親に言葉を求めるかなめ。
「いやいや、これだけ好かれると流石に嫉妬してしまうなぁ……かなめも母さんに似て随分と……おっと、もうこんな時間か……二人共もう日が暮れるから、マネージャーに家まで送って行ってもらいなさい」
 かなめは興奮状態が続く里穂を宥めながら、戌井と別れの挨拶を告げ父親の指示に従うことにした。

 

某舞台事務所廊下


「やった!やった!どうしようお姉ちゃん……!戌井様と明日も会うことができるなんて……!もしこれがきっかけで友達として連絡先の交換とかしちゃったりなんかして!!」
 キャアキャアと叫ぶ妹をたしなめるようにかなめは語りかける。
「少しは落ち着きなさい……明日もそんなに興奮していたらドン引きされるわよ?」
「お姉ちゃんもあの戌井様に会ったんだから逆にもっと興奮するべきだよ!?そんなに冷静なのが信じれられないよ!!あぁでも戌井様もお姉ちゃんみたいな大人なタイプが好きなのかな?ほら、喋っているときも私よりお姉ちゃんを見ている時間の方が長かったし……でもそしたらお姉ちゃんと戌井様が付き合うことになれば私は義理の妹かぁ……それも悪くないかも!!あぁでもそれなら私もお姉ちゃんみたいになって付き合う方がいい!!」
 里穂はマシンガンの様に口から言葉を発射し続け、それを喰らったかなめは重い息を吐いた。
「はぁ……何があなたをそこまで熱くさせるんだかね……」
「ねぇねぇ!明日は何を着ていけばいいかな!?稽古の感想とか聞かれちゃったらどうしよう……!!」
「はいはい、お姉ちゃんはちょっとお手洗い行ってくるから先に外行っててね」
 かなめが脇のトイレに入っていったあとも里穂は一人でキャアキャアと騒ぎ、その声がトイレまで響いてきてかなめはげんなりした。

「あれ?かなめさん」
「ひゃっ!」
 かなめがトイレを出るのと同時に戌井が廊下から声を掛けてきたので思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
「あ、すいません先ほどは妹がいろいろと失礼な事を……」
「はははは、気にしないでください、それよりもかなめさんに一つお尋ねしたい事があって……」
「私に……ですか?……えぇいいですけれど、答えられる事でしたら」
 戌井は先ほどと変わらぬ美しい笑顔のままだ、しかし先刻まで客間で話していた時とは雰囲気が幾分か違っていた。そしてしばらくの間があった後。
「あの、かなめさんが今叶えたい願いはありますか?」
「は?」
 全く想定していなかった質問にかなめはポカーンと口をあけてしまった。
「あなたが叶えたい夢、願い事、願望……例えるなら、流れ星に願うようなな、そんな思いはありますか?」
「そんな急に言われましても…………願い事ですか……」
 かなめはしばらく真剣な表情で考え込み返答した。
「私は……今とっても恵まれています、家族に友達に環境に、そしてこの時代に生まれたことに……だから私が願うような事は思い浮かびませんでした……もし願いが叶うなら、そうですね……私の代わりに大好きな妹の願いを叶えてあげてください、きっとそう言うと思います」
 かなめは自分の言った答えに嘘はなかった。それは本当に心の底から思った回答だった。
「なるほど……こんな優しいお姉さんが居て里穂さんは幸せだ」
「そんな、家じゃ喧嘩もしますし姉として妹の事は心配して大切にするものですよ?」
「ははは、そうかもしれませんね、とても良い意見が聞けました、ありがとう」
 そういうと戌井は一言お気をつけてと言い残し廊下の先へと戻って行った。
 その場で立ち尽くすかなめは今のは一体なんだったのだろうと、しばらく動けないでいた。
―やっぱり人気のある俳優さんとかってああいう不思議で少し変な人が多いのかな……?―
 ゆっくりと外に待つ妹の方へ足を向けたが今あった事を里穂に話すとまた五月蝿くなりそうなので黙っていることにした。
 しかし、かなめは気づいていなかった。
 先ほど戌井からされた質問で自分でも気づかない程とてもとても小さく芽生えた意識に。
 彼女は人前で初めて「自惚れていた」ということに。 

 

辻本家リビングルーム


「それでね!?握手してくれたうえにサインまでもらっちゃったんだよ!?私の名前まで書いてくれて!!あの戌井様が私のためだけにしてくれたなんて!!」
「よかったわね、里穂ちゃんが戌井十夢の大ファンだったことをパパも覚えててくれたのね……だけど、お箸の手が止まってるわ、今は食事中よ?」
「けどね!けどね!戌井様が明日舞台稽古の見学に来ないかって言ってくれたの!?本当どうしよう!夢見たい!」
「食べるか喋るかどっちかにしなさいね、少しはお姉ちゃんを見習いなさい……ってお姉ちゃん?」
「え、あ、御免なさい聞いてなかった、どうしたの?」
「どうしたの、帰ってきてからずっとぼんやりとして?」
「あれだよ!きっとお姉ちゃんも戌井様のファンになったのよ!だって生で戌井様を見たのよ!?生でしかもお話することができたなら誰だってファンになっちゃうよぉ!」
 里穂の言うことはあながち間違ってはいなかった。かなめは帰り際、廊下で戌井に声を掛けられてから帰りの車内でも家に戻ってからも、彼の事が頭から離れなくなってしまっていた。
 昨日までは全然興味も持っていなかったのに今では戌井十夢の姿も声もあの優しい微笑みもふと我に返ると思い出していることに気がついていた。
 もしかすると極めて恋に近い感情なのかもしれなかったが、かなめにとっては何故彼の事がこんなに気になるのかと悩ませていた。
 そしてそれは昨日の夜にかなめが戌井の事を思い出そうとしていた気持ちと同じだった。
―明日、舞台稽古を妹と見学しに行ったらもう一度話をしてみよう、そしたら少しはスッキリするかもしれない―
 かなめはそう決意すると、いつもの様に食事も勉強も妹への相手も母への気遣いもそつなくこなし明日への高鳴る鼓動を感じながら静かに眠りに落ちた。
明日も変わらぬ恵まれた日常を与えられると信じ込みながら。


 その夜かなめは長い長い夢の中にいた気がした。
 寝ているのに意識はある、だが身体の感覚が無い。まるで体が液体か何かになって溶けてしまったような……意識だけが無重力の空間でさまよっているような……不思議な、だけどとても気持ちのいい永遠とも思える時間だった。

 

  

まえ                                             つづき