彼女は自分の人生が恵まれていることに気づいていた。
 確かに生まれ育った環境が周りの人達より恵まれていたことは確かかもしれない。
 だが彼女には愛すべき異性もいない、オリンピックで金メダルを取ったわけでもないし、ノーベル賞を受賞したわけでもない。
 家で母親の作った料理を食べ、妹と談笑し、父親と共に笑い、学校に行って勉強して、友達と遊ぶ。
 ただそれだけの繰り返しが彼女にとっては、至福の境地であった。他には何もいらないとさえ思えた。自分がこの世界に居れるというだけで幸せだった。
 息を吸うときも眠りに落ちるときでも瞬きをするだけでも、そこには何不自由ない生活があり。日々改めて彼女は自分が恵まれている存在だということを認識し、そして感謝していた。
 しかし、幸せであるが故その満ち足りた時に出来た染みが黒く滲み出している事に彼女は気づかなかった。いや、実際には気づけなかったのかもしれないし気づいていないふりをしていたのかもしれない。
 だが、いくら過去の過程を悔やんでも現在の結果が覆ることはないし未来は誰にも分からない。禍福は糾える縄の如し。

 

東京都文京区千駄木駅の近く。


 西日が彼女のシルエットを地面に映し出す。スカートからスラリと伸びた足、ブレザーの上からでも凹凸の分かるウエストと腰。胸は然程大きくないが形の良い膨らみだということが服の上からでも分かる。髪は色素が薄いのか西日で反射してチョコレート色に輝いており、光沢のある髪は肩まで伸び日本人にしては掘りの深い端正な顔立ちにより表情に影を作っていた。
 一見どこにでもいるような女学生だった、しかしそれが若さなのかスタイルなのか、あるいは黄金比的なバランスなのか分からないが彼女の姿はまるで完成された作品の様な雰囲気を身に纏っていた。
 辻本かなめ、それが彼女の名前である。都内の私立高校に通う十七歳の女子高生。映画監督の父に元女優の母、中学生になる可愛い十二歳の妹。勉強もスポーツもそつ無くこなし、同級生はおろか先輩後輩、教師に至るまで一目を置かれ信頼されている。
 かなめにとって与えられた環境は出来るだけ無駄にせず、それ相応の努力をするものだと幼い頃から思っていた。運動神経が良い体に生まれたならスポーツで発揮し、胸を打つような絵を描ける才能があればそれで皆を震わせ、高い知能を秘めているのであればそれを開花させるべきだと。
 人それぞれに与えられた肉体と環境で出来る最大限のパフォーマンスをしなくてはならない、自分は恵まれているのだから決して無駄にしてはいけないと常日頃から胸に秘め実行してきた。
 だが時に、彼女はまるで漫画に出てくる主人公だと周りは嫉妬と憧れの交わった声があがる。かなめは自身にとって至って普通に暮らしているつもりなのだが、その普通の日常が周りから見れば非日常ならば彼女を羨望の眼差しで見られることになる。そしてそれは時として告白や相談、またはスカウトという形で世界は彼女を放っておこうとしなかった。

 しかしそんな苦労を伴っても、今の生活を送れていることに彼女は度々感謝した。誰に感謝する訳でもなく、その一瞬一瞬の幸せを噛み締めこうして生きていける事に彼女は感謝し続けた。
 そして辻本かなめはいつもと変わらぬ学校生活を終え、家路につくのであった。

 家までの帰り道で彼女は学校で話していた内容を思い出しふふふっと可笑しそうな顔をした。
『きっと映画監督や女優の人が住む家って有名な建築デザイナーの人が構成した近代的で、でも街の景観を壊さないようにしてあって、キッチンやバスルームや家具にいたるまで洒落ていて、お高い物が普通に飾ってあったりするんだよ!』と、まるで実際に見たことがあるかのようなクラスメイトの話にかなめは笑いと呆れが重なった溜息を吐き出した。
―実際にそんな家に住んでたらテレビ番組のお宅訪問とかに出演できるのかな・・・?―
 そんなくだらない事を考えながらかなめは実際に自分の住む家にたどり着く。そして実際に映画監督や女優やその子供たちが住んでいるのは、町にひっそりと建つ高級でもないそこそこのマンションの一室だったりする。

 

 千駄木駅の周りには谷中霊園や日本医大、足を伸ばせば上野動物園や生地や布地の問屋街などがあり都内都外問わず人が訪れる地域でもある。
 そんな人がごった返す様な区域から少し外れた不忍通りと呼ばれる路地の裏道。町から隠れるようにしてそのマンションは建っていた。
 4LDKと少し広めの住まいにしっかりとした防犯設備。芸能人や大物歌手等は意外と隠れ家を兼ねてこういう質素な場所に好んで住んでいたりする。
 かなめがフロントでキーカードを指し暗証番号を入力すると、どうやら妹は先に帰ってきている様だった。音も重力も然程感じないエレベーターで上がり、自宅のドアノブを捻る。
 靴を脱ごうとしていると、かなめの妹が廊下から走ってきた。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!大ニュース!!大ニュース!!」
 妹の里穂はかなめより頭一つ程背が低い。どちらかというと細身に入る体系でもともと長い手足がより一層長く見える。マッシュルームボブの髪に、幼い顔に付いた大きな目がキョロキョロと動き、それが陽気さと可愛らしさを感じさせた。
「どうしたのよそんなに興奮して、ついに彼氏でもできたの?」
 こんな風に騒ぐ妹もかなめにとっては日常茶飯時であり驚きながらもまたか……と、かなめはうっすらと眉間に皺を寄せた。が、決して嫌そうではない。
「違うって!もはや彼氏が出来る出来ないなんて二の次なの!だって戌井十夢がお父さんの映画に出るんだよ!?」
「戌井……?あぁ!里穂のお気に入りの俳優さんか、良かったじゃない」
「違うの違うの!!あのね!?お父さんがね、明日の仕事場で戌井十夢に合わせてくれるんだって!!あぁぁどうしよう……!!!」
 里穂の顔がニヤニヤと崩れていき、体で幸せを表現したいのか自らの体を抱きしめながらクネクネと揺らしている。
「あらあらそれなら本当に良かったじゃないの、楽しんでくればいいじゃない」
「え?モチロンお姉ちゃんも一緒に来てくれるに決まっているよね……!?」
 キョトンとした顔で姉に尋ねる里穂。
「なんで私が付き添わなきゃいけないの?」
 満面の笑みで妹に即答するかなめ。
「えぇぇぇ!だってお姉ちゃんが一緒に居てくれないときっと倒れちゃう!戌井様を見ただけで感動して失神して昇天して天国に行っちゃうよ!!」
 見ただけで失神するならかなめがいてもいなくても関係ない気がするが……。
「私があんまりそういうのに興味が無いの知ってるでしょ……学校にだって親の仕事を話してないのに……」
「あぁーーー!そんな事言ったらお父さん泣いちゃうよ?娘たちのために一生懸命働いていたのに、かなめは人に教えられないような職業だと思ってたのかー!って」
「私はもっと静かに穏やかに暮らしたいの!お父さんの仕事が大変なのも知っているけど、芸能人は興味無いし会いたいとも思ってないの!」
「それでもお願い!!一生の内にある数え切れない内の一回でお願い!!横に居てくれるだけでいいから、お願いお姉ちゃぁん……!」
 顔の前で手を合わせ、猫なで声で頼み込む里穂。
「はぁ……全く仕方ないわね……いいけど、里穂も余り失礼の無いようにしなさいよ?」
「はぁい!ありがとお姉ちゃん!あぁ、私もお姉ちゃんみたいに大人な女性になりたいな!」
「はいはい、わかったわかった」
 かなめはこめかみを押さえながら、里穂は姉の腕にしがみ付きながらリビングへと足を向けた。

 

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