記録が残されていなかった政府の「原子力災害対策本部」の議事概要が作成され、緊急事態が宣言された去年3月11日夜の第1回の会議で「メルトダウンに至る可能性もある」という発言があり、政府が、事故発生直後から重大事故に至る可能性を認識していたことが分かりました。
政府の原子力災害対策本部は事故が起きた去年3月11日に設けられ、避難区域の設定など重要な決定を行ってきましたが、議事録が残されていなかったことが分かり、事務局の原子力安全・保安院が、当時のメモや聞き取りを基に議事概要を作成し、9日、公表しました。
それによりますと、当時の菅総理大臣が緊急事態を宣言した3月11日午後7時3分からの第1回の会議で、発言者は分かりませんが、「バッテリーで冷却装置が動く8時間を超え、炉心の温度が上がるようなことになると、メルトダウンに至る可能性もある」という指摘があり、政府が事故発生直後から重大事故に至る可能性を認識していたことが分かりました。
このとき政府は、まだ避難指示を出していませんでしたが、「10キロの範囲の人をどこかの時点で避難させる必要があるかもしれない」という発言もありました。
さらに翌日の12日昼すぎに開かれた第3回の会議では、当時の玄葉国家戦略担当大臣から「メルトダウンの可能性がある。避難地域は10キロでいいのか。考え直す必要はないのか」という発言があったと記されています。
当時、避難区域は原発から10キロの範囲で、その後、1号機で水素爆発が起きたあとの午後6時25分に20キロに拡大されていました。
ただ、公表された議事概要には、避難区域の見直しなどの重要な決定が誰のどのような判断で行われたのか、詳しい経緯は記されておらず、政府の意思決定の過程を検証することは困難な内容になっており、議事録を残していなかった政府の対応が改めて問われることになりそうです。
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