【東京】巨大な地震と津波が日本の東北地方沿岸を襲い、過去25年間で世界最悪の原発事故が発生してから11日でちょうど1年を迎えた。津波の被災地では仮の祭壇が設けられ、東京では政府主催の追悼式が行われたほか、反原発の抗議集会に多くの人々が集まった。
大地震と津波、そして原発事故という3重の災害は、多くの人々の人生を変え、全国の人々を内省に向かわせた。大きな被害を受けた東北地方や日本各地では、人々が追悼式典や追悼コンサートに参加したり、家族や友人と集まってテレビの特集番組を見たりして、3つの災害について思いをめぐらせた。
マグニチュード(M)9.0の地震が起こり、何百年で最大規模の津波が発生してからちょうど1年となる午後2時46分には、全国各地で黙とうをする姿がみられた。震災の死者と行方不明者の数は約1万9000人に上った。大半は沿岸地域を襲った巨大津波の犠牲となった。一部の電車は停止して、乗客に黙とうを呼び掛けた。街には半旗が掲げられた。
またこの日は、政治に無関心なことで知られる日本で、アクティビズム(政治に関わる活動)が見受けられた。主要都市では原発に反対する抗議活動が行われた。事故を起こした福島第1原発を運営する東京電力の本社前で行われたものもあった。主催者によると、東京で行われた主な抗議活動には約3万人が集まり、ここ1年で行われたデモで最大級の規模となった。
東京でイベントを主催した前北美弥子さんは「震災の犠牲者に祈りをささげるのは大切だが、祈るだけではこの国は変わらない」と述べた。
福島では、野球場で抗議集会が行われ、主催者によると、1万6000人が出席した。参加者の中には、原子炉のメルトダウン(炉心溶融)によって生活の糧を失った農業や漁業の従事者が多く含まれていた。
岩手県沿岸部の陸前高田市では、喪服に身を包んだ遺族が壊滅状態になった土地に花を手向けた。そこは1年前に愛する人々を亡くしたと思われる場所だ。陸前高田市では高さ15メートルの津波が襲来し、人口の約10%にあたる2000人を超える人々が亡くなった。
沿岸に近い同市高田町では、11日午前に法要が行われ、100人程度が集まった。参列者は祈りをささげた。僧侶も涙を流し、声が時折震えていた。
地元の小学校の外には、式典のための大きなテントが設けられた。近くには津波で壊滅的な被害を受けた高校がある。会場には喪服を着た人々が式典の2時間前から集まり始めた。
娘が行方不明のカノウ・タケコさん(67)は悲しみでいっぱいで、泣かずにはいられないと語った。気持ちが落ち着くのを期待して式典に訪れたという。カノウさんは娘はまだ見つかっていないが、これで一区切りついたように感じている、と話した。
震災から1年がたったが、その影響は今もいたるところで感じられる。東北地方では、約35万人が自宅から離れることを余儀なくされ、多くは狭い仮設住宅で暮らしている。中には職を失い、先が見えず希望を失っている人もいる。
福島の原発事故は原発から半径20キロメートルの警戒区域内とその周辺の町村を放射線でひどく汚染し、何万人もの住民に移転を迫った。政府は避難区域を3月末に見直す計画だが、一部の地域については何十年にもわたって住めなくなることを宣言する予定だ。
原発事故は日本の原子力に対する大きな安全上の懸念を生みだし、他の原発を一時停止に追い込んだほか、全国のエネルギー供給能力を大幅に減らした。これにより、家庭と企業は極端な節電モードになったが、このトレンドは今後何年間も日本経済に重くのしかかる恐れがある。
日本政府は東北地方の復興に20兆9000億円(約2500億ドル)を費やしているが、この額はポルトガルの1年間のGDP(国内総生産)に匹敵する。この支出は、主要国で既に最悪の水準にある日本の債務をさらに膨らませ、債務の持続可能性への懸念を大きくさせている。
11日は多くの日本人が亡くなった人々や失ったものについて思いをめぐらせた。
東京では政府要人ら1200人が参加して追悼式を行った。3週間前に心臓のバイパス手術を受けたばかりの天皇陛下も出席し、ゆっくりと、しかし明確で力強く、救助や救援活動などに働いた人々に感謝の意を表明した。
野田佳彦首相は、被災地の一日も早い復興を誓った。同首相は震災当時は財務相だったが、当時の菅直人前首相が政府の災害救援活動や原発事故の不手際で批判を受け退陣したのを受けて首相に就任した。
東京で行われたデモ行進には合わせて数万人が参加した。そのうちの一部は永田町の国会議事堂に向かい手をつないで人間の鎖を作った。一部の参加者は、福島を返せ、子どもたちの未来を守れ、と叫び原発の稼働再開に抗議した。