大津波発生からきょうまで書いた原稿を見返し、震災と無縁のものが1本もないことに改めて胸がふさぐ。程度の差はあれど、いずれも枕詞は「震災」。全国レベルでは報道されなくなってきていても、現地はまだ一歩たりとも、あの日から離れることはできない。
記事中で最も使用された単語を抽出すれば、「支援」「復旧」「復興」になるであろうことは疑う余地もない。
しかし、復興という語をあまりに安易に使いすぎてきたという反省も深い。自分自身にまだそんな実感もなく、違和感を覚え続けているからだ。
私たちはすぐ「明るいニュース」を仕立てようとしてしまう。仮設店舗のオープンを取り上げては「復興へ第一歩」、モニュメントが立てば「復興のシンボル」、頑張っている人を見れば「復興への希望胸に」。だが、こうした耳あたりの良い言葉は、被災地の立ち直りをかえって遅らせかねないという危惧がある。
仮設商店はどこまでいこうと「仮」のもの、それは“復旧”でしかない。二重ローンに苦しみながら、新たに安全な土地を見つけて購入し、店を建て…。住居の高台移転すらままならないのに、それは容易にかなうことではない。そうこうする間に人口は流出し続け、経済活動はどんどん停滞・縮小していく。
いま住民たちが恐れていることの1つは「復興したんでしょ?」と言われることだ。この言葉とともにあの震災が忘れられてしまう…そんな不安感が強い。また、被災者の必死の訴えが“甘え”と捉えられ始められている空気も感じる。
「津波で死んでしまえばよかったのに」「まだ支援が必要なのか」「震災乞食が」。ネット上にはこうした“憎しみ”が漏れ出している。
けれど国の対応スピードを見ていれば、人々に深刻さや悲惨さが伝わらないのも無理はない。到底、彼らが喫緊の課題に取り組んでいるようには見えないのだから。
視察に訪れた政治家が何人いたか、もう覚えていない。「〜したいとは思う」と逃げ口上でごまかすしか能がない人たちがどれほど来ようと、被災者を楽しませることもできない時点で、慰問の芸能人より無価値だ。
まもなく、再び3月11日を迎える。メディアでは大特集が組まれ、さまざまな催しも企画されているが、どこか冷めた目で見ている向きもある。
約2万人の命日であり、節目でこそあれど、同日を境に何かが劇的に変わるわけではない。その日付は、これから何年も先まで続く長い線上にある“点”の1つでしかない。「1年たった。少し歩を緩めようか」と、のんきに立ち止まっている暇などありはしないのだ。 =おわり
■鈴木英里(すずき・えり) 1979年、岩手県生まれ。立教大卒。東京の出版社勤務ののち、2007年、大船渡市・陸前高田市・住田町を販売エリアとする地域紙「東海新報」社に入社。現在は記者として、被害の甚大だった陸前高田市を担当する。