共通テーマ:
いわゆる「行動する保守」 テーマに参加中!
 最近多忙のために裁判の傍聴に行くことも、他人に依頼して傍聴記事を執筆することもできていない。つまり、裁判の傍聴記が中々執筆できない状況にある。そのため、新たな試みとして「裁判傍観記」を執筆することとした。「傍観記」とは、自分は裁判に行きもしないにもかかわらず、他人の傍聴記を分析したり、突っ込みを入れたりするという非常に悪趣味な記事である。

 その記念すべき傍観記第1回として京都朝鮮第一初級学校街宣名誉毀損裁判を取り上げる。よろしくお付き合いいただきたい。



「それらが終わり、西村父氏とブレノ氏の宣誓が行われ、そのまま西村父氏に対する尋問となる。

冒頭、原告弁護士より、この西村父氏に対する訴状内容は、ようは『学校周辺で街宣活動行う西村斉氏に車を貸すな』という旨が述べられる。

訴状を読めばわかるが、つまり、他被告らのように原告請求による賠償金が発生しない立場にあるのだが、これを聞いた徳永弁護士が、驚いたような仕草をした。どうも、他被告らと同じく賠償金を請求されているものと思っていたらしい。これには筆者もちょっと驚いた。今更何を言っているのだと。

在特会らによる朝鮮学校に対する襲撃事件裁判を支援する会(こるむ)

http://korum.seesaa.net/article/235180629.html

(第一請求の趣旨の2)

そういう訳で、西村父氏の尋問では、ひたすら『(自分は)免許を失効しており、西村斉氏が勝手に車をつかった。自分は西村斉氏の政治活動は知らない』という趣旨の証言を行っていたが、これは後の学校支援の報告集会で弁護団も報告していたが、免許がなければ好都合であり、車は必要ないに繋がる。ようは車を貸さなければいいだけの話で、何もこの西村父氏が他被告のように朝鮮学校に対するヘイト活動を行ったと言ってないのだ。

そのためこの西村父氏に関しては、事件の首謀者である西村斉氏が学校周辺で嫌がらせ活動のために、車を貸しださなければそれで終わりとなる。

原告側からすれば、この裁判の目的である他被告への損害賠償要件である嫌がらせ活動をやめさせる訴えが認められれば、それに付随して認められるものである。よってこの尋問は被告側からすれば『訴えられるものではない』という証言は、実は裁判としてはさして重要な話とならないのでここで割愛させてもらう。」

 arama氏はこれまでの言動から原告側の京都朝鮮学園にシンパシーを感じている者であることは推察することができるが、この記述はそのような感情が物事を正しく見ることができない原因となり得ることを示したものであると言えよう。

 証人尋問では様々なテクニックが必要とされ、そのテクニックを知っていなければ法廷で何が行われているか見誤ることとなる。例えば、証人が身振りで示した場合、尋問を行う側は「あなたは右手を上げて左手の方向に45°くらいの角度で振り下ろしたのですね。」とその身振りを言葉で念押しすることが必要となる。それは、どのような身振りをしたかを明確に証人尋問調書に記載させるためである。

 そして、arama氏の

「訴状を読めばわかるが、つまり、他被告らのように原告請求による賠償金が発生しない立場にあるのだが、これを聞いた徳永弁護士が、驚いたような仕草をした。どうも、他被告らと同じく賠償金を請求されているものと思っていたらしい。これには筆者もちょっと驚いた。今更何を言っているのだと。」

もまた、法廷で何が行われているのかを見誤ったものであると言える。それはなぜか。

 証人尋問の主尋問においては、尋問者が何を聞いて証人が何を答えるかは筋書きが決まっている。そのような主尋問で尋問者である徳永信一弁護士が驚いた仕草をしたのは、裁判官にそのやりとりを印象付けるために他ならない。徳永信一弁護士は何を印象付けようとしたのか。

 それは、西村斉氏の父親を被告としたことが権利の濫用であることを印象付けようとしたと考えるのが自然である。家族の間では自動車を貸し借りすることなど当たり前で、自分の自動車を家族が何に用いようが関知しないのが通常であろう。父親の自動車を息子が借りて故意に他人を轢き殺した事例を考えてみればよい。その息子の行為が殺人罪に問われることは間違いないが、余程の事情がない限り車を貸した父親に刑事上も民事上も責任が及ぶことなどあるはずがない。更に述べれば、親族間においては犯人隠避は処罰しないことができるし、親族間の窃盗では刑が免除されたり告訴がなければ犯罪が成立しなかったりする。京都朝鮮学園は、西村斉氏の父親に対して、息子に自動車を貸したことに違法性があると主張し、息子に自動車を貸すなと裁判所に命じるためだけに提訴し、被告として訴訟対応を強いている、それは何ら法に抵触する行為ではないが、その程度のことで民事訴訟を提起するのは権利の濫用ではないか、徳永信一弁護士が殊更に驚いてみせた原因はそのあたりにあることが推察される。

 感情や先入観があると見えるはずのものが見えなかったり、見えないはずのものが見えたりする。これは私見を述べようとする者が肝に銘じなければならないことであると言えよう。




世に広めるためクリックお願いします。

人気ブログランキングへ

よろしかったらこちらもクリックお願いします。

にほんブログ村 政治ブログへ


ブログパーツ