[ホーム] [管理用]
皇室全般画像掲示板
本文なし
壬生 天皇陛下の孫であるということを私が本当に意識したのはいったいいつの段階でだったんだろうと、考えてみますと、私の場合は母親が死んだときだったんではないかと思います。 母親が亡くなったのは私が小学校六年生のときでした。それまでは、陛下はほんとうに身近に感じていまして、基本的には普通の家庭にとってのおじいさんと同じようではなかったかと思います。特別なことは全然感じていませんでした。少なくとも、私にとっては、そうでした。 ところが、母親が死んだとき、まず世の中の反響の大きさに驚かされました。テレビでも新聞でも連日連夜のように報道される。ついでに自分たちのことも書かれる。なるほど、自分は陛下の孫という立場にいるのだなと認識したわけです。
東久逍 それは、私も同様です。まわりでそういうふうにいわれたり意識されるから、逆に意識してたんじゃないかと思います。要するに、知ってる方がおられたら、それを意識せざるをえない。ただ、小さいときには、ほんとうに一般の家庭のおじいさま、おばあさまと同じで、子供思いで、孫をかわいいと思ってくださるというふうにね。 もっとも、まだほんとうに小さい時分でも、御座所のなかでぴょんぴょん跳ねたりするわきまえないところはあったものの、一方で、陛下は陛下なのだという意識はあったような気もします。だから、おしいさまだからといって、喜んで首に抱き付くとかね、おねだりするとか、そういうのはしてはならないことと、われわれも心得ていたつもりでしたけれど。
壬生 それはわれわれだけではなくて、昔の威厳のある家長だったら、孫ごときが首に抱き付くなんてことはありえなかったんじゃないか。昔は現代のおじいさまとは違う存在ではなかったかと思います。 話し方ひとつにしても、われわれは陛下に対して、例えば「これ、なあに?」というようなくだけた調子では決してお話ししませんでしたけれど、それは、陛下だからというのではなくて、どこの家庭でも目上の人に対する話し方としてそうだったのではないでしょうか。東久逍 陛下は、われわれにとってはもちろん祖父、おじいさまであられて、といってただのおじいさまじゃなくて、やっぱり非常に尊敬に値する、かつ、すべてについて非常にお心を遣ってくださる、そういう存在でした。
壬生 ロンドンから帰ったとき、兄弟で吹上の御所に夕食にお招きいただいて、そのとき、どういう話の流れでしたか、「日英の親善のために、おまえは尽くしているのか」ということをいわれました。私は、仕事で赴任していましたが、そのときにはそういう国家レベルでの感覚がまったくありませんでした。ほんとうに、はっとする思いでした。そうか、陛下は、たえず世界の平和というものについて、念頭に置かれていたんだなあと思って。私なんかは、一私企業の一員ということで、そういうような感覚がなかったのを非常に反省しました。東久迩 ロンドンで私がいただいた手紙にも、「日英の親善に尽くしてください」と書かれていました。壬生 普通は孫と久し振りに会うといったときに、そうした話はなかなか出ないものだと思うのですが、そのときに陛下は全然違和感もなく言われました。陛下は、世界平和と国民の幸福をたえず思われていたと強く感じました。
「日英の親善に尽くしてください」!
壬生 はじめてお見舞いにうかがったとき、私が非常に印象的だったのは、陛下がたいへんお元気で、私には「ホテルの仕事はどうだ」というようなことを聞かれ、姉には「名古屋の生活には慣れたか」というようなことをいろいろ聞かれたことです。東久迩 ほんとうに、実際にお目にかかってみると、陛下はご心配申しあげていたよりもはるかに確かなご様子でいらして、私のほうにも「みんな元気か」とか「仕事はどうだ」とか、尋ねられました。壬生 おやつれになっていらっしゃるんじゃないかと思ってうかがったら、そうじゃなくてお元気で、逆にわれわれのほうを心配されて。東久迩 ベッドにこそ横になられたままでしたが、お元気でいらっしゃったころに久し振りにお目にかったときと少しもかわらないご様子でわれわれに対してご質問なさって。われわれのほうが、どういうお言葉を陛下に申し上げたらいいのか、かえって苦心いたしました。
東久迩 お見舞いにうかがっているときに、非常に印象的なことがありました。壬生 皇居の紅葉のことを非常にお心にかけていらして。御所の紅一果の話をさせていただいた。東久這 あの時期、ちょうど都内でも紅葉が非常にきれいに色づいてきたときでしたので、そのことを申し上げたら、「御所でももっときれいだよ」と。そして「梓の紅葉がきれいだよ」とおっしゃられました。壬生 陛下は御所のなかの植物が、いつごろ、何が、どこで、どのように色づくかを熟知されていらっしゃるのです。東久迩 もみじについては、もう一つ話があります。高円宮さまがお宅の紅かえでの枝を陛下のお見舞いにと皇太子さまにことづけられました。すると、「色が違うなあ」と、陛下がたいそうお喜びになられて。それを聞いたカナダ大使館が、あらためて紅かえでの苗を五本贈ってくださった。その苗を「大手門の脇に植えました」と、お側の人がご報告したところ、陛下は、「『皇居の植物』にぜひ入れるように」とおっしゃっていらしたということです。
壬生 『皇居の植物』は陛下の書かれた植物のご本としては六冊目にあたるのですが、ちょうど、もうすぐ出版される運びになっているところで、その出版のことを非常に気にされていました。東久迩 配布先は決まったのか、とか、気にされていました。壬生 そうした陛下のご様子は、ご病床にあられても、たいへんしっかりされていました。ご病人だとわれわれが意識しなければ、ご病人じゃないような。そのままでお声だけ大きくされれば、ご病人だという感じは受けませんでしたね。東久迩 ほんとうにお苦しみのないご様子でしたからね・・・・・・。あのとき、「ああ、いいな」と思ったのは、陛下のベッドの位置が、はじめは頭を窓際にしておみ足が室内の奥のほうに向くようになっていたのを、向きを変えて、頭を横にされると、外の景色がご覧になれるようにされたことですね。壬生 陛下は自然をたいへん愛されていらした自然のままの武蔵野に戻された御所のお庭をベッドから眺められるのは、きっとお慰めになったと思います。
東久迩 一月七日の早朝は宮内庁から最初にうちに電話がありました。われわれのほうも、電話があったら、危ない状態という覚悟のようなものはできていて、うちから他の兄弟に連絡して駆けつけることになっていました。壬生 最初は待機という連絡でした。東久迩 五時二十分ぐらいでしたか、待機の連絡があったのは。そうしたらもう一回電話がかかってきました。われわれが駆けつけたのは六時ちょっと過ぎぐらいでした。壬生 そうですね。赤坂見附を通ったとき、ラジオで六時の時報が流れていましたから、そのぐらいのタイミングでした。東久迩 「待機」という電話がかかったとき、「十分か十五分ほどしておいでください」といわれまして、バラバラに、おのおの馳せ参じたわけですが、うちが兄弟のなかではいちばん早く着きました。「何かあったときは半蔵門から入りなさい」といわれていまして。私はあそこからはめったに入ることはないんですけれど、自分で運転していきました。兄弟そろったところでご病室に入りお別れのご挨拶をいたしました。
東久迩 最期は、当時の皇太子両殿下はじめ皇族、子供、孫に見守られて眠られているようでした。壬生 その瞬間、これで昭和が終わってしまったのだということが頭のなかを過ぎていきました。
昭和天皇が愛した皇居の自然、そのど真ん中を切り開いて大豪邸を建てさせた嫁、美智子さん。