昨年3月11日、知られざる名演があった。東日本大震災が発生した夜、東京都墨田区のすみだトリフォニーホールで、新日本フィルハーモニーが新進気鋭のイギリス人指揮者、ダニエル・ハーディングを迎え、マーラーの交響曲第5番を演奏した。その夜の出来事をドキュメント仕立てで伝えるNHK総合「3月11日のマーラー」が10日午後11時、放送される。【高橋咲子】
番組は実際の映像と、ハーディングや演奏者、観客らのインタビューで構成される。「何度も余震が来たが、音楽の力で鎮められるんじゃないかと思った」「タイタニック号の中で演奏を続けた音楽家たちや、第二次大戦中に空襲の中で演奏会を続けたヨーロッパの人々のことを考えさせられた」。演奏家たちは、今までにない覚悟と緊張感のなかで楽器を持った夜を振り返る。
番組の飯塚純子ディレクターは、震災以降、音楽家らの来日が次々と中止になるなか、ハーディングと新日本フィルが6月にチャリティー演奏会を開催し、3月11日の夜にもコンサートが開かれていたことを知った。「ハーディングの心意気に感激して」取材を始めた。その中で、当日夜の映像をホールが定点カメラで記録していたことが分かった。
飯塚ディレクターはまず、演奏者93人にアンケートを実施。うち約60人から得た回答に目を通したところ驚いた。「どの方も言いたいことがあふれていた。ここに宝の山がある!と思った」と話す。
事務局は、ホールの安全が確認されたことなどから、演奏会を開くことを決定。チケットは完売していたが、この日来場することができた観客は客席1800に対しわずか105人だった。飯塚ディレクターは残っていた半券105枚を元に事務局を通じて観客に連絡をとり、話を聞いた。
105人の中には、約2時間半かけて会場にたどり着いた人、「(被災した人に)申し訳ない」と思いながら客席についた人もいた。余震の中で演奏を聴き続けた観客もまた、これまでにない心持ちだった。
飯塚ディレクターによると、あるスタッフは「封印された名演」と例えたという。仲間同士でも話をせず、スタッフも「あの日開催してよかったのか」と悩み続けてきた。コンサートに出掛けたことを誰にも言えなかった観客もいた。それでも番組は、コンサートが開催されたわずかな時間に意味があったと伝える。
マーラーの交響曲第5番についてハーディングは「(曲は)悲劇で始まるが、われわれを幸せで穏やかな場所へと導く」と語る。まさに、あの日の演奏にふさわしい曲だった。
毎日新聞 2012年3月8日 東京夕刊