原発事故で避難指示などの重要な決定を行った、政府の「原子力災害対策本部」の議事録が作られていなかった問題で、聞き取りなどを基に作成した議事概要が公表されました。
事故直後から政府がメルトダウンに至る可能性を認識していたことなど、当時の状況の一端がわかる一方、避難など重要な決定の詳細なやり取りの記載はなく、政府の対応を検証することが困難な内容になっています。
この問題で、政府の原子力災害対策本部の事務局を務める原子力安全・保安院は、当時のメモや聞き取りなどを基に議事概要を作成し、事故が起きた去年3月11日の第1回から去年12月26日の第23回までの76ページ分を公表しました。
それによりますと、菅総理大臣が緊急事態を宣言した第1回の会議では、発言者は分かりませんが、「バッテリーで冷却装置が動く8時間を超え、炉心の温度が上がるようなことになると、メルトダウンに至る可能性もある」という指摘があり、政府が事故発生直後から重大事故に至る可能性を認識していたことが分かりました。
その直後に開かれた、当時の枝野官房長官の記者会見では、メルトダウンの可能性への言及はなく、「放射性物質の漏えいはなく、直ちに特別な行動を起こす必要はない」などと説明していました。
混乱した避難を巡っては、翌12日昼すぎに開かれた第3回の会議で、当時の玄葉国家戦略担当大臣が「メルトダウンの可能性がある。避難地域は10キロでいいのか。考え直す必要はないのか」と発言していました。
当時、避難区域は原発から10キロで、その後、1号機で水素爆発が起きて、避難が20キロに拡大されていました。
さらに、14日朝の第7回の会議では、菅総理大臣が「避難は20キロで十分というのが専門家の一致した見方だ」と発言したのに対し、玄葉大臣が「違う専門家の意見もある」と発言していました。
しかし、玄葉大臣の発言がどのように扱われたのかなど、詳しい経緯は記されていません。
このほか、15日昼すぎの第8回会議で、枝野官房長官が放射線量について「せめて公表の5分前に知らせてほしい」とか、当時の片山総務大臣が「消防活動への要請も断片的かつ、子どもっぽい印象だ。実務的オペレーションの統率がとれていない。誰が中心になっているのか」などと発言し、事故から4日たっても、なお政府内で事故対応への調整がうまくいっていない状況がうかがえます。
ただ、今回公表された議事概要は、会議全体のごく一部の内容にとどまり、避難区域の見直しなどの重要な決定を誰がどのような判断で行ったのか、詳しいやり取りの記載はなく、政府の意思決定の過程を検証することは困難な内容になっています。
記録が残されていなかった政府の原子力災害対策本部の議事概要は、事務局を務める原子力安全・保安院が会議に出席した各省庁の大臣の発言をまとめた文書や、保安院の職員が残していたメモなどを基に、新たに作りました。
当時の枝野官房長官や、海江田経済産業大臣への聞き取りのほか、一部の会議については、保安院の職員が個人的に録音していたICレコーダーなどもチェックしたということです。
しかし、事故直後は切迫した状況だったことから、メモ類がほとんど残っておらず、事故から1週間程度の議事概要の内容は、それ以降の内容に比べて情報量が少なく、発言者が特定できなかった部分もあります。
議事概要をまとめた保安院の担当者は「事故から2、3日目の会議については、特に資料やメモを集めるのが非常に難航した。これ以上の作業を行う予定はない」と話しています。
公表された議事概要について、情報公開制度に詳しい名古屋大学大学院の春名幹男特任教授は「リアルタイムで記録されたものではなく、官僚や関係者が残したメモや記憶を基に再構成した文書だ。閣僚の発言を名前を記して記載している点は評価できるが、その後どう議論され、どうなったのか、詳しいことが記されておらず、非常に分かりにくい」と指摘しています。
また、先月公表された、福島第一原発の事故に関するアメリカ原子力規制委員会の議事録と比較して、「アメリカの場合は3000ページもあり、どう対応したかがよく分かる内容だったが、日本の場合は70数ページで、発言がどう行動に反映したかも分からない。国民の知る権利に応えるものになっていない」と批判しています。
そのうえで、「これでは説明責任が果たされたとは言えず、文書の基になった関係者のメモや電子メールなどを公表することも考えるべきだ」と指摘しています。
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