「収束」などしていない原発事故の処理、滅びることがファンタジーではい日本の現状 【文春vs新潮 vol.33】

      [2012/03/09]


    「収束」などしていない原発事故の処理、滅びることがファンタジーではい日本の現状 【文春vs新潮 vol.33】

    今週の週刊文春と週刊新潮。3.11が近いからか、東日本大震災や原発に関する記事が多い。文春は「東日本大震災365日『消えた事件』『消された叫び』」、新潮は「夜明け前の弔鐘」という特集記事をそれぞれが組んでいる。

    [文春] 「『原発廃炉』 40年後に待つ“地獄絵図”」を読んでいると、福島第1原子力発電所の事故が私たちの将来にどれだけ負担を強いるのだろうか、と空恐ろしくなる。その内容は、記事の見出しを箇条書きにするだけでもひしひしと伝わってくる。書き手は、原発事故を精力的に取材している東京新聞の原発取材班だ。

    「世界でも例のない廃炉作業」。これから行われる福島第1原発の廃炉作業は、世界のどこの原発でもやったことのないことなのである。核燃料の取り出し、原子炉の解体、そして放射性廃棄物の処理が終わって初めてその原発が「廃炉」ということになる。しかし、有名なアメリカのスリーマイル島原発でさえ、行われたのは核燃料を取り出すところまで。

    「今の技術では手も足も出ない」。廃炉作業のなかで「最大の難所は、原子炉を水浸しにして放射線を遮った上で、溶け落ちた核燃料を取り出す作業」だという。放射線の高さゆえに、その現場には人間が入れない。ゆえにロボットなどを使った遠隔操作で対処することになる。だが、日本では原発事故に対応できるようなロボットがまともに開発されてこなかった。その理由は、「事故は起きないと過信していたから」である。

    「高濃度汚染でロボットも死ぬ」。ロボットにはCPUという「頭脳」が搭載されるのだが、そのCPUは「人間と同じくらいの放射線量にしか耐えられないといわれている」。つまり、「人が死ぬような高濃度の放射線に包まれた環境では、ロボットも死んでしまう」のだ。官民の研究者が集う「対災害ロボッティクス・タスクフォース」が原発事故へのロボット活用を進めるべく活動しているが、核燃料の取り出しを具体化するためには、彼らの研究・開発の成果が上がることに期待するしかないようだ。

    そして、「費用1兆円はすべて国民負担」。内閣官房に設置された「東京電力に関する経営・財務調査委員会」の試算によると、福島第1原発の廃炉費用は「1兆1510億円に上る」らしい。ただし、上記で述べたようなさまざまなリスクを考えると、この費用は暫定的なものと言わざるをえず、実際には費用が膨らむことが確実視されている。その費用は、電気料金というかたちであれ公的資金の投入(=税金)というかたちであれ、私たち国民が負担することになる。

    くわえて、核燃料をはじめとする高レベル放射性廃棄物の処理に関しては全く見通しがたっていない。というか、低レベルの放射性廃棄物が付着したがれきの処理についても、今は中間貯蔵施設を設けて廃棄することが決まった段階で、最終的な貯蔵施設は決まっていない。いわんや高レベル放射性廃棄物をや、である。野田首相は昨年暮れに福島第1原発事故の「収束宣言」をしたが、収束はおろか、先の見通しもたっていないのがその実態なのであった。

    [文春] 「『3.11』が私の人生を変えた!」という著名人のコメントを集めた記事。注目したのは二人のコメント。一人目は、ブロードキャスターのピーター・バカランさんの「オンエアできなかった反原発ソング」。バカランさんはインターFMのDJをやっているのだが、事故直後にRCサクセションの「ラブ・ミー・テンダー」に多数のリクエストが来た。ところが、局は同曲の歌詞にある「牛乳を飲みてえ」という部分が「風評被害を広げかねない」といって、オンエアさせなかった。

    この件について、「牛乳からセシウムが出ていた頃だったから『風評』ではなく事実だった」とした上で、「やるべきことは、風評被害が出ないように正確な情報を流すこと」であり、「なんでもかんでも『風評被害だ』というのは、メディアの暴力だと思う」とバカランさんは述べる。

    もう一人は、演出家の鴻上尚史さんの「絆では何も救われない」。原発事故に直面した私たちに、「滅びることがファンタジーじゃなくなった」。そんな時に、「『ひとつになろう』とか『絆』とか、わかりやすさや単純さにしがみついても未来は見えない」し、「それでは慰められないと思う」と鴻上さん。

    今後は、「3.11とその後の世界を描く作品を作」る予定だというが、その作品に登場する「主人公の主婦は、夫と子供が行方不明のまま」であり、そんな彼女を癒やすものなどそう簡単には見つからない。少なくとも「単純な『頑張れ』や『未来は明るい』ではないはず」と鴻上さんは断言する。筆者も同感である。

    3.11から1年が経とうとする今、筆者がつくづく感じることは、被災者以外の人が「がんばろう」だの「絆」だのと発信していることに対する気恥ずかしさである。被災者支援でもっとも重要なことは、支援される側の被災者自身がどう考え、何を求め、どんな声をかけてもらいたいのか、ということであろう。にもかかわらず、被災していない世間の人たちは、「がんばろう」だ何だと自己満足の声をかける。

    そういう人たちが「声をかけることによって、寄り添った気になっている」とまでは言わないし、実際に気持ちを入れた上で被災者を励まそうとしている場合だってあるとは思う。だが、「がんばろう」などという人たちは、それを言われた人たちが置かれた状況をどれだけ知り、彼ら彼女らの気持ちをどれだけ考えているのだろうか。なかには「がんばろう」と言われて迷惑だと思っている被災者だっているのかもしれないのに。

    天災や戦災で被害を受けた人たちの心情は、複雑なものである。単純な気持ちや言葉で励ませばいいってものではなく、ときには現地の復興を心の中で祈るとともに、黙って見守ってほしい時だってあるのだ。震災後、そういう複雑さをショートカットして、単純な気持ちや言葉を平気で投げかけてしまうような状態に、日本はなっていたような気がする。そして、そんな状況に気恥ずかしさを感じていた筆者は、鴻上さんの言葉が心にしみたのであった。

    [新潮] 「『米長会長』セクハラ・パワハラ疑惑が噴きだした! 大荒れになった将棋連盟『月例報告会』一部始終」。米長会長とは永世棋聖の米長邦雄さんのことだ。そして、1月の月例報告会で中川大輔8段が「米長会長のセクハラ・パワハラ疑惑を暴露した」のだという。中川さんは「ある女性職員から、会長に言い寄られたと相談され」た。その後、「その女性職員を辞めさせなければ、君が辞めろ」と会長に言われた。

    結局、中川8段は理事を「一身上の都合で辞任した」ということにされ、うやむやなまま事態は収束に向かう。そして、ここからが笑えるところである。当の米長さん、今週号の文春の「阿川佐和子のこの人に会いたい」に登場しているのだ。記事の見出しが「女房が言ったんです。『あなたは勝てません。若い愛人もいない男が勝てると思いますか」というもので、これは先に米長さんが将棋ソフト(コンピューター)と対戦し、負けたことを前提にしたものだ。ようは、「今のあなたは全盛期のあなたとは全然ちがいます」と奥さんに言われたらしいのだが、新潮の記事を読むと「いやいや、そうでもないようですよ」と思ってしまう。

    [その他] 文春にも新潮にも、震災関連の写真がたくさん掲載されている。何が起きたのか。何が進行しているのか。何が変わったのか。これからどうすればいいのか。被災者の人たちはいま、どうしているのか……。一枚一枚の写真を見ていると、そんな思いに駆られる。立ち読みでもいいので、ぜひとも目を通してほしい。

    さて、今週の軍配は文春に。文春は脱原発、新潮は親原発。そういった姿勢がどんどん明らかになってきた。どちらがいいかは双方を読んだ上で読者が決めることであり、両誌の姿勢の違いは言論状況の健全さを表していると筆者は考えている。

    【これまでの取り組み結果】
    文春:☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
    新潮:☆☆☆☆☆☆☆☆


    (谷川 茂)

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