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抑も、創価学会員に於いて、我が日蓮正宗の法義に対して文句する元手は、その殆どが日蓮正宗の
上代、又は中代に於ける、枝葉末節の例外部分であり、後は該当する事項が御書に載っているか、
いないか、延いては、其のものズバリの文章が書かれているのか、いないのかを理由にして文句する
しかないのである。それはどういう事か、つまりは、其の元からして創価学会には『教義』というも
のが無いからであり、其の流布する処(ところ)は、須らく日蓮正宗の教義だったからである。
本より、御書に記(しる)されていない事目などは、多々在るのであって、抑も、大聖人の御本懐たる
御本尊の御図顕からして、其の一々などは御書に記(しる)されてはいないのである。
仍って『御書根本』などと云う謳い文句は、其の記(しる)されていない化儀化法に対しては、全くに
して無力なのである。さても『御書根本』などとは言っておるが、其の釈論は一体、どういう相伝を
以って示されるのか。
つまりは、本からして無教義の信者組織が、其の破門後に於いて、俄(にわか)に作成された教義教学、
つまりは、其の不相伝の教学を以って、示された諸御書の一文を解釈するしかないのであろう。
仍って、二箇相承の鑑定書を持って来い、と駄駄を捏ねる学会員や、御義口伝は二の次資料なとど疑
う学会員や、本因妙抄・百六箇抄をして偽書だ、と断定する学会員や、遂には日蓮大聖人は御本仏で
はない、などと云う創価大学の教授などが、ボロボロと出でくるのである。
して、これも皆、相伝の無い新興組織の証拠たる、鵺(ヌエ)現象なのである。哀。
恩師の肉声に云く『創価学会の信者なんてある訳がねーじゃねーか。みんな日蓮正宗の信者だよ。
創価学会に君らに信心してもらうものなんか何もねーよ!』と。
さても、記(しる)されていない化儀、又は、其の周知をして記(しる)す必要のない化儀、そして敢えて
記さなかった化儀。そして又、年代を重ねて行くごとに荘厳される化儀。
本より、お主ら新興宗教の輩(ともがら)に、理解出来る門義ではないのである。
日蓮大聖人に曰く『此の経は相伝に有らざれば知り難し』と。
加えて中興・日寛上人が曰く『口伝にあらざれば知り難し、師資相承故あるかな』と。
結句は創価、我ら、正統・富士門流に責められて、
『日蓮大聖人の仏法に、別してもへったくれもないんだよ!!』と、其の椅子を蹴飛ばして立ち去る
しかないてのある。哀。
『創価学会に信心してもらうものなんか何もねーよ』
応に此の一言が、創価学会の会長にして、まこと足し引きのない、恩師の偽らざる御指導なのである。
小笑。
『破門されたから、我らの教義を作りました。以後よろしく』
鼻笑。まこと、お目出度い連中である。
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