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津波 子供たちの生死・明暗を分けたものは何か?

「死にものぐるいで上に行け」 津波で74人死亡・不明 宮城・大川小の「あの時」
2011.4.15 00:16
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110414/dst11041419270052-n1.htm
sankei.jp.msn.com

 海抜ほぼゼロメートルにその学校はあった。北上川のほとりに立つ宮城県石巻市立大川小学校は、全校児童108人のうち、津波で74人が死亡・行方不明となった。学校にいて生還した教員は1人。この教諭や関係者の証言から当時の状況が明らかになりつつある。あの日、何があったのか。“その時”を検証する。

赤いランドセル

 「見つかったんだ! 見つかったんだ」。作業着姿の男性(44)は、泥まみれの赤いランドセルを抱きかかえ、その上に顔を突っ伏してむせび泣いた。

 行方不明の小1だった長女(7)のもの。大川小周辺の捜索で泥の中から見つかったと、捜索に参加していた男性に知らされた。ぺしゃんこにつぶれ、中には茶色く変色したノートが残されていた。

 「これまで娘のものは一つも見つからなかった。近くで娘が見つかるかもしれない」。そう言うとランドセルが見つかった場所に向かった。小4だった次男(10)も亡くした男性は強い思いを抱き、学校跡に通い続けている。

 「あの日、本当に何があったのか、知りたい」

止まったバス

 石巻市教育委員会では、学校にいた教員11人のうち唯一生存が確認された教務主任の男性教諭から聞き取りを行った。当時の様子を知る保護者ら関係者の話と合わせ、状況を再現した。

 5時間目を終えたとき、大きな揺れが襲った。子供たちは机の下にもぐり、校庭への避難が指示された。泣き出す子もいたが、女性教諭らが付き添った。学校前に自宅があり、同校に通う2人の孫を亡くした阿部文子さん(59)は「校庭に子供たちが整列しているのが見えた。ヘルメットをかぶっている子もいた」。

 校庭には、離れた地域の児童を送るためのスクールバスが止まっていた。「いま校庭に並んだ子供の点呼を取っているところで、学校の指示待ちです」。男性運転手(63)は運営会社に無線で連絡した。これが最後の通信。男性も津波で死亡した。会社側は「詰め込めば児童全員を乗せられただろう」としている。

 市教委によると、「津波の際、どこに避難するかは特に決められていなかった」という。

「上に、上へ!」

 男性教諭は、校舎内を確認しに向かった。ガラスが散らばり、児童を中に入れる状況ではなかった。校庭に戻ると、子供たちは他の教員に誘導され、裏山脇の細い農道を列を組んで歩き出していた。坂道を行くと校庭より7~8メートル高い新北上大橋のたもとに出る。教諭は列の最後尾についた。

 「ドンという地鳴りがあり、何がなんだか分からないうちに列の前から波が来た。逃げなきゃと思った」。教諭はその瞬間をこう証言したという。波は河口とは逆方向の橋のたもと側から児童の列の先頭めがけて襲いかかった。

 気づくと、裏山を登ろうとする児童が見えた。生い茂る杉で周囲は暗いが、ゴーという音で足元まで水が迫っているのが分かった。

 「上に行け。上へ。死にものぐるいで上に行け!」と叫んでいた。追いつくと3年の男児だった。くぼ地で震えながら身を寄せ合ったが、お互いずぶぬれ。「このままでは寒くて危ない」と男児の手を引き、山を越えた。車のライトが見えた。助けられた。

「山へ逃げろ」

 被害を免れた大半は津波が来る前に車で親が連れ帰った子供だった。しかし、他の児童とともに農道を歩きながら助かった5年の男児2人もいた。

 「山の中で『おーい』と人がいないか捜していると、弱々しい声で『おーい』と聞こえた。髪までぬれた男の子2人が斜面に横たわっていた」。裏山の反対側から駆け付けた石巻市河北総合支所の佐藤幸徳さん(51)は振り返る。

 「歩けるか」と声を掛けると、2人は「大丈夫です」と答えた。開けた場所まで行き、他の避難者たちとたき火をして一夜を過ごした。2人は「誰かに大声で『山に逃げろ』といわれた」と説明したが、言葉は少なく、ずっとうつむいていたという。

「ここに登れば」

 震災当時、学校を不在にして助かった柏葉照幸校長(57)も学校周辺での捜索を続けている。

 娘のランドセルが見つかった男性は捜索中、裏山を指しながら柏葉校長に疑問をぶつけた。「ここに登れば助かったんじゃないですか」。男性によると、柏葉校長は「そうですね。現場にいたらそうしたかもしれません」と答えたという。

 市教委は「想定外の津波だった。山が崩れる危険がある中、農道を行く以外に方法があったかは分からない」としている。



“避難まで30分校庭に待機”
NHK
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110603/k10013310671000.html
6月3日 21時0分

石巻市の大川小学校.jpg


巨大な津波によって全校児童のおよそ7割が亡くなったり、行方不明になったりしている宮城県石巻市の大川小学校で、児童らは教員に先導されて高台に避難を始めるまで、およそ30分、校庭で待機していたことが明らかになりました。津波にのまれながら奇跡的に助かった児童がそのときの様子を語りました。

石巻市の大川小学校は2階建ての校舎を超える高さの津波に襲われ、全校児童108人のうち、68人が死亡、6人が行方不明になっており、学校や教育委員会は当時の様子について、助かった児童や教員などから聞き取り調査を進めています。これまでの調査で、地震が起きたあと、校舎内からグラウンドに出た児童らは、学校から200メートルほど離れた高台に避難を始めるまで、およそ30分待機していたことが分かりました津波にのまれながらも奇跡的に助かった現在6年生の只野哲也くんは、父親とともにNHKのインタビューに応じ、「先生たちはグラウンドの前でずっと話し合いをしていた。そのとき、先生は『大丈夫だからな』とか言っていた」と話しました。当時、学校には子どもを引き取るため保護者も大勢集まっていました。さらに学校は石巻市が指定する避難所になっていたため、近所の人たちが避難してきており、グラウンドではたき火の準備も始められたといいます。そして、児童らが高台に向かって移動を始めた直後に津波に襲われたということで、そのときの様子を「様子を見に行っていた教頭先生が堤防から走ってきて、もう津波来てるみたいだから早く逃げてくださいって。そこから小走りに逃げた」と話しています。このあと、津波にのまれた只野くんは学校裏の山の斜面に打ち上げられたところを、近所の人たちなどに助け出されたということです。只野くんは今回の地震で同じ学校に通っていた当時、3年生の妹と母親を亡くしています。父親の英昭さんは多くの子どもたちが犠牲になった原因を知りたいとして、ほかの保護者らとともに学校に対して地震が起きたあとの状況や学校の対応について説明を求めています。大川小学校では、4日の夕方、保護者を対象にした説明会を開いてこれまでの調査結果を説明する方針です。


関 連
「学校前にバス待機」「全員が避難できた」 石巻・大川小
http://moe.b.to/twitter01/568




市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校
2011年3月29日17時6分
http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY201103290249.html
asahi.com

 岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。

 海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。

 「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。

 親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。

 平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。

 11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。

 市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。

 非常通路から避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。


防災の教え、命救った 釜石「津波てんでんこ」生かす 小中学生、高台へ一目散
03/27 06:55
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/dogai/281397.html
hokkaido-np

 東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。想定外の大津波が押し寄せる中、防災の教えが子供たちの命を救った。

 釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていない。11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。

 立っていられないほどの横揺れが生徒たちを襲った。1階にいた3年生の栗沢正太君(15)は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も非常階段を下りてきた。

 校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。

 子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動。学校から1キロも走っていた。

 教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人全員の無事が確認できた。その5分後、両校の校舎は津波にのみ込まれた。

 津波は地震発生後、いつ来るか分からない。教師の指示が遅れると、逃げ遅れることになる。釜石市内の小中学校は指示されなくても「とにかく早く、自分の判断でできるだけ高いところ」に逃げるよう指導してきた。

 釜石市は昭和三陸地震(1933年=昭和8年)やチリ地震(60年)などの津波で大きな被害を受けた。市内の各小中学校は津波を経験した高齢者の講演会などを開いたり、当時の映像を見せたりして津波の恐ろしさを教えてきた。釜石東中の場合、平均して週1時間を防災教育に充て、年3回避難訓練を行っている。

 市教委などによると、今回の震災で、釜石市内の小中学生2923人のうち、死者と行方不明者は5人。ほとんどが学校を休んでいた子供で、学校からの避難がほぼうまくいったことを裏付ける。

 一方、釜石港沖には2009年、マグニチュード(M)8・5の地震を想定し、高さ約6メートル、全長約1・6キロの防波堤が建設された。耐震性を増すなど最新の技術が駆使されたが、10メートル以上とされる今回の津波であっけなく破壊された。

 船や家を失い、避難所に身を寄せる漁業者からは「防波堤があるから、(津波対策は)万全だと思っていた」との声が多く聞かれた。釜石市の幹部は「津波対策は防波堤の建設などのハード面と、津波の恐ろしさを啓発するなどのソフト面があるが、今回の震災でソフト面の大切さを痛感した」と話している。 〈津波てんでんこ〉 岩手県大船渡市の津波災害史研究家山下文男さん(87)が、幼少時に父母が語っていた言葉を講演で紹介したことなどがきっかけで広がったとされる。「てんでんこ」は「てんでんばらばらに」の意。もともとは自分だけでも高台に逃げろという考え方を示すが、現在の三陸地方では自分の命は自分の責任で守れという教訓として使われている。

20110311釜石鵜住居小.jpg
さらに高台に避難する釜石東中生と鵜住居小学生ら。
約10分後、小中学校とも津波にのまれた
=3月11日、岩手県釜石市(住民撮影)




迫る津波…心支えた「ファイト!」 宮城・野蒜小
2011.4.30 23:42
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110430/dst11043023490029-n1.htm
sankei.jp.msn.com

 東日本大震災による津波が避難住民たちを巻き込んだ宮城県東松島市の指定避難所、野蒜(のびる)小体育館では、約20人が犠牲になった。あの夜、2階ギャラリーに逃げ込んだ約300人は救出を待つ間、足元に津波が迫る恐怖と寒さにうち震えていた。暗闇のなかで、避難者たちを勇気付けたのは一人の少女があげた「野蒜小ファイト!」のかけ声。別の児童が「ファイト!」と応じ、住民にもこだまが広がった。木島美智子校長(55)は「あの声に支えられた」と振り返る。

 体育館を津波が襲ったのは震災の発生から約1時間後の午後3時50分頃。体育館には学校に残っていた児童約60人を含め300人以上が避難していた。

 がれきとともに黒い濁流がなだれ込み、水かさが増す。木島校長もハンドマイクを持ったまま、津波に巻き込まれた。

 水位は一気に約3メートルまで上昇。2階のわずか10センチ下まで迫った。児童らは全員2階に避難していたが、グランドピアノや跳び箱とともに逃げ遅れた住民が渦に巻き込まれる光景を目の当たりにしていた。

 2階にいた先生たちは、卒業式に備えて張っていた紅白幕を引きはがしてロープ代わりに投げ入れ、何人も救出。木島校長も助け出されたが、10人ほどは浮いたまま動かなくなっていた。

 2階は児童や住民ですし詰め。ずぶぬれで救出された人の中には低体温症で息を引き取る人もいた。窓の外は吹雪だった。

 津波の恐怖と寒さに何時間も震えていた。「もう、駄目かもしれない」と思った瞬間、6年生の女児が暗闇の中で声を張り上げた。

 「野蒜小ファイト!」

 これを聞いた別の児童が「ファイト!」と返し、暗闇のなか、住民たちの間にも「ファイト!」の輪が広がった。数時間後に救出されるまで、その声援が互いを支え合った

 木島校長は「あの声に支えられた。まさか、あの状況の中、子供たちからそんな声が出てくるなんて…。うれしかった」と振り返る。

 体育館は市の指定避難所でもあった。木島校長は校舎の壁には亀裂が入り、倒壊する危険性があったと判断し、校舎ではなく体育館に児童や住民を誘導したという。今年2月のニュージーランド地震でのビル倒壊を思い出したからだ。

 野蒜小周辺は昭和35年のチリ地震津波でも被害が出ず、防災マップの浸水域からも外れていた。市内では同小体育館の他にも、複数の指定避難所で犠牲者が出ており、市防災交通課は「今後、指定方法については再検討しなければいけない」と話す。

 「3階建ての校舎に避難していれば犠牲者が出なかったのではないか」と非難を受けたという木島校長。「津波はここまで来ないだろうという過信があったのも事実だが、あの状況では最善の判断をしたと思っている」と話していた。

dst11043023490029-p1.jpg
野蒜小の体育館。ロープ代わりに使われた
紅白幕がギャラリーから垂れ下がっていた。



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