つなぐ 希望の木
災難を乗り越えてきた木々を、都内に訪ねた。
【放送芸能】今の子たちへ反戦託したい 杉田二郎デビュー45周年日本のフォーク界をけん引してきた杉田二郎がデビュー四十五周年を迎え、四月十一日にアルバム「戦争を知らない子供たちへ」を出す。自らメロディーをつけ、今も広く歌い継がれている名曲のタイトルに「へ」の一字を加えた。そこに込められた思いとは…。 (安田信博) 戦争が終って 僕等(ぼくら)は生まれた−「戦争を知らない子供たち」の作詞は、きたやまおさむ。京都のフォークサークル時代からの仲間で、ともに終戦翌年の一九四六年生まれ。七〇年に開催された大阪万博会場のアマチュアフォークコンサートのテーマソングとして作られた曲は、斬新な歌詞と軽快なメロディーで評判を呼び、翌年、杉田が結成した「ジローズ」がレコード化。ヒット曲に育てた。 「戦争を経験しない世代がいつまでも続いてほしい」との願いを込めて歌った。好意的に迎えられた一方で、大人からは「戦争を経験していない若者が生意気なことを言うな」、若者からも「戦争を知らないで済まされるのか」など容赦ない批判も浴びた。当時はベトナム戦争が泥沼化し、米軍出撃の前線基地だった沖縄・コザ市では、反米焼き打ち事件も起きた。学園祭では拍手と怒号が交錯し、演奏が中断することもたびたび。「賛否両論の渦に巻き込まれ傷つきました。きたやま君は、もう詩を書きたくないというところまでいったようです」 ベトナム戦争は七五年春に終結。その年の秋、「戦時体制の残り香があった」という沖縄市(前年コザから改称)のコンサートが転機となった。「ここでブーイングが起きたら、もう二度と歌わない」との悲壮な決意で臨んだが、勇気がわかず歌わないままステージを降りた。鳴りやまないアンコールの拍手。ステージに戻ると、今度は自然にフレーズが口をついて出てきた。客席の唱和と手拍子は、やがて大合唱に。感極まって声が詰まり、心の中で歌った。 その夜、精神科医としてロンドンの病院に勤務していたきたやまに手紙をしたためた。返事がきた。「二郎が逃げずに、堂々とあの歌を歌ってくれて本当にうれしかったよ」 × × × 同じ年の春、一年間の休業を終えてソロ活動を始めた杉田は、ロンドンのきたやまを訪ね、新しい曲作りを呼び掛けていた。医師に専念するつもりだったきたやまは、杉田と夜を徹して語り合い、その熱意にもほだされ創作活動を再始動した。ここから生まれた曲の一つが、男二人の変わらない友情を高らかに歌い上げたヒット曲「男どうし」である。 さかのぼれば、杉田が初めてきたやまの詩に曲をつけたのは六九年、「はしだのりひことシューベルツ」時代に手がけた「夕陽よおやすみ」。農場の過酷な強制労働に苦しむ米国の黒人奴隷をモチーフにした作品で、しみじみとしたメロディーに乗った「夕陽よお前もつかれたろ 静かにおやすみ」の一節が胸に迫る。「感性の鋭さ」に大きな衝撃を受け、「紡ぎ出す言葉」に深く感動した杉田は、自ら作詞することを封印した。 それほど大きな存在である“戦後一期生同期”の盟友からもたらされたのが「戦争を知らない子供たち」。詩をじっくり何度もかみしめ、作業に着手すると天から降ってきたように十分足らずでメロディーが完成した曲だった。 × × × 四十五周年記念アルバムは、きたやまとの共同作業で生まれた数々の楽曲を中心に十二曲を収録した。長い音楽活動を支えてくれたファンへの感謝の思い、そして感慨を伝える新曲「歌と 皆さんと その拍手」を含め、すべて生演奏をバックに新録音。作詞のきたやまが杉田に歌わせたかったという「帰って来たヨッパライ」も入っている。 「戦争を知らない子供たち」は、かもめ児童合唱団(神奈川県三浦市)の子供たちと一緒に歌った。「きたやま君も僕も六十五歳になった。あの歌のスピリットを今の子供たちに託したい、手渡したいと思ったんですよ。今回のアルバムでようやくそれが実現したんですね」 ※四月八日午後四時から、東京・千駄ケ谷の日本青年館で、杉田の歌、きたやまの話で構成する記念コンサート。かもめ児童合唱団も出演。(電)03・3478・9999。 PR情報
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