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【芸能・社会】

「3・11絶対忘れない」熊谷育美 ただがむしゃらに歩いてきた

2012年3月7日 紙面から

 2011年3月11日午後2時46分。宮城県気仙沼市在住のシンガー・ソングライター熊谷育美(26)は、地元の岩井岬近くにいた。リポーターで出演した地元テレビ局の番組のロケが終わった直後だった。立っていられない大きな揺れが襲った。スタッフと車で一目散に高台に上がった。振り返ると町が海水にのまれていた。まもなく辺りは猛吹雪になった。

 あの日のことは鮮明に思い出す。熊谷は「ただがむしゃらに歩いてきた1年でした」。被害を免れた自宅は小さな避難所となり、しばらく家族や知り合いなど十数人が暮らした。

 震災後は行方不明になった親族や友人の安否の確認などに駆け回った。歌のことは頭になかった。「精神的なショックが大きくて。歌のことは忘れてました。ピアノを弾こうとも思わなかった」。歌ったのは震災から約1カ月後。市内の避難所で高校生たちにせがまれて歌っていた。発売を控えていた新曲の「雲の遥か」。悩みながらも前向きに生きていこうという気持ちを込めて、デビュー前に作った歌だった。

 4月12日には震災後初めて東京でのジョイントライブに参加した。出演をやめようと思ったが、地元の人の声に押されてステージに立った。「生きているってことを歌を通じて伝えたかった。震災を境に人生観が変わっちゃって。生きていることはわかるけど、わけがわかんないままって感覚もありました」

 それからは避難所や各地の復興支援イベントに出演する日々が続いた。歌い、支援への感謝の気持ちは必ず伝えた。曲作りを再開したのは夏になって。「胸のモヤモヤを作品に吐き出したかったんですが、どうしていいのかわからなかった」。きっかけは元気に走り回る気仙沼の子供たちの姿だった。「子供たちも本当は辛い。大人の自分たちが悲しんでばかりじゃだめだと」。できたのは「僕らの声」。10月に発売したアルバムに収めた。

 この1年、「がんばっぺし!」「踏ん張っぺし!」。この言葉を地元の人々と何度交わし、励まし合ってきたか。そして「リスナーの一人として歌に本当に励まされ、音楽の力をあらためて感じました」。

 4日後の3月11日は朝、地元の情報番組に出演。その後は地元の追悼式に出席し数曲を献唱。夜は地元の仮設市場でのイベントに。そしてTBS系「朝ズバッ!」の特番に現地から出演、と終日震災関連の催しに参加する。

 街の復興は進むが、地元の人たちの心の復興にはまだ時間がかかる。そう実感している。「気仙沼から世界へ」をキャッチフレーズにデビューした熊谷。気仙沼を離れる気持ちはない。ここから歌を通じてメッセージを発信し続けるという。「私には気仙沼の風土、空気感が染み付いている。ここしかありません。気仙沼人の一人として、震災と向き合いながら前に歩んでいきます」と話した。   (安崎和司)

 ◆熊谷育美(くまがい・いくみ) 本名同じ。1985(昭和60)年5月24日、宮城県気仙沼市出身。中学生のころから故郷をテーマに曲作りを始めた。2009年「人待雲」でデビュー。翌年「月恋歌」が映画「TRICK・霊能力者バトルロイヤル」の主題歌に。包容力のあるやさしい歌声で人気。昨年10月にアルバム「その先の青へ」を発売。11日にCSTBSなどで放送される堤幸彦監督の復興ドキュメンタリードラマ「Kesennuma,Voices.」に主題歌「春の永遠」を提供した。

 ◆気仙沼市 三陸沖の豊かな漁場を背景に、三陸海岸南部の水産業や観光の拠点となっている。サンマのほかフカヒレ、もつが有名。東日本大震災では地震や津波、大規模な火災で大きな被害を受けた。人口は約6万9000人。3月5日現在の被害状況は、死者1032人、行方不明者324人(気仙沼市調べ)。

 

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