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南京大虐殺否認の動きを糾す

追いつめられた軍国主義

またぞろネガショニズム(歴史否認)の跋扈である。

南京大虐殺という歴史的事実をあえて否定しようとする名古屋の河村市長の発言が、国際的な波紋を呼んでいる。そして、翌日の石原都知事の、よくぞ言ってくれたといわんばかりの支持発言だ。

現実を見よう。こうした発言で、日中の友好親善は進んだのか。そうではない。これまでの貴重な蓄積を全く逆の方向へと見事に引き戻したのである。両国間に新たな火種を、両氏は生み出した。

私が最も驚愕したのは、件の河村発言が、こともあろうに表敬訪問してきた当の南京市代表団の面前でなされたということだ。これ以上の外交的非礼があろうか。

次に、石原氏である。

私は常日頃より氏の歴史観、とりわけアジアに関するもろもろの持論についてよく心得ていると自認する者である。氏の言論の自由のためには、たとえ私人・公人を問わずそれを守るにやぶさかではないが、かといって、石原氏のおしゃべりが自由だということと、南京事件という世界周知の厳然たる歴史的事実とは、次元が違う話ではないかと思う。

さすがに事実を完璧に覆い隠すことあたわず、彼らはついに姑息な手段に訴える。それはとても日本的な手法である。「さりながら、はてさて犠牲者数については検証不可能なり」と、こう来た。中国側の挙げる数はウソだと。

追い詰められた軍国主義者らは、こうして、ねちねちと、非本質的な犠牲者の数を問題にするのである。哀れ。今は亡き加藤周一は「ひとりでいいんです」(講談社)の71㌻で語っている。――「数を問題にするのはよくない」 なぜ彼らは、悠然と流れるアジア史、世界史を前にして、かくも、きかん坊のように発作的な反応を繰り返すのか。彼らがこれほどまでに歴史をせっせと塗り替えて、いったい何を望んでいるのか、それを真剣に考えてみよう。

河村や石原がここまで、炎のように、命をかけて守らんとするもの、彼らの言うところの国体なるものが何であるのかについて、私たち国民(国・社会をともに構成する民びとという意味で、国籍は別にして)は目を据えて、じっくりと眺める必要があるのではないだろうか。ニッポン国家主義なるものについて。

太陽がまぶしいからと手でさえぎったとして、それで、太陽の存在が消えるというものではあるまい。

私はこれまで、在日コリアンとして、やれ日本軍「慰安婦問題」の否認だ、やれ高校無償化からの除外だとか、何かと人間としての基本的権利における差別待遇には馴れているが、それだけに、こうした愚かなる日本の政治家の発言にほとほと嫌気がさすのである。

それにしても、こんな人たちをリーダーに戴いているニホン国って、いったい何? 実に不思議な国だ。世界史の事実を全く知らない人を指導者に選ぶのだから。何をやらかすかわからない、謎の国だ。ヨーロッパ生活をほどほどに経験し、各国・各民族文化に長年触れてきた者として、この日本の幼稚さに、私は、あきれてしまった。(高演義、朝鮮大学校客員教授)

( 朝鮮新報 2012-03-06 11:33:26 )