■3月12日
ヨッシーランドに残った職員は早朝から、利用者の安否確認や家族への連絡に追われた。「家族が怒っています。すぐに来てください」。大町病院に詰めていた介護長の大井に職員から連絡が入った。9人の遺体が一晩、ブルーシートの上に横たえられたままだった。すぐに現場に向かった。「冷たいシートの上で申し訳ありません」。家族に何度も頭を下げ、ティッシュで遺体の顔の汚れを拭き取った後、消防団などの車で安置所に運んでもらった。
【午後3時36分、福島第一原発1号機で水素爆発】
【午後6時25分、半径20キロ圏内に避難指示】
1号機で水素爆発が発生した時、大井は原町高体育館に設けられた遺体安置所にいた。家族に死亡した経緯を説明したり、行方不明の利用者がいるかどうかを確認したりするのに懸命で、爆発を知っても逃げようとは思わなかった。
「夜勤者が来ません」。受け入れ先の1つになっていた養護老人ホーム「高松ホーム」【地図(4)】の待機職員から連絡が入り、高松ホームに応援に入った。
夜勤中、ラジオが原発事故の深刻な状況を伝え、避難を呼び掛け続けていた。「避難した方がいいのではないか」。高松ホームに詰めていた職員に迷いが生じた。利用者約20人を再避難させようと、荷物を車内に運び込んだが、ガソリンは底を突いていた。行くあてもなく、諦めた。
■3月13日
家庭の事情などから避難する職員が増え始め、人手が足りなくなった。受け入れ先を5カ所から4カ所に減らして利用者の介護に当たった。
■3月14日
【午前11時1分、3号機で水素爆発】
原町区の特別養護老人ホーム「福寿園」【地図(5)】に身を寄せる利用者を介護していた職員2人が市外に避難することになった。いずれも子育て中の母親だった。
介護長の大井は午後3時から午後9時ごろまで福寿園で勤務した後、大町病院に戻った。
原発の状況は一段と悪化していた。相馬市に避難していた長男から夜、メールが届いた。<今すぐ逃げろ>。大井は返信した。<(利用者や職員を)置いては行けない。みんな助かってね>
■3月15日
【午前6時ごろ、4号機で水素爆発】
「いつまで施設を維持できるのか」。福寿園施設長の坂下昌弘(64)は残り2日分ほどになった食材を確認し、険しい表情を見せた。相次ぐ原発事故で物流は完全に止まり、約100人いた入所者の食事を1日2食に減らすしかなかった。オムツや薬も品薄になり、5人ほどいたヨッシーランドの利用者は夕方、大町病院に移った。
■3月16日
介護長の大井はこの日、特別養護老人ホーム「竹水園」【地図(6)】に避難した利用者を含め十数人の介護に当たっていた。4号機では2度目の火災が発生した。この先、どんな事態が待ち受けているのか、予測が付かなかった。夜、福島市に避難できることを竹水園側から聞かされ、「助かった」と初めて思った。
■3月17日
夕方、竹水園に観光バスが到着後、大井や竹水園の職員は利用者を抱えて乗せ、受け入れ先の福島市の特別養護老人ホーム「なごみの郷」に向かった。全員が無事到着すると、大井は安堵(あんど)で胸が詰まった。
■高齢者施設 早期避難義務化を
大町病院などに分散していた他の利用者は現在、会津若松市や栃木県内の施設などに避難している。
介護長の大井は昨年4月、ヨッシーランドの利用者が身を寄せる「なごみの郷」の介護職員になった。事務長の小林は津波の恐れのない別の土地に施設を再建する準備を進めている。
震災から11カ月以上が経過した今も、ヨッシーランドの壁には津波の爪痕が色濃く残り、施設に設けられた祭壇には供物が絶えない。
大井は「職員だけで対処するのは困難だった。行政や地域と一体で災害対策を講じなければ、悲劇を繰り返す」と振り返る。
南相馬市は大津波を想定したハザードマップを見直す予定だ。自力の避難が困難な高齢者や入院患者がいる施設の避難誘導の在り方も検討している。
防災などが専門の関西学院大の室崎益輝教授(67)は津波の発生が懸念される場合、高齢者らが入所する施設に対し早期の避難を義務付ける必要性を説く。「避難訓練で無理のない避難計画かどうかを検証し近隣住民やボランティアの協力も得る。バスなどの大量輸送手段も常時確保するべき」とも提言する。