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【芸能・社会】

「3・11絶対忘れない」中村雅俊 石巻日日新聞ドラマきょう放送

2012年3月6日 紙面から

石巻高校への通学に使った女川駅や線路は跡形もない。「終着駅だったし、JRはもう造ってくれないかもしれない」と話す中村雅俊=東京・用賀の事務所で(神代雅夫撮影)

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 東日本大震災から間もなく1年。復興に向けて、まだまだ問題は山積するが、人々の歩みは日々力強さを増している。これまで芸能界からも多くの手が差し伸べられ、支援の輪を広げてきた。きょうから5回にわたって、被災地出身の芸能人に、あらためて故郷への思いや今一番訴えたいことなどを語っていただく。1回目は、宮城県女川町出身の中村雅俊(61)−−。

 「おせどぉ(遅いぞ)、今ごろ来て」。支援物資を積みレンタカーでやっと女川入りできた4月14日。避難所にいたおばちゃんに、いきなり叱られた。「でも、それが妙にうれしくってね」。先月27日、仙台で行った復興支援イベントのステージで当時の心境を話すと、宮城県内の人たちで埋まった客席で多くの人がうなずいた。

 親しみがあるからこその叱責。不自由な生活を強いられた人たちは、もちろん大喜びで地元が生んだスターを受け入れた。

 “その瞬間”は、東京都内の京王線・東府中駅のホームで三宅裕司とドラマ撮影中だった。停止した電車の中にいたが、ホーム上方には工事用の鉄骨が積まれていて、崩れ落ちれば危険にさらされるところだった。

 女川の友人と連絡がとれたのは3日後。自宅の屋根に上がったまま家ごと3キロほど沖合まで流され、漁船に救助された男性のことをニュースで見た娘から聞かされた。それが同級生の小野寺武則さん(60)だった。「仙台に避難したタケノリから電話がかかってきて、“死ぬかと思ったよ”って。かなりの恐怖を味わったと思う」

 すぐに友人らと復興委員会を立ち上げ、被災を逃れた万石浦のかまぼこ工場経営の友人宅を拠点に支援活動を始めた。呼び掛けて集まった義援金約1000万円を基にトレーラーハウスを購入して女川町に寄贈。図書館になったり映画の野外上映もできる。好評の声を聞きつけたユニセフが、2号車、3号車を寄贈して続いた。

 女川で育った18年。「いた時は、この町を出なきゃと思って実際東京に出たわけですけど、空気はうまいし、水や魚はおいしいし東京にないものが全部ある。(自分の中に)後天的に形成されたものの中にも、女川で作られたものが多々あるんだなと、あらためて思います」

 6日に日本テレビ系で放送されるドキュメンタリードラマ「3・11その日、石巻で何が起きたのか〜6枚の壁新聞」(午後9時)で、被災直後、手書きの壁新聞を発行し続けた石巻日日新聞の社長役を務めた。「近江社長は石高の後輩。地元の人間がやることで説得力があると思うし、ドラマは全国の方に忘れさせないという意味もある」と話した。

 今後も長丁場を覚悟の上で、被災地とつながるつもりだ。「皆さん前向きだけど、被災地ではただ生活してるだけの方も多い。国や行政が早く優先順位を決めてやってほしい」と注文をつけた上で、「楽しい時間を過ごすのも大事。石高や石巻赤十字病院でもライブをやりたいんだよね。消防署や警察署で心労の重なった人もいる。そういうところでもやりたい」。

 宮城県栗原市出身の人気脚本家・俳優の宮藤官九郎と歌う「予定〜宮城に帰ったら〜」は、期限なしで有料配信(420円)を続け、収益は全額宮城県に寄付する。 (本庄雅之)

 ◆中村雅俊(なかむら・まさとし) 1951(昭和26)年2月1日生まれ。宮城県女川町出身。石巻高校卒、慶応大学卒業後、文学座に入団。1974年日本テレビ系「われら青春!」の主役に抜てきされ、翌年の「俺たちの勲章」「俺たちの旅」で不動のスターに。「ふれあい」は100万枚ヒット。名誉館長を務めるマリンパル女川は、再開のメドがたっていない。

 ◆女川町 牡鹿半島の根元、リアス式海岸の天然の漁港に恵まれた土地。カキ、ワカメの養殖のほかサンマの水揚げは全国有数。女川原発が、一時避難所になる異例の事態になった。人口約1万人のうち約800人が死亡もしくは行方不明になった。

 

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