悼むということ
3月6日になった。
3.11まであと五日間。
巷の「放射能論議」もいいのだが、この五日間は私たちにとって特別な「時」になると思っている。
私たち被災者ではない人間も、その時間を震災で亡くなった多くの方々を悼むための準備に使うべきではないだろうか。
私は、震災時の津波の動画を見るのが嫌である。
あれを見ると、動悸が増し胸も痛くなる。
動画では確認できない沢山の犠牲者の方々が、その津波にのみこまれているかと思うともはや直視できなくなる。
残るのは恐怖心だけだ。
「悼む」というのは、当時の状況を振り返ることでもなければ、改めて「可哀そうに」とシンパシーを持つことでもない。
天童荒太の『悼む人』を読むと、悼むとは「その人の人生を心の中で追体験すること」であるとわかる。主人公は「心の中で」ではなく、実際に追体験していくのだが…。
私たちは震災で亡くなった方々の名前も顔も殆ど知らない。
しかし、どんな形でもいいから、一人でもいいからその犠牲者の方の人生がどのような人生だったかを知り、その人が過ごした時間、愛したもの、心に抱いた感情、交わした言葉、そういった様々なものを追体験していくことが生き残った私たちにできる事ではないだろうか。その人のことを「考える」ということが供養にもつながると私は思っている。
それは、親類、縁者にしかできないものではなく、やろうと思えば日本中の国民ができることではないだろうか。その人の人生のほんの一部にすぎないが、情報はインターネットでも探すことができる。それを心に留め、少しでもその人の人生を追体験できればそれは素晴らしいことだと思う。
その人を知り、何度言っても言い足りない「さよなら」を心につぶやくことを「悼む」というのだ。
「一分間黙祷」というのは「悼む」ことにはならないだろう。
儀式の一つだと思う。
悼むには時間がかかる。
この五日間くらいは放射能論議は横に置いといていいんじゃないか。
日本国民にとって重要な心根が試される日がやってくるんだから。
「亡くなった人のことはどうでもいい。生きている人間の放射能被害が心配だ・・・。」
そんな考えの日本人が少数派であることを祈りたい。
3.11は朝から津波の映像がTVから流れるだろう。
また、デモや講演会が各地で行われるに違いない。
すでに亡くなられた方々にとってそんなことはどうでもいいことなのだ。
だからその日はそんなものは一切気にせずに、私は「その人」の人生を想像し、悼みたいと思っている。
3.11。
この日は被災地ではない地域の人間にとっても大切な日である。
私たちの人生で最も厳かな日であることを望んでいる。
時間があったら、『悼む人』を読んで下さい。
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コメント(3) ※投稿されたコメントはブログ開設者の承認後に公開されます。
はい。
ヤクモクでいいですよ。(^_^)
2012/3/6(火) 午前 3:31 [ ヤックんモックん ]
ヤクモクさん、ど〜も〜。
以前好きだったぬいぐるみの「フモフモさん」に似ていてこの略し方好きですね〜。
ありがとうございます。
2012/3/6(火) 午後 8:04
2012/3/6(火) 午前 6:32さん、大丈夫ですよ。
気にしないでください。
逆にあなたを巻き込んで申し訳ないと思っています。
これに懲りず今後もよろしくお願いいたします。
2012/3/6(火) 午後 11:36