福島第一原子力発電所から半径20キロ圏内の警戒区域と
飯館村など計画的避難区域は今も人が住めない状態が続いています。
避難をしたまま、自宅での生活を再開できないでいる人たちは
およそ8万7千人に上ります。
原発事故によって多くの人が住む家を追われる事態が26年前にもありました。
旧ソ連のチェルノブイリ原発事故です。
1986年4月、点検作業中に原子炉が暴走し爆発を起こしました。
この事故でおよそ40万人が自分の住む場所を追われたと言われています。
ウクライナの首都、キエフから北へ車でおよそ2時間。
チェルノブイリの立ち入り制限区域に着きました。
事故があった原子力発電所の周辺およそ30キロの圏内は
今も厳しい管理体制のもとにあります。
4号炉は石の棺と呼ばれるコンクリートの構造物に覆われていますが、
今も収束作業が続いています。
現場では、事故はまだ終わっていないのです。
原発から4キロ離れたところにある町、プリピャチ。
原発で働く人たちが多く暮らしていましたが事故のあと、
すべての住民がよそへ移住しました。
制限区域内を案内する政府機関の職員、ウラジミル・ヴェルビトスキーさん。
以前は原発の技術者でした。
この集合住宅で育ち、結婚して新居に移った後も
妻と一緒によくこの実家を訪れていました。
事故の時もこの部屋にいて、未明にあった原子炉の爆発の音を聞いたと言います。
「雷だと思いました雨がもうすぐ来るのかなと」(ウラジミルさん)
朝になって、ウラジミルさんに事故の連絡が入りました。
すぐに原発の様子を見に行ったあと、家族に避難の指示について知らせました。
まもなく女性・子ども・高齢者から避難がはじまりました。
やがて町は廃墟となったのです。
「私はここに、わりとよく来ます。ガイドだったり、仕事だったり
しかし母は『私は行けない。行ったら心臓が止まってしまう』と言います。
多くの人はそうなんです。」(ウラジミルさん)
家財道具は、放射性物質による汚染があるため持ち出しが禁じられ、処分されました。
事故の後は、事故処理に携わりました。
がんで亡くなる同僚も少なくありませんが、
今も政府の仕事を通じ原発に関わって生きています。
「私の同い年の50歳の同僚では10人中4人が亡くなっています。
私の課題は信用に耐える情報をお話しすることです。
課題と言うより義務です。」(ウラジミルさん)
地域の学校を訪れました。
教室には朽ちかけた、いすや机が今も並んでいます。
かつては小学校から高校までの一貫校でした。
1000人以上いた生徒たちが原発事故の日を境に来なくなって26年が経ちました。
図書室には棚から崩れ落ちた本が散乱しています。
事故があった1986年で、時間が止まっているようです。
プリピャチの町は当時のソ連が原発の建設とともに開発しました。
国も住民も原子力によって開かれる明るい未来を信じていたのです。
事故当時の人口はおよそ4万5000人。
この町が以前のにぎわいを取り戻すことはありません。
旧ソ連国内に広がったチェルノブイリゾーンと呼ばれる汚染地帯は、
ソ連崩壊後はウクライナ、ベラルーシ、
ロシアの3カ国にまたがることになりました。
ベラルーシのこども健康回復センター。
チェルノブイリゾーンの外に建てられた施設で、
子どもたちが、集団生活を送りながら、健康チェックなども行えます。
チェルノブイリゾーンに住む子どもたちは年に一回、
ゾーンを出て、こうした施設で転地療養を行うことが決められています。
「チェルノブイリについて何か知ってますか?」(記者)
「事故があったこととか人々が被害にあったこととか…」(少女)
「学校で放射能について教わる?」(記者)
「うん、映画をみたよ。チェルノブイリに関する映画をね。」(少年)
多くの子供たちにとって、原発事故は大人に教わる
歴史の1ページになっています。
しかし、センターの副院長はチェルノブイリゾーンの
子どもたちに免疫低下の傾向があると指摘します。
「子供の免疫低下とチェルノブイリゾーンは密接に関連しています。
しかし研究はまだ十分ではありません」(副院長)
ミンスクに住むスベトラーナ・ロゴジッチさん。
半年前に二男を出産しましたが、出産前の検診で自分自身に
甲状腺がんが見つかりました。
医師は原発事故による何らかの被ばくが原因だと指摘しています。
出産後に甲状腺の摘出手術を受け、今は母子ともに元気です。
「がんを抱えたままの出産は不安でした」(スベトラーナさん)
「妻を失うのではと不安でした」(スベトラーナさんの夫)
被ばくが原因となるがんは、何年もたってから現れてきます。
原発事故による健康被害を、今も時限爆弾のように抱えている人がいるのです。
ウクライナにプリピャチに住んでいた人たちのグループがあります。
多くは原発で働き、事故処理に携わった経験もある人たちで、
当時のことを語り合っています。
「私たちまるで昨日のことのように思い出しています。
忘れられないことなのです。
それに、この世を去った人もたくさんいます。
その人たちのことも、いつも思い出しています。」
「帰りたいですか?」
「もし可能なら帰りたい。新しい街で、きれいで、なんでもありました。
仕事もあって休暇も楽しかった。ここは違う。病気もあるし、
他の人たちとは理解し合えないんです。」
プリピャチに限らず、多くの町が原発事故によって捨てられました。
日常の生活を突然に奪われた人たちの苦しみは、今も続いています。
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