2 名古屋(前編)
1 名古屋への転居
この年、1963 年4月に幸雄が東大理学部から名古屋大学プラズマ研究所へ転勤した。 プラズマ研究所は 1961 年4月に創設されたが、この年に理論の2番目の講座が付いたのでその助教授として着任したものである。
この転勤は伸子にとっても極めて重大な出来事である。 幸雄について名古屋へ行くとなれば、伸子は実践女子大を辞めて、あれほど生き甲斐を感じていた若い学生達との生活を離れなければならない。 また 生まれたばかりの知子を抱えて、友達や知人のほとんど居ない名古屋で生活しなければならない。 しかし、伸子の父 長作は常日頃から伸子に『何でも幸雄さんに一番よいようにしなければいけない』と言い聞かせていた。 そして 伸子もこの転勤の話が出たとき、いやな顔ひとつ見せず、むしろ勧めてくれた。 これは私が伸子に感謝するもっとも大きなものの一つである。
この転勤に伴って 幸雄は4月12日に名古屋へ行き、とりあえず研究所が世話してくれた、北区上飯田の近くにある、新築されたばかりの日本住宅公団御成通アパートの一戸に入居した。 そして伸子も3月一杯で実践女子大を退職し、5月25日に知子を連れ、中橋の母に付き添って貰って来名し、公団住宅に合流した。 この時、知子は生後8ヶ月足らずであった。
母は3泊ほどして東京へ帰り、親子3人だけの名古屋の生活が始まった。
その頃 名古屋で伸子が何でも語り合える友人としては、池上英雄氏の夫人、昌子さんが居た。 池上氏は以前は通研に勤めて東大木原研にも出入りし、幸雄とも知り合っていたが、幸雄より早くプラズマ研に就職し、池下の公団住宅に住んでいた。 伸子も以前に幸雄と一緒に東京で浜田山にあったお宅に伺い、その頃生まれたばかりの高志君が布団に寝ている横で昌子夫人と大いにおしゃべりして意気投合した仲であった。 名古屋に移った頃は、伸子は名古屋の先輩として、また子育ての仲間として大いに頼りにして交際していた。
2 仲田住宅RJ棟への転居
こうして公団住宅での生活がどうにか軌道に乗り始めたその年の8月中頃になって、研究所が申し込んでいた公務員住宅が当たったので入居して欲しい、との話になった。 場所は仲田住宅である。 見に行った所、それはかなり古い建物の4階で、今の新しく明るい公団住宅と比べて広さもやや狭く、壁なども大分黒ずんでおり、幸雄はあまり気が進まなかった。 しかし 伸子はいやな顔ひとつ見せずにこの転居を承知してくれた。 そして研究所でも壁をすっかり塗り直すなどの手入れをしてくれて、10月19日に引っ越した。 新しい住居は千種区北千種町にある合同公務員宿舎、仲田住宅RJ42である。
この住居に移って大きかったことは、大久保さんと知り合ったことである。 大久保さんは我々の住居と同じ建物、同じ階段の3階、RJ31にお住まいだった。 そして大久保家には知子と同じ年齢で生まれが約1ヶ月遅いだけの女の子、佳子ちゃんが居られ、しかも大久保良子夫人は学科こそ国文科卒業で伸子の家政科とは違っていたが、同じ実践女子大学の後輩であった。 そこで伸子はすぐに夫人と意気投合し、子育てをはじめ、何でも相談して一緒にするようになった。
その後も子供のことを中心にずっとお付き合いを続け、何かにつけてお世話になったりして、知子が無事に育ったのも大久保さんのお陰を被った所が大きい。 そして大久保さんとのよき交友関係は子供が大きくなって手を離れた後も、伸子が亡くなるまで途切れることはなく続いた。
3 市邨学園短大
そのうちに市邨学園の話が始まった。 最初はまだ公団住宅に居た7月の中頃に服部イクさんが訪ねてきたことに始まる。 服部さんは旧姓を「柿原」と言い、伸子の実践女子大学家政科での同級生で、結婚して市邨学園の経営者の一族となられた方である。 この時の話は、今度 市邨学園で家政科を一つの柱とする女子短期大学を創設する計画があるので 相談に乗って欲しい、というようなことだったようである。 恐らくは家政科創設に当たって 染野先生に相談され、名古屋なら水野さんが居るわよ、ということになったのであろう。
なお 市邨学園の主力キャンパスは仲田住宅RJ棟の道路を隔てたすぐ隣にあり、そこに女子の高校と中学があった。 おそらく学園本部もそこにあったのであろう。 仲田住宅に転居してからは 私たちは毎日 市邨学園を見下ろして生活しており、その意味では非常に親しみを持っていた。
その後 この話は次第に進展したようで、伸子も相談に乗るだけではなく、短大が出来たら教員として加わって欲しい、という話になった。 翌 1964 年の1月末には短大の仕事についての相談で市邨学園を訪問した。 また 3月下旬には、伸子が実践で可愛がられた石川清一先生が市邨学園に来訪し、伸子もお供してついて回った。 石川先生はその時すでに、創設される女子短大の初代の学長に就任されることになっていたようである。
この女子短大に勤務する話は、また学校で若い女の子に毎日接し、一緒にわいわい楽しみながら教え育てることになるので、伸子にとって願ってもない話である。 しかもあの石川清一先生が初代学長として赴任してこられるともなれば なおさらのことである。 しかし その際の最大の問題は、伸子が学校へ行っている間 知子をどうするかである。 開校が 1965 年4月だとすると、その時の知子はまだ満2才半くらいである。 東京では中橋の母に面倒をみて貰っていたが、名古屋にはそのような人は居ない。 幸雄は出勤時間が比較的自由な研究勤務であるとはいえ、毎日 知子の面倒を見ることは出来ない。 と言って、公立の保育園はどこも満員でとても入れそうもなかった。 しかし 伸子はこの困難に臆することなく、色々と考え、模索していたようである。
そのうちに伸子は今池の共同保育所の話にお誘いを受けた。 その話の中心になっていた一人は水田珠枝さんである。 水田さんは名大経済学部の水田洋教授の奥様で、ご自身は女性問題の専門家で、しかもその市邨学園短大で教授に就任なさる予定の方であった。 そして やはり子供の保育の問題をお持ちで、他の人々と一緒に今池交差点近くのあるキリスト教教会の建物で共同保育所を開くことにして、同じ問題を持つ伸子にも参加をお誘い下さったのであった。 伸子はさっそくお話を聞きに伺い、それに参加させて頂くことにした。 そして 1964 年9月21日に満2才になる直前の知子を試しに初めて保育所に連れていって、預かって頂いた。 その時は 伸子が帰ろうとすると知子はなかなか伸子から離れず、泣いて後を追ったそうである。
こうして知子の問題も解決して、伸子も希望通り市邨短大に勤めることが出来ることになった。 ただし この後すぐに幸雄の2ヶ月にわたるヨーロッパ出張があり、その間 伸子と知子は東京の伸子の実家に滞在していたので、知子が今池共同保育所に通いだしたのは12月に入ってからである。
市邨学園短大はこの年の 12 月に設立許可が下り、伸子も入試問題作成を依頼されて試案を作り、染野先生に見て貰ったりした。 そして翌 1965 年の4月に短大が開校した。 伸子も教員の一人として参加した。 ただ 伸子は実践女子大を助手で退職したので、すぐには助教授になることは出来ず、恐らく講師に就任したのであろう。 これより先、前年 1964 年の8月には伸子は東京に滞在中に実践女子大に通って、退職前の仕事を纏めて論文作りをした。 これは短大の教員になるための資格作りもあったようである。 伸子がこの学校で助教授の辞令を貰ったのは、はるか後の 1969 年4月のことである。 なお 学校での直接の上司は茂田信子教授で、伸子はこの先生にも大変可愛がられた。
短大は 1965 年4月 19 日に最初の入学式が行われ、5月1日には伸子が初の授業を行った。 こうして伸子は市邨学園短大に通いだした。 ただし 市邨学園は高等学校などは我々の住んでいた国家公務員合同宿舎「仲田住宅」の隣にあったが、新設の短大は犬山市にあり、通勤にも大分時間を要した。 しかし 伸子はけっして愚痴をこぼさず、知子の送り迎えと学校の勤めとを両立させて 大いに精励した。
一方 このころ、都通り2丁目の市電の停留所近くの名古屋市の都福祉会館に内山保育園が併設,開園した。 そして 今池共同保育所の子供たちも全員そこへ引き取られることになった。 知子も5月4日に内山保育園に移り、それ以後 小学校に上がるまでずっとそこにお世話になった。
4 電話開通
これより先 1965 年の2月に我が家にやっと電話が入った。 このころはまだ電話の事情が非常に悪く、この電話も 1963 年 10 月に仲田住宅に入居してすぐに申し込んだものが1年半近く待たされたものである。 我が家に電話がなかったため、1963 年の暮れに幸雄の父親が亡くなったときは緊急の用件は「電話せよ」との電報を貰い、改めてこちらから公衆電話を使って掛ける、というようなことをしたが、電話が入って色々な連絡が非常に楽になった。
5 胆石手術
1967 年7月に伸子は胆石の手術をした。 実はその年の3月21日に腹痛を起こし、24日に近くの東市民病院で診て貰った結果、胆石があるので手術の必要がある と告げられたが、夏休みまで延ばしていたものである。 手術は東京の伸子の実家の近く、奥沢の大脇病院で行った。 この病院には丁度その頃、福原先生が副院長でおられた。 福原先生は以前に池上夫人の実家である茅野の横井病院に勤務していたことがあり、池上夫人からも信頼出来る先生とお話のあった外科医である。 伸子の手術も福原先生の執刀で、7月12日に胆嚢の全摘出がなされた。 胆嚢の中には直径1cm ほどの石が2つ入っていた。 手術の予後は必ずしもよくなく、伸子は8月22日にやっと退院し、9月2日に幸雄、知子と一緒に名古屋へ帰った。
6 幸雄の自動車運転免許取得
幸雄は前年11月末から自動車学校に通っていたが、1969 年3月14日に運転免許証を受領した。 そして4月下旬に中古の自動車(ブルーバード)を購入し、幸雄の研究所への通勤もこの車でするようになった。 またこれで 幸雄の行動範囲がずっと広がり、5月中旬にはさっそく伸子、知子、佳子ちゃんを乗せ、池上さん一家と車を連ねて、四日市の先の白子海岸へ一泊旅行に行ってきた。 そしてまた何かというと、朝 伸子を名鉄小牧線のターミナルである上飯田駅まで送り、また時々は犬山の市邨学園短大の校門前までも送るようになった。
7 知子の小学校入学
この年の4月には知子が大和小学校に入学し、2日に入学式があった。 内山保育園では夕方5時過ぎまで預かって貰えたが、小学校の低学年では午前中に帰される。 そこでその頃は、伸子が学校へ行く日は 知子は佳子ちゃんと一緒に家に帰り、大久保さんに面倒をみて貰っていた。
8 膠原病発病
1970 年の初夏に伸子は膠原病が発病した。 実はそれよりも大分前から 伸子にはレイノー現象が現れていた。 これは冷たい水に手を入れると指に血の気がなくなり、蝋のようになる症状である。 しかし 手を温めればもとに戻るしで、それほどは気にせず、それで病院に行ったりはしなかった。
膠原病に関連して最初に病院へ行ったのは、膝が痛くなって6月8日に行った東市民病院の整形外科である。 その時 伸子は『膝に水がたまっている』と言われた。 水を抜いて症状は一応治まったので、短大へ行くことは止めなかった。 そして同じ月の12日の診察での検査では「リウマチみたいなもの」との説明を受けた。 その後も時々病院へ行き、7月13日には脚の検査をしたが、リウマチ検査の結果はすべて「−」であった。
夏休みには伸子は知子とともに東京の実家へ行っていたが、身体の調子はよくならず、やや悪化気味とのことで困っていた。 そして 8月21日にお茶の水の順天堂病院で塩川優一先生の診察を受け、そこで初めて「膠原病」のうちの「強皮症」と診断された。 そしてその時 先生は、『この病気は現在の医学では治すことは出来ませんが、症状を和らげ、進行を遅らせることは充分出来ます。 まずはステロイド剤を使って様子を見ましょう』とおっしゃったそうである。
塩川優一先生は、実践女子大学家政学科で伸子が教わり、可愛がって頂いた塩川ふみ先生の弟さんである。 そしてその頃、厚生省の膠原病研究班の班長をしておられた。 その頃までは膠原病は何であれ、発病したら5〜6年の命だと言われていた。 それがこの研究班の活動の結果、最善の治療法が確立し、完治は無理としても、ずっと元気に長生き出来るようになった。 その時期にその治療の第一人者に巡り合わせたのは非常な幸運だった。
こうして伸子の生涯にわたる膠原病との付き合いが始まった。 治療の基本は、まずステロイド剤をたっぷり使って症状を抑え、それが治まったらステロイド剤を減らしていって、最後には病気を抑えて副作用が出ない量にまで下げ、それを維持することにあったようである。
伸子は先生から処方を頂いて名古屋に戻り、実際の治療は名古屋東市民病院の内科と整形外科とを主体として行った。 そして 毎月1回東京へ行って 順天堂病院で塩川先生の診察を受け、その時の状態に合った治療法の指示を頂き、名古屋に戻って東市民病院で治療を受けた。 その過程で一時 ステロイド剤の副作用で顔が丸くなるムーンフェイス症状が現れたが、それも間もなく治まった。
学校の勤めに関しては、勤めを続けていては治療の効果が上がらず、生命の保証もできない、と言うことで、伸子も退職を決意した。 そして茂田先生と相談し、学校側の了解も取って、仕事の整理をして、12月中旬に退職届を提出した。 学校側でも色々と便宜を計らってくれて、実際に退職の手続きがとられたのは翌 1971 年の3月末日である。 伸子も3月24日の卒業式には出席した。
伸子の後任には実践女子大染野研究室で伸子の1年後輩であった寺崎敬子さんが入られた。
伸子は前年8月の診断以来、毎月1回づつ上京して順天堂病院で診察を受けていたが、次第も症状も落ち着いたということで、この年の5月を最後に毎月の診察を止め、半年に1回程度に減らし、次の診察は12月に受けた。
そしてさらに翌 1972 年8月には、病気の現状の精密検査とステロイドの使用量軽減を目的に、伸子は3週間余り順天堂病院に入院した。 その結果 病気の進行を抑える最小量のステロイドが決められ、8月25日に退院した。 そしてそれ以後はこの時に得られた方針を指針にして、名古屋の東市民病院での治療を続けることにした。
9月22日にはまた東京へ行き、23日に順天堂病院で受診した。 その結果は、病気は大体定常になっており、これ以上 良くも悪くもならないでしょう、とのことであった。
9 10棟への転居
その前、1971 年の10月に大久保さんが RJ31 から市邨学園の向こう側の団地、千種東住宅に転居した。 また 12月には池上さんが RM 棟から同じ仲田住宅の 10 棟に転居した。
また 1973 年9月には我が家も同じ仲田住宅の 10 棟 14 号へ転居した。 この時は伸子の足の具合が病気のために良くなく、4階にある今の住居 RJ42 では階段の上り下りが辛い、ということで、早くから1階への転居を要望してあった。 そして この時やっと 10 棟の1階に住居を貰ったものである。 なお この新居の背中合わせの 10 棟 15 号には 伏見康治先生ご夫妻が住んでおられたが、先生はこの年の3月末に定年退官なされていて、我々が入居してまもなく退去され、新横浜の方のマンションに引っ越された。 また 池上さんの住居は同じ棟の隣の階段の4階にあった。
なお 池上さんはこの大分後 1977 年8月に、さらに矢田町住宅へ転居された。
10 知子の中学進学
1975 年3月に大和小学校を卒業した知子は、そのまま地区の中学校、振甫中学に進学した。
11 難病指定
1976 年6月に伸子は名古屋市から難病指定を受けた。 これは東市民病院で診て頂いていた先生方からのお勧めで申請したもので、病名は内科から申請した「汎身性強皮症」と整形外科から申請した「悪性関節リウマチ」との2つが認められた。 この指定によって 伸子は実際は内科、整形外科だけでなく、すべての診療の自己負担分を名古屋市で肩代わりして貰うことになり、治療・薬代をすべて無料にしていただいて、非常に助かった。
12 知子の高校進学
1978 年の4月、知子が名古屋市立向陽高校に進学した。 この年は名古屋の公立高校は2つづつでグループを作り、グループに受験する形を取った。 家から通うのに便利なグループとして、向陽高校と菊里高校との組合せがあり、知子はそれを受験して合格し、向陽高校に振り分けられたものである。 進学校としては菊里高校の方が評判がよかったらしく、入学式の時に校長先生が挨拶の中で 『菊里ならよかったのに、とお思いのご父兄もおありでしょうが、・・・』 というようなことも言われたそうである。 しかし 我が家としては、向陽高校の方が近くの都通り1丁目からバス1本で行けるので、却ってよかったと思っていた。
また この年の4月29日に、伸子の父、中橋長作が勳5等瑞宝章を受けた。 8月には東玉川の家に水野、山内の全員も集まって叙勲祝いの晩餐をした。
13 知子の大学進学
1981 年4月、知子が津田塾大学数学科に進学した。 津田塾大学は向陽高校の受験に関する懇談会で先生から勧められた学校であって、もともと名古屋にはこれぞと思う学校がなく、幸雄も伸子も実家が東京にあることから東京に出すことには少しも抵抗がなく、受験したものである。 津田塾大学の入試は2月18日にあり、伸子も上京して一緒に新宿のホテル「サンルート東京」に泊まって、大学へ赴いた。 そして合格発表は26日にあり、伸子の妹の正子が見に行ってくれた。
3月7日から10日まで3人一緒に上京した。 それは幸雄の伯母の法事があり、さらに幸雄関係のシンポジウムが六本木の日本学術会議であったためである。 その間に伸子と知子は下宿探しをしたが、結局「国分寺女子ハイツ」に入ることにした。 ここは大学の最寄りのJR駅がある国分寺の街にある、女子学生のための民間の新しい施設で、通学にも便利で安全だろう、というのが選択の理由である。 入居者は個室に入り、各部屋には電磁調理器など簡単な炊事設備も付いていた。
4月2日にはまた伸子と知子が上京、同日知子が女子ハイツに入居、6日の入学式に参列して伸子は帰名した。
14 順天堂病院での治療
伸子の病気に関しては、この頃は月に8回から10回ほど東市民病院の内科、整形外科などに通っていたが、特に悪くなることもなく、一応定常になっていた。 そして かねて一度膠原病についての詳しい検査を順天堂病院にお願いしてあったが、1983 年4月に個室が空いたとのことで19日に急遽入院し、無事検査も終わって5月13日に退院した。 そしてその結果もあって 11月に再び入院し、塩川先生のもとで点滴治療を4週間受けて無事退院した。